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2008年4月15日 (火)

藤井游惟氏からのコメント

私のブログは、別に自慢をするわけではないが、ロングテールの最たるものである。
しかし、「Web2.0」のお陰で、一定期間を累積すれば、それなりに広いリーチを持つことになり、思いがけない読者と出会うこともある。
例えば、藤井游惟さんという人が、ブラウジングしている中で、私のブログにヒットし、貴重なコメントを寄せて頂いた(08年3月5日の項)。
藤井さんは、『白村江敗戦と上代特殊仮名遣い―「日本」を生んだ白村江敗戦その言語学的証拠』東京図書出版会(0710)という書を著された方である。
同書の奥付によれば、千葉県柏市で生まれ、すぐに大阪に転居されたとのことである。早稲田大学で東洋史を学び、大学院で社会学課程を修了した。
外国人に日本語を教えながら、社会発展の法則性を探る社会学者として自己規定されている。

私たちは、小・中学校以来、「大化改新」についてはさまざまな形で教えられた記憶があるが、「白村江の戦い」については余り記憶がないという人が多いのではないだろうか。
笹山晴生『日本古代史講義 』東京大学出版会(7703)では、以下のように記述されている。

(倭国は)斉明天皇が九州で病死した後も中大兄皇子は作戦指導を続け、六六二(天智称制元)年春、大軍を朝鮮に送り、豊璋を国王とし、大量の軍需品をも援助した。遺臣の軍は一時大いにふるったが、ほどなく君臣の反目を生じ、豊璋が軍事指導者たる福信を殺害したため、軍隊は動揺を来たし、一方唐は、六六三(天智称制ニ)年にいたり、増援軍を百済に送り、文武王のひきいる新羅軍とともに遺臣の軍の拠った周留城を攻めた。同年八月、日本の水軍は、劉仁軌らのひきいる唐の水軍と錦江河口の白村江に決戦し、兵船四百艘を焼かれる決定的な敗北を喫した。その結果周留城は陥り、豊璋は高句麗に逃れ、日本軍は多くの百済人を伴って帰還し、朝鮮の動乱への軍事介入は完全に失敗に帰した。

上記のような記述で、それが古代史における対外活動の大きな失敗の事例であることは示していても、日本史上の有数の事件であった、などという雰囲気の記述ではない。
それはもちろん、『日本書紀』自体がそういう書き方をしているからである。
『日本書紀』は、以下のように記す(宇治谷孟『日本書紀〈下〉』(8808))。

(八月)十七日に敵将が州柔(ツヌ)に来て城を囲んだ。大唐の将軍は軍船百七十艘を率いて、白村江に陣をしいた。二十七日に日本の先着の水軍と、大唐の水軍が合戦した。日本軍は負けて退いた。大唐軍は陣を堅めて守った。二十八日、日本の諸将と百済の王とは、そのときの戦況などをよく見極めないで、共に語って「われらが先を争って攻めれば、敵はおのずから退くだろう」といった。さらに日本軍で隊伍の乱れた中軍の兵を率い、進んで大唐軍の堅陣の軍を攻めた。すると大唐軍は左右から船をはさんで攻撃した。たちまち日本軍は破れた。水中に落ちて溺死する者が多かった。船のへさきをめぐらすこともできなかった。朴市田来津は天を仰いで決死を誓い、歯をくいしばって怒り、敵数十人を殺したがついに戦死した。このとき百済王豊璋は、数人と船に乗り高麗へ逃げた。

軍事的な敗北について触れてはいるが、9年後の「壬申の乱」に1巻を費やしているのに比べ、いかにも薄い記述であると言わざるを得ない。
まあ、「負け戦」を詳細に記述しないという編纂者の気持ちは分からなくもないが、しかし、歴史書としてはそういうわけにはいかないだろう。
まして、白村江の戦いは、日本古代史上における最大級の出来事であった。

白村江の敗戦によって、「この国のかたち」は根本から変わらざるを得なかった、ということができる。
それを訴求してきたのは、大和王朝よりも以前に九州に王朝が先在した、とするいわゆる古田史学である。白村江の敗戦によって、日本列島を代表していた九州王朝=「倭国」が滅亡し、近畿を中心とする「日本」がその立場に立つことになった、とする。
そして、古田史学の中の異説論者ともいうべき室伏志畔氏は、『白村江の戦いと大東亜戦争―比較・敗戦後論 』同時代社(0107)を著して、白村江敗戦の意義について考察している(07年9月22日の項)。
また、古田史学とは独立した立場から、鈴木治氏が、『白村江/敗戦始末記と薬師寺の謎』学生社(6212)において、白村江敗戦の長期に渡る影響を指摘していることも既に紹介した(08年3月7日の項)。

藤井氏の新著は、全く新しい視点に立って、白村江敗戦の影響について論じたものである。
その視点とは、天武朝以降の律令制建設の実務を支えたのが白村江敗戦による亡命百済人たちであり、日本古代史の貴重な史料である『記紀』や『万葉集』を書いたのも彼らであった、ということである。

藤井氏は、「前後に接続する母音や子音、アクセントなどの「条件」に従って規則的に現れる「異音」を「条件異音」と呼び、母語の条件異音は聞き分けることができず、それができるのは言語的外国人だけであるという。
上代特殊仮名遣い(08年2月8日の項08年2月9日の項)は、亡命百済人が聞き分けた古代日本語だったということになる。

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