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2008年4月28日 (月)

山本七平の『「空気」の研究』

「空気」という言葉で思い出すのは、山本七平氏の『「空気」の研究 』文春文庫(8310)である。
山本七平氏は、山本書店という出版社の社主だったが、同社から刊行されてベストセラーになった『日本人とユダヤ人』の著者であるイザヤ・ベンダサンその人だと考えられている。

山本氏は、われわれが何かを判断するときの基準に「空気」が大きな役割を担っている、という。
その代表例として、「文藝春秋」75年8月号に掲載された『戦艦大和』(吉田満監修構成)を挙げる。

全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う」(軍令部次長・小沢治三郎中将)という発言がでてくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確な根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら「空気」なのである。

そして、このような判断の下し方が、「大和の出撃」について特別だったのではなく、ごく一般的に行なわれているものであることを示す。

われわれが「空気」に順応して判断し決断しているのであって、総合された客観情勢の論理的検討の下に判断を下して決断しているのでないことを示している。だが通常この基準は口にされない。それは当然であり、論理の積み重ねで説明することができないから「空気」と呼ばれているのだから。従ってわれわれは常に、論理的判断の基準と空気的判断の基準という、一種の二重基準(ダブルスタンダード)のもとに生きているわけである。そしてわれわれが通常口にするのは論理的判断の基準だが、本当の決断の基準となっているのは、「空気が許さない」という空気的判断の基準である。大和の出撃はそのほんの一例にすぎない、と言ってしまえば、実に単純なのだが、現実にはこの二つの基準は、そう截然と分かれていない。ある種の論理的判断の積み重ねが空気的判断の基準を醸成していくという形で、両者は一体となっているからである。いわば議論における論者の論理の内容よりも、議論における言葉の交換それ自体が一種の「空気」を醸成していき、最終的にはその「空気」が決断の基準となるという形をとっている場合が多いからである。

この説明は見事だと思う。私の体験にも見事に合致する。
まあ、日常生活の多くのことは、「判断」と言っても、どちらでもいいようなことである。だから、「空気」であろうと「論理」であろうと、どちらの基準であっても大きな問題ではない。
しかし、「大和の出撃」となると事情は異なる。
あるいは、そもそも開戦を決めた御前会議はどうだったのか?
やはり、「開戦止む無し」という「空気」ではなかったのか?

いま、場の空気を読むことの重要性が言われている。
場の空気とは、コミュニケーションの場において、言語では明示的に表現されていない諸要素のことであると説明されている。
明示的に表現されていないことを理解する力であるから、一種の暗黙知である。
言葉で明示的に表現されることは、全体の一部に過ぎないから、空気を読むことが必要であり、重要であることは当然である。
しかし、いま「KY」などとして、空気が読めないことを、ことさらに強調して否定的に捉えることには疑問がある。

「KY」の行きつく先には、「魔女狩り」があり、異端の説は存在を許されなくなる。
山本氏の議論で興味深いのは、われわれの祖先は、「空気の支配」に抵抗する術を持っていた、という指摘である。
それは「水を差す」というように、「水」の存在である。
しかしながら、「水」は、伝統的な日本的儒教の体系内における考え方に対しては有効なのだが、疑似西欧的な「論理」には無力だった、とする。
そして、伝統的な日本的な水の底にある考え方と西欧的な対立概念による把握とを総合することによって、新しい「水」を発見することが重要な課題である、としている。
さしずめ、「KY」に対して「MS=水を差す」とでも言えようか。

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