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2008年4月23日 (水)

光市母子殺害事件判決の常識性

昨日、山口県光市の母子殺害事件の差し戻し控訴審の判決が、広島高裁であった。
事件が発生したのは1999年4月14日のことだったから、既に9年前のことになる。
被害者遺族の本山洋さんが、積極的にマスコに登場して被害者遺族の立場を訴えていたから、事件の経緯等については多くの人の知るところだと思う。
この事件については、一審・二審ともに死刑の求刑に対して、無期懲役が言い渡された。
今回の判決は、最高裁が、広島高裁の二審判決を不当として差し戻したことを受けたものであり、この間の事情を考慮すれば、死刑が言い渡されるであろうことは予測できたところでもある。

私は、今回の高裁の判決は、常識に合致した妥当なものだと考える。
もちろん、法の適用は厳格で客観的基準に照らして行われるべきだし、そこに世論の動向や感情論的な要素が入りこむことは極力避けるべきであろう。
しかし、一般的な常識に合致しない判決は、結局は法秩序の安定性を損なうことになるのではないか。
私は、どちらかと言えば、異端の説を尊重する傾向があることを自覚しているし、多数決が正当性を保証するとは全く思わないが、司法的判断に常識の要素は必要だと思う。
死刑とすべきか否かは、いわば人生観に係わる問題である。私の人生観は、このような事件に対しては、たとえ少年であろうとも、死刑が相当だと思うものだ。

裁判員制度が導入されることを考えれば、罪刑の判断基準はオープンにされていることが好ましいだろう。
今回の高裁判決が注目されるのは、その意味で、死刑に対する基準が変更されたものと捉えられることである。
死刑に相当するか否かの判断基準として、「永山基準」と呼ばれるものが採用されてきた。
犯行当時19歳の未成年であった永山則夫が起こした殺人事件を巡って、最高裁で示された基準であり、以下の要素を考慮して決定するというものである。
1.犯罪の性質
2.犯行の動機
3.犯行態様、特に殺害方法の執拗性、残虐性
4.結果の重大性、特に殺害された被害者の数
5.遺族の被害感情
6.社会的影響
7.犯人の年齢
8.前科
9.犯行後の情状

ポイントは、殺害された被害者の数にあるようである。
この判例以降、4名以上殺害した殺人犯に対しては、裁判所が被告人の犯行時の心神耗弱を認定して無期懲役に減刑して判決をした事例を除けば、裁判所は原則としては死刑判決を適用している。
また、1名だけを殺害した殺人犯に対しては強盗や身代金目的誘拐など金銭目的ではなく、殺人の前科がない場合は、死刑判決を回避する傾向がある、ということである。

殺害された被害者の数を基準とする、というのは何ともやり切れないという気がするが、分析的に捉えれば、このような要素になるだろう。
これらの項目は、大体が定量的な評価に馴染まないものである。被害者の数というのは、ある意味で明晰でデジタルな基準である。
上記基準からすれば、今回のように、2名殺害というのは微妙な範囲になるのだろうが、そういう場合には、やはり常識の出馬が必要なのではないか。
私は、今回の光市の事件については、上記の各項目を勘案しても死刑はやむを得ないのではないかと思うのだ。

死刑判決によって、同種の犯罪に対する抑制効果があるとは思わないが、因果応報というのは、少年だから緩和されるべきだとも思えない。
もちろん、社会環境や家庭環境など、個人的な責任に帰すことのできない要因もあるだろうし、将来の更正の可能性も否定できない。
しかし、犯した罪に相当する罰は受けなければならない、というのが常識なのではないだろうか。

それは、被害者遺族としての本村さんの訴求と無関係とは言わないが、それを別にして、死刑が相当だろうということだ。
つまり、年齢等の情状を酌量して、無期刑とした一審・二審の判断は、常識にそぐわないということである。
死刑を求めて発言していた本村さんに対して、被告の元少年には、死刑廃止派の弁護士を中心に、多数から成る弁護団が結成され、その活動が論議の対象になっていた。
例えば、大阪府知事に就任した橋下弁護士が、TVで弁護士会に懲戒請求を呼びかけ、これに応えて7500通に上る懲戒請求が行われたという。

私は、死刑という刑罰が存続すべきか否かは別に論ずるべき問題だと思う。
死刑という刑罰が法定されている以上、その適用要件についての論議はあっても、死刑を避けるべきだという判断が前提とされるのは間違いであろう。

最近、常識的な視点からみて、いかがなものかと思う司法判断も少なくない。
その典型例は、今年の1月8日の福岡地裁判決である。
飲酒運転で追突事故を起こし、3人の子どもを死亡させた福岡市職員に対して、「危険運転罪」の成立を認めなかった。
法曹の専門家の多くは、この判決を法の適正な適用と評価しているようであるが、市民としての感覚から著しく逸脱したものではなかろうか。
もし、この事故に「危険運転罪」を適用しないとすれば、どのような要件を満たせば同罪が適用されるのか?
法の適用条件の解釈以前に、基本的な事実関係についての認識不足が招いた判決だと思う(08年1月9日の項)。

私は、光市の事件の弁護団の主張自体が非常識だとは、必ずしも思わないし、主任弁護人としてマスコミに登場している安田好弘弁護士も、人権派として敬意を表するにやぶさかではない。
被告に有利なように活動するのは、弁護士の本来的な役割である。
しかし、大局的な判断において、大きなミスを犯しているとせざるを得ないだろう。
というのは、今回の判決によって、たとえ少年であったとしても、厳罰に処するべきはそうすべきだ、という流れになっていくであろうからである。
それは、弁護団の意図した、死刑廃止の方向とは結果的に逆行するものになる。
裁判員制度というものが導入されるが、果たして本当に妥当な判断ができるのか、わが事として考えると、正直に言って、いささか心もとない。

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