藤井史観の大要…倭王朝加羅渡来説
藤井游惟氏は、『白村江敗戦と上代特殊仮名遣い―「日本」を生んだ白村江敗戦その言語学的証拠』東京図書出版会(0710)の第一章で、日本古代史についての認識を披瀝している。
その大要を紹介すれば以下の通りである。
①日本列島の社会が、「歴史」の時代に入るのは、5世紀の「倭の五王」の時代からである。この時代は河内平野の古代古墳群が示すように、河内に権力の中心があった。
倭の五王の最後の一人である倭王武が雄略天皇であることが、埼玉県行田市の稲荷山古墳で発見された鉄剣銘の解読によって、決定的になった(07年9月6日の項参照)。
②雄略天皇が実在したことが確実視されることから、それ以降の日本列島の歴史は、『日本書紀』の記述に基づいて理解されている。
しかし、国家・政権による歴史書は、自らの正統性を主張するものであることに留意する必要がある。
つまり、河内に権力の中心があった時代から、歴史が自律的に発展し、中央集権的な国家が形成された、と考え、さらにそれを遡らせて、神代の時代から自立した国だった、と考え勝ちであるが、それは間違いである。
奈良時代から江戸時代の間は、確かに国際社会の影響を受けない殆んど孤立した社会だった。それが破られるのは、1853年のペリー艦隊の来航であり、明治維新以降、日本社会は国際社会との有機的な関係に巻き込まれることになった。
③日本列島に人類が住み着いたのは約3万年前のことであるとされている(藤村新一による旧石器遺跡偽装によって、一時は、日本の旧石器時代の始まりはアジアでも最も古い部類に入る70万年前までに遡るとされたが、捏造発覚により藤村の成果をもとに築かれた日本の前・中期旧石器研究が、夢幻の如く霧消したことは記憶に新しい)。
今から3000~2300年くらい前に、朝鮮半島から農耕文明を携えた渡来人が北九州に移住し、稲作社会が始まり、日本列島の人口も増大していった。
④『日本書紀』によれば、応神天皇の時代に、朝鮮半島に任那と呼ぶ植民地があったとする。任那は、512年に百済に割譲、562年には新羅に攻められて滅亡してしまう。
しかし、その後も倭の王朝は朝鮮半島に関心を持ち続け、軍事介入なども行ないながら、朝鮮半島における利権の回復を図るが、結果的に663年の白村江の戦いに大敗することになる。
しかし、日本が朝鮮半島に植民地を持っていたのではなく、倭王朝の本貫の地が朝鮮半島の任那だったと考えれば説明が明快になる。
⑤2~3世紀の朝鮮半島南部は、馬韓・弁韓・辰韓のいわゆる三韓に分かれていた。弁韓の東部分が、倭の五王の称号に出てくる「加羅」の地だった。
日本列島も、戦国時代のように、各地に小豪族の連合体が割拠し、連合体内部での抗争、連合体同士の抗争などが常態だった。
北九州の連合体内部での抗争に乗じて、加羅の勢力が介入して、盟主の座を奪った。
⑥北九州連合の盟主となった加羅王は、次第に、土地も広く、人口も多い日本列島に本拠を移すことになり、本貫の任那・加羅には、代理を置いて支配するようになった。
それが、「任那植民地」の実相ではないか。
加羅渡来王朝は、加羅から馬や鉄を取り寄せて軍事力を固めた後、列島中央の河内平野に本拠地を移した。この東遷の史実を反映したのが『記紀』の神武東征神話だろう。
倭王朝は、畿内に本拠を移した後に、出雲、熊襲、関東などの地方政権を平定していった。それが日本武尊などの神話に反映している。
⑦倭王朝の後継者たちにとっては、日本列島の方が故郷になり、次第に本貫の地に対する関心も低下していった。
660年に、百済が新羅と唐に攻められて滅亡すると、国是だった「本貫の地の任那回復」が不可能になるため、その復興のために参戦したのが「白村江の戦い」だった。
藤井氏の主張の一つは、倭王朝が加羅(任那)からの渡来王朝だった、というところにある。
⑧『日本書紀』が、「大化改新」や「壬申の乱」に比べ、「白村江の戦い」の記述が小さいのは、倭王朝が加羅(任那)渡来王朝であることを隠し、神代の昔から日本列島の王だったとする意図による。
「壬申の乱」に勝利した天武天皇は、白村江敗戦で朝鮮半島から完全に閉め出された現実を直視し、日本列島のみを領土、倭人のみを国民として、律令制によって「近代化」を図る一方で、自らの子孫の王朝の永続を願って、『日本書紀』を編纂させた。
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