言語学から見た白村江敗戦の影響
藤井游惟氏は、白村江敗戦の影響を言語学的な視点から推論する。
そして、律令制創建が、白村江敗戦の副産物だったという結論を得る。
藤井氏は、7世紀末から8世紀前半の律令制草創期に編纂された『記紀万葉』の表記法から発見された「上代特殊仮名遣い」(08年2月8日の項、08年2月9日の項)を分析すると、それが日本語以外の言語を母語とする「言語的外国人」が、日本語を聞き取り、表記したものと考えざるを得ない、とする。
それは誰か?
森博達『日本書紀の謎を解く―述作者は誰か』中公新書(9910)は、『日本書紀』の漢字の音韻や語法を分析して、渡来中国人が著したα群と日本人が書き継いだβ群を区分けした。
藤井氏は、『日本書紀』のβ群、『古事記』、『万葉集』、『風土記』などに表れる「上代特殊仮名遣い」の書き手は、白村江敗戦で大量に亡命してきた百済帰化人の一世・二世・早期の三世の世代だった、とする。
つまり、『記紀万葉』は白村江敗戦の副産物として成立したものであって、ということは、律令制の立案や施行の文書事務にも彼らが関与していたはずであって、彼らの存在なくしては、律令制国家建設そのものが不可能だった、ということになる。
通説的理解では、645年の乙巳の変の後の「大化改新」から701年の大宝律令の公布まで、約半世紀の間に、国内の社会制度や教育制度が整備され、人材が育って律令制が施行された、ということになる。
律令制は、非常に合理的な制度ではあるが、この制度を立案し、施行するためには、数多くの実務官僚を必要としたはずである。
そのような実務官僚は、古代史の展開の上で自然発生的に生まれていたのか?
日本史上における「文書」作成量は、663年の白村江の敗戦以後、急速に増大する。
それ以前は、稲荷山鉄剣のような希少な金石文と推古朝に書かれたとされる『元興寺露盤銘』、『中宮寺天寿国曼荼羅繍帳銘』などで、これらは推古朝遺文と称されているが、その制作年代については疑問とされている。
ところが、663年の白村江敗戦以後、670年に「庚午年籍」が作られたのを初めとして、日本国内の文書作成量が著増する。
681年:天武天皇が律令編修と史書編修の詔を下す。
689年:「飛鳥浄御原令」完成。
690年:「庚寅年籍」作成。
701年:「大宝律令」完成公布。
712年:『古事記』完成。
713年:「風土記」編纂の詔。
720年:『日本書紀』完成。
また、出土する木簡も殆んどが白村江敗戦後に書かれたものである。
それは、白村江の敗戦によって、大量の「読み書きができる人材」が日本にやってきたからに他ならない。
白村江の戦いの後、大勢の百済の王族・貴族・官僚およびその家族が日本列島に移住している。
実際に、『日本書紀』には、次のような記述があり、大量の百済人が渡来してきたことがうかがえる。
(天智四年春二月)
百済の民、男女四百人あまりを、近江国の神崎郡に住ませた。(天智五年冬)
百済の男女二千余人を東国に住まわせた。(天智八年)
佐平余自信・佐平鬼室集斯ら男女七百人余人を近江国蒲生郡に移住させた。
これらの帰化人は、一般庶民ではなく、王族・貴族・官僚およびその家族であって、さまざまな特技を持っているだけでなく、当然のことながら読み書きができる教養人だった。
7世紀後半に文書作成量が増えるのは、数多くの亡命帰化した百済人が存在したからであった、というのが藤井氏の主張である。
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