大和政権の朝鮮進出行動
大和政権と朝鮮半島の係わりについての通説的認識を、笹山晴生『日本古代史講義』東京大学出版会(7703)によって概観してみよう。
中国では、3世紀末になると、北方・西方の匈奴・羯(ケツ)・羌(キョウ)・氐(テイ)・鮮卑などの異民族の動きが活発となった。魏を滅ぼした晋が280年に中国を統一したが、316年にはこれらの異民族に押されて滅び、江南地方の移って東晋を建国したが、中国北部には、これらの異民族が割拠し、1世紀余にわたって、五胡十六国と呼ばれるように、多くの王朝の隆替が繰り返された。
華北では5世紀に鮮卑系の北魏が諸族を統一し、江南には宋がおこって、6世紀末まで民族の異なる王朝が南北に分かれて交替を続ける南北朝の時代となった。
中国が分裂状態に入り、支配力が衰えると、東アジアの諸民族にも大きな影響を及ぼした。
朝鮮では、中国の直轄支配の拠点、楽浪・帯方の二郡が、313、314年に高句麗に滅ぼされ、高句麗が朝鮮半島北部を領有した。
南部の韓族社会でも小国統一の動きが進み、南西部では346年に馬韓諸国が、南東部では356年に辰韓諸国が統一され、それぞれ百済、新羅になった。
このような動きに対し、日本列島に近い弁韓地方は統一が遅れ、小国の分立状態が続いていた。
3世紀末から4世紀中葉にかけて、中国の史書などでは日本列島の様子が覗えないが、大きな政治的変動があったと想定される。
畿内に中心をもつ政治勢力=大和政権が発展して、九州北部から中部地方に及ぶ地域に支配を及ぼした。
それは古墳の出現・波及という考古学的事実があるからで、わが国の古墳は、3世紀後半以後、瀬戸内海沿岸から畿内にかけての西日本に、前方後円墳という独特の形式をもつものとして出現した。
前方後円墳は、形式、副葬品の組み合わせ、埋葬施設などの点で、画一的な性格をもっており、それは各地の首長層のあいだの緊密な政治的結合と、その頂点に立つ政治勢力としての大和政権の存在を考えなければ理解できない。
大和政権は、5世紀に入るとめざましい発展をみせるが、その動因は4世紀後半に始まる朝鮮半島への軍事的進出であった。
313年の楽浪郡の滅亡後政治的真空状態が生まれたが、新興の百済・新羅を間に挟んで、高句麗と倭(日本)が進出を図った。大和政権は、地方の政治集団を服属させる過程で、鉄を中心とする資源を求めて、朝鮮半島南部に手をのばしたものと考えられる。
『日本書紀』の神功皇后紀に次の記述がある。
五十二年秋九月十日、(百済の)久氐らは千熊長彦に従ってやってきた。そして七枝刀一口、七子鏡一面、および種々の重宝を奉った。
現在、天理市の石上神宮に伝わる七枝刀は、この時の刀と推定されるが、七枝刀の銘は、大和政権が鉄を求めて朝鮮に進出した事情を示していると解釈されている。
高句麗の広開土王碑には、404年に倭が帯方郡の故地に迫ったが、広開土王がこれを撃退したことが記されている。
中国王権の支配力が衰え、東アジアの政治秩序が崩壊した間隙をついて朝鮮半島への進出を狙ったものであり、高句麗との戦闘により軍事力が強化され、鉄資源や文明の独占によって、大和政権は王権を強化していったと考えられる。
5世紀に入っても、倭(日本)は依然として弁韓(任那)地方を中心に勢力を保持し続けたが、高句麗の勢いが強まり、倭の軍事行動は活発さを失っていった。
倭の五王の時代、倭国は朝鮮南部の支配を維持するために腐心したが、5世紀末になると、任那諸国お間で、倭国の支配から脱して自立しようという動きが顕著になってきた。
高句麗に北方の領土を奪われた百済は、南方への進出を図り、任那西部の領有の承認を大和政権に求めた。
朝廷は、高句麗に対抗する百済を支援する立場からこれを承認し、任那諸国が倭国の統制を離れる傾向が一段と強まった。
継体天皇の朝廷は、任那の倭国勢力の後退を防ぐため、527年に、近江毛野の率いる6万の軍兵を派遣した。
この時、筑紫国磐井が新羅と結んで九州北部で反乱をおこしてその軍をさえぎったため、物部麁鹿火を遣わして、528年に磐井を切って平定した。
朝鮮半島に渡った近江毛野は、大和政権による任那支配の機関であった日本府を加羅(大加羅)から安羅に移した。
任那については、百済と新羅が争奪戦を繰り返していたが、552年に新羅が漢江流域の百済領を奪い、西海岸への進出を果たして、任那諸国の主導権を握ることになった。
新羅は、562年に任那諸国を完全に制圧し、大和政権による朝鮮支配は終りを告げた。
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