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2008年4月 8日 (火)

大化改新…⑫東国国司派遣について

『日本書紀』によると、孝徳天皇は、皇極4(大化元)年6月14日に即位すると、すぐに体制を整え、8月に東国へ国司を派遣した。

八月五日、東国の国司を召された。国司らに詔して、「天つ神の命ぜられるままに、今はじめて日本国内のすべての国々を治めようと思う。およそ国家の所有する公民や、大小の豪族の支配する人々について、汝らが任国に赴いてみな戸籍をつくり、田畑の大きさを調べよ。それ以外の園地や土地や用水の利得は百姓が共に受けるようにせよ。また国司らはその国の裁判権をもたない。他人からの賂をとって、民を貧苦におとしいれてはならぬ。京に上る時は多くの百姓を従えてはならぬ。ただ、国造、郡領だけを従わせよ。……

原秀三郎氏は、この詔の中の「大小の豪族の支配する人々」の解釈について問題にする。
坂本太郎他校注では、「凡そ国家(アメノシタ)の所有(タモテ)る公民(オホミタカラ)、大(オホ)きに小(イササケ)けに領(アヅカレ)る人衆を」となっている。
この「大きに小けに」の部分を、大小の豪族という意味に解釈すると、国家の所有と大小の豪族の所有という対概念になるが、そうではなくて、国家の所有する公民を「大量に預かっている場合も、少しだけ預かっている場合も」というように同格に解釈すべきだ、というのが原氏の主張である(『「大化改新」論の現在』(青木和夫、田辺昭三編著『藤原鎌足とその時代―大化改新をめぐって 』吉川弘文館(9703)所収)。

つまり、国家の所有(公民)と大小の豪族の所有(私有民)と対概念で捉えると、民部・家部ということに相当するが、そうではなくて、王領の民の調査をするということであり、それは大化改新の原則とは矛盾している。
改新は第一条において、公地公民の原則を示している(08年4月3日の項)。しかし、ここではそうではない。
それは、改新の前に王民の調査を始めよ、ということである。

原氏の解釈は、孝徳は、即位して王領の調査を始めた。そしてそれと並行してコホリ=評制を順次施行していったのではないか。
東国国司については、大化2年3月2日に、「……法に従った者は褒めるが、違反した者は遺憾である。……先の勅に従って裁断することにする」とあり、3月19日には、その裁断結果が発表されている。
原氏は、この処分はいかにも早すぎるのではないか、とする。

原氏の見解は、「孝徳天皇は、大化5(649)年に即位して、翌650年に白雉と年号を改め、白雉5(654)年に死去したのではないか」(08年4月4日の項)であり、この部分について、次のように解釈する。
①大化5年に、東国国司詔が出て、評制の施行が行われる。
②翌年の白雉元年3月頃までに悪い噂が中央に来る。
③白雉2年頃に調査を命じ、白雉3年頃に処断が下された。
④『常陸国風土記』などの史料をみると、最初に評制が施行されたのは、香島の神郡で大化5(649)年である。
⑤孝徳は、率先垂範してまず王領を再編成し、それから豪族の領民へ拡大していった。
⑥つまり、評制は一斉に施行されたのではなく、徐々に施行されて行った。
⑦白村江の敗戦の後、民部・家部が制定されて、私有権が制限されようになる。

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