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2008年4月 2日 (水)

大化改新…⑥否定論(ⅲ)

原秀三郎氏らの日本史研究会古代史部会は、1964年から約3年間、大化改新についての共同研究を実施する。
原氏によれば、それは改新否定説を説得的なものにするための十分条件を追究するものであった。
この共同研究の成果として、原氏は次の3点を挙げる(前掲書)。

1.大化改新の研究史的位置づけ
大化改新を、明治維新、鎌倉幕府開設とならぶ三大改革と位置づける見方は、近代天皇制イデオロギーによって捏造されたものであり、それが定着したものであること。
中世以前には、大化改新は、壬申の乱以上に重視されていなかった。近世になって、新井白石や本居宣長は、大化の政治改革は、悪政として否定的に捉えられてきた。
それが積極的な肯定的評価をされるようになったのは、明治維新との対照でその意義が論じられるようになってからで、明治20(1887)年前後からである。
大正期には、社会経済史学が勃興するのに伴い、改新を、氏族制度から古代国家への移行の画期として位置づける見方が現れてくる。
昭和に入ると、『日本書紀』の批判的研究をベースにした津田左右吉が、「改新は政治制度に関するものであって、社会変革としての要素はなかった」とする見解を発表する(『大化改新の研究』(1930、31))。
津田は、社会経済史における階級闘争史的見方を排し、日本民族史の特質を、皇室中心の社会生活と思想の一貫性に求めた。
また、『日本書紀』の記載をそのままうけとらず、本文の批判的検討を行った。
この津田の研究に対し、反論を加えたのが、坂本太郎であった。
坂本は、『日本書紀』の史料的信頼性を強調し、結果的に皇国史観を補強した。その結果、大化改新が明治維新とならぶ王政復古の大改革とする評価が確立した。
敗戦後には、井上光貞が、津田の『日本書紀』の批判的研究を前進させたが、改新詔そのものを疑うことはせず、原詔の存在を肯定するものであった。
つまり、原詔は宣命体の文章で、それが現詔の漢文体にされる過程で、浄御原令あるいは大宝令による修飾が加えられたとするものである。
原氏は、これらの研究史の大筋を回顧し、改新が近代天皇制によって、美化され、称揚され、虚像として捏造されてきた、と総括する。

2.大化年号への疑惑
原氏らの共同研究の成果の第二は、「大化」という年号の存在に関してである。
『日本書紀』によれば、孝徳朝で大化年号が建てられ5年続き、その後白雉に改元されて5年続き、いったん途絶えて天武15年に朱鳥と改元されたが、その年に天武が死去したため、朱鳥はこの1年で終わっている。
古代年号については、特に「九州年号」と呼ばれるものとの関連で、さまざまな議論がある(08年1月7日の項)。
大化改新については、当然、その「大化」という年号自体の吟味がなされてしかるべきであったにも拘わらず、原氏によれば、原氏らの共同研究が、1965年に『“大化改新”への分析視角』として取り上げるまで問題にされてこなかった。

3.『日本書紀』編者の「大化改新」観の検討
第三は、『日本書紀』の中で、改新はそれにかかわった人物や事件を検討し、その中の作為や虚構を明らかにしたことである。
例えば、藤原鎌足の理想化と蘇我氏の専横非道ぶりなどに作為をみるという視点である。
特に、門脇禎二氏から、蘇我氏の蝦夷、入鹿などという呼び名が、通称と異なり『日本書紀』編者によって命名されたものではないか、あるいは難波遷都は蘇我氏が実権を握っていたとする大化元年の前年にその動きがあったのではないか、という提起があり、乙巳の変による入鹿殺害の政治史的意義が、さほど決定的意義を持つものではない、ということが主張された。

原氏は、「改新否定説」の研究成果は、上記以外に広範囲に及び、旧来の因習的な見方から解放して、自由な観点を提供することになった、とする。

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