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2008年4月 1日 (火)

大化改新…⑤否定論(ⅱ)

改新詔の凡条が、大宝令によって述作されたものであるという岸俊男氏の見解は、「郡評論争」の結果によって、その正しさが証明されることになった。
改新詔第二詔には、郡および郡司に関する規定があり、主文や凡条にある郡や郡司という語が、改新当時のものであったのかどうかが議論されていた。
金石文などでは、郡は評、郡司は評造あるいは評督などと表記されている場合があり、郡あるいは郡司という語句は、大宝令あるいは浄御原令以降に使われたのではないか、とする疑問である。
これについては、藤原宮出土の木簡により、699年まで、評が使われていたころが明らかになり、郡の使用が大宝令に始まることが明らかになった。
郡評論争に決着が着いたのと同時に、改新詔の凡条が、大宝令によって修飾されたとする岸氏の見方が裏付けられたことになるわけである。

原秀三郎氏は、岸俊男氏から、改新詔を根底から疑ってみるという視点を教示されたことになる。
そして、改新詔第一詔の吟味の検討に着手した。
第一詔は、第二詔以下が主文と凡条という構成になっているのと異なり、主文と凡条とに分かれていない。
大化改新が日本史上の画期であるとされるのは、土地人民の私有を廃して公地公民という原則を打ち出し、その原則のうえに、官僚制、軍事、交通、租税などの諸制度を実施した点にある。
第一詔は、子代、屯倉という皇室財産と、部曲、田荘という諸豪族の私有財産を廃し、かわりに食封を大夫以上のものに与え、それ以外の官人、百姓には布帛をあたえることが記されており、公地公民の原則を宣布したものとされてきた。
第一詔は、第二詔以下の諸政策を根本で支える扇の要の役割を果たしている、ということになる。
その第一詔の信頼性が崩れるということは、大化改新の全体像を問い直すことを意味する。

公地公民に関しては、第三詔が、人民の戸籍、計帳をつくり、班田を行うことをさだめている。
この第三詔が、岸俊男氏の検証したように大宝令によって造作されたものだとすれば、第一詔についても見直すことが必要になってくる。
班田の実施は、白雉3(652)年の記事を造作したものとみれば、持統4(690)年の庚寅年籍にもとづき、持統6(692)年に、班田大夫宇らを四畿内に遣わしたという記事までくだることになる。

原氏は、律令制の大原則ともいうべき公民制が、いつどのような過程で成立したかを、改新詔以外の史料から判断することを考えた。その結果を、第一詔とつきあわせてみようということである。
その結果を、1967年から1968年にかけて、『大化改新論批判序説-律令制的人民支配の成立過程を論じていわゆる『大化改新』の存在を疑う』という論文にまとめ、『日本史研究』誌上に発表した。
原氏の検討結果を要約すれば、以下のようである。

確実な史料にもとづいて公民制の成立過程を検討すると、天智天皇3(664)年に、民部=国家の民と、家部=大・小氏上の民との区別が立てられ、天智天皇9(670)年の庚午年籍を経て、壬申の乱後の天武天皇4年の部曲の廃止によって、はじめて公民制とよぶべきものが成立したことが明らかになった。
つまり、公地公民の原則に立って私地私民を廃し、その代償として食封を支給するなどという具体的な施策は、天武天皇4年以降になってはじめて可能な事柄である。
言い換えれば、改新第一詔が、大化2年正月1日に宣せられたということはあり得ない。改新詔の信頼性は根底から覆され、大化改新という一大政治改革は、『日本書紀』の作為のうえに、近代歴史学が上乗せした虚像に過ぎない。

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