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2008年4月12日 (土)

大化改新…⑯異説(ⅳ)武蔵義弘

武蔵義弘『抹殺された倭王たち―日本古代史へのこころみ』理想社(0406)は、異端という程ではないが、通説ともやや異なった視点から大化改新を論じている。
武蔵氏は、先ず「大化」年号を問題にする。
『日本書紀』では、蘇我本家滅亡のあと、わが国最初の年号として、「大化」が制定された。
しかし、「大化」年号が実在した物証は、宇治橋断碑しかなく、この碑文が信じられるものであったとしても、大化建元が645年のことであったかどうかは疑問が残る。

大化、白雉と続いた年号が、孝徳一代で立ち消えになったのはなぜか?
本格的な年号の復活は文武天皇のもとで「大宝」が建てられて以降のことであり、50年近くも断絶していた。
孝徳天皇は、「仏法を尊び、神道を軽(ソシ)りたまふ」と書かれ、儒者を好むとされている。武蔵氏は、これを「外国かぶれ」だったとする。
孝徳朝で国博士という政治顧問に就任した僧旻と高向玄理は、ともに中国に留学した経験を持つ知識人だった。
孝徳は、この2人からの情報によって中国の文物制度への憧れを持ち、年号を制定して、冠位の制を拡充sるなどの刷新を試みた。
しかし、孝徳の中国趣味は周囲から理解されず、后を含め飛鳥に引き上げてします。そして、孝徳は、孤独のうちに難波宮で没する。
『日本書紀』の編纂者は、近江朝の治績を引き下げる目的で、改革の淵源は孝徳朝にあったというように編集したのではないか。

武蔵氏は、「国司」制度の成立について検証する。
孝徳天皇は「改新の詔」の半年前、645年8月5日に、「今始めて万国を修めむとす」と、「東国等の国司」の任命を行なったと『日本書紀』は記載する(08年4月8日の項)。
9月19日に一斉に出発した彼らの任務は、人口調査、検地、武器の没収と国ごとに集中管理させることにあった。
翌年3月までに帰還し、評定を受け、所定の任務を果たしたとしてとがめを受けずに済んだのは、8チームのうちの3つだけだった。
しかし、そのとがめを受けた原因は、馬を私的に使ったというような職権乱用に限られており、与えられた任務については、それぞれ完了したかのように記述されている。

しかし、1チームは24名で構成されていたというが、その人数で、人口調査、検地、武器没収という所定の任務を、所定の期間で完了したということが不自然ではないか。
東国とは、のちの東海道、東山道、北陸道の総称で、実際にはこの時点で朝廷の支配が及びえたのは美濃・尾張までだったようだが、実際に国司が派遣されたのは、畿内だけではなかったのではないか。
孝徳朝の段階では、「倭国」の範囲は、畿内地方に限られたもので、その範囲内で行政刷新を試みたとみるべきだろう。
「今始めて万国を修めむとす」という言葉自体が、それ以前には統治が万国に及んでいなかったことを示している。

この状況を変えざるを得なくなったのは、白村江の敗戦がきっかけである。
645年の「乙巳の変」の時点では、唐と新羅の提携が成立するという状況はあったものの、唐の狙いは高句麗の討伐にあって、倭国にとっては対岸の火事というレベルのことであった。
それは蘇我氏本家打倒のあと、百済に対する軍事支援をただちに実行しなかったことからも窺える。
それが、660年の百済滅亡によって、大和政権は危機感を持つに至る。
百済再興の議が計られ、大軍を朝鮮半島に送り込むものの、白村江において唐軍との戦闘で倭国軍は壊滅的打撃を受ける。

この敗戦の直後に、朝廷は「今始めて万国を修めむとす」とふるい立つ。
白村江で壊滅した倭国軍の主力は、瀬戸内海沿岸の国々から集められたが、敗戦によって西国からの兵士募集に期待が持てなくなり、兵士募集の拠点を尾張・美濃などの東国に移さざるを得なくなった。
「東国国司派遣」の内容はこのようなことではなかったか。

さらに、百済や高句麗からの移住者の増加が、近江朝の東国進出を促した。
その結果、従来の倭国の領域を越えて倭王の権限が伸張した。
それが、倭国から日本国への名称変更を促すことにもなった。
近江朝は「壬申の乱」で滅亡するが、大海人皇子が勝利したのは、兵士募集の新たな拠点として開発された尾張・美濃地方の豪族を味方につけたことが大きな要因である。

『日本書紀』では、676(天武5)年に「国司任用」記事がある。しかし、国々の境界が683(天武12)年12月13日では、「諸国の境界を区分させたが、この年区分はできあがらなかった」とあるから、一般的な形での国司任命は無理だったと思われる。
690(持統4)年7月6日に、「大宰・国司もみな遷任された」とある。持統即位の年である。
この辺りで、国司制度が完成したのではないか、というのが武蔵氏の見方である。
一種の大化改新否定論ではあるが、国内事情に限定した見方であるところが、小林惠子氏と対極的である。
しかし、『日本書紀』の記載は、慎重に批判した上で推論すべきであるという点は共通している。

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