言語学から見た白村江敗戦の影響②
藤井游惟氏は、白村江の戦い後に日本列島に亡命してきた百済人(白村江帰化人)が、日本語文書の作成に果たしたことの論拠が、他でもない「上代特殊仮名遣い」という現象である、とする。
「上代特殊仮名遣い」については、既に砂川恵伸氏の論考に関連して触れた(08年2月9日の項、08年2月10日の項)が、一般に余り知られていないと思うので、もう一度藤井氏の著書を参照しつつ、整理してみよう。
表音文字の平仮名・片仮名が発明され普及し始めたのは平安時代に入ってからで、奈良時代まで日本語の発音は漢字で表記されていた。一般に「万葉仮名」と呼ばれているが、藤井氏は、『万葉集』には他の表記法も採られているから、漢字の音読み一字が一音に相当する表記法は、「借音仮名」と呼ぶべきである、とする。
「借音仮名」の例は、次のようなものである(『白村江敗戦と上代特殊仮名遣い―「日本」を生んだ白村江敗戦その言語学的証拠』東京図書出版会(0710))。
余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須麻須 加奈之可利家理 (大伴旅人:793番)
ヨノナカハ ムナシキモノト シルトキシ イヨヨマスマス カナシカリケリ
『万葉集』に収録されている4500首以上の歌の中で、「借音仮名」で書かれているのは、全体の1/4程度であるが、統計的判断をするのに十分な量である。
『万葉集』だけでなく、『記紀』や『風土記』の中の歌や註などにも「借音仮名」が用いられているので、当時の発音や文法などを推測することができる。
日本語として使われている漢字の読みには、「呉音」「漢音」「唐音」「慣用音」の4種類がある。
上記の「ヨノナカハ……」という「読み」は、呉音・慣用音に基づくものであって、漢音等の読みでは意味不明になってしまう。
この「借音仮名」を、中国(唐代)の発音辞典(韻書)に照らして分析すると、「キ」「ヒ」「ミ」「ケ」「ヘ」「メ」「コ」「ソ」「ト」「ノ」「モ」「ヨ」「ロ」の13音(とその濁音)が、規則的に二種類の漢字(甲類・乙類)によって書き分けられているという現象が見出された。
例えば、「夜」と「世」は、現代語では同音異義語である。発音における差異はない。
しかし『記紀万葉』の表記においては、「夜」(甲類)と「世」(乙類)が厳密に区別されている。
このような「使い分け」は、奈良時代前半の750年頃までは強固に守られていたが、それ以降急激に混乱して区別がなくなっていき、平安時代(800年代)に入って、平仮名や片仮名が発明された時には消滅してしまう。
旧来は、この甲類・乙類の使い分けは、母音が異なっていたことの反映だろう、と考えられていた。
つまり、奈良時代前半まで、日本語の母音は8種類あり(つまりイ・エ・オの3つの母音に甲・乙2種類があった)、それが平安時代までに5つに収斂した、という考えである。
それでは、僅か数十年程度の間に、どうして母音の数が、8から5に減ったのか?
あるいは、奈良時代前半においても日本語の母音は5つだったとすると、どうしてそれが8つに書き分けられていたのか?
「上代特殊仮名遣い」の存在とその消滅という現象は、日本語史上の大きな謎であると同時に、それに合理的な説明ができる歴史認識こそが、古代史解釈の正解ということになる。
「上代特殊仮名遣い」は江戸時代の本居宣長によって問題の所在が感知され、門弟の石塚龍磨が著した『仮名遣奥山路』(1978年頃発表)によって世にでた。
石塚は、万葉仮名の使われた『古事記』・『日本書紀』・『万葉集』について、その用字を調査して、用字の使い分けがあると結論した。
宣長・石塚らの探究は長く埋もれていたが、東京帝大教授の橋本進吉によって再発見され、1917(大正6)年、「帝国文学」に発表された論文「国語仮名遣研究史の一発見――石塚龍麿の仮名遣奥山路について――」で学会に評価されるようになった。
本当に、母音の数が8から5に変化したのか?
橋本氏以降現在まで、多くの国語学者がこのテーマにチャレンジし、ユニークな研究成果を発表してきた。
「上代特殊仮名遣い」の存在とその短期間における消滅という現象は、日本語史における最もミステリアスでスリリングなテーマだということができる。
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