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2008年4月

2008年4月30日 (水)

大和政権の朝鮮進出行動

大和政権と朝鮮半島の係わりについての通説的認識を、笹山晴生『日本古代史講義』東京大学出版会(7703)によって概観してみよう。

中国では、3世紀末になると、北方・西方の匈奴・羯(ケツ)・羌(キョウ)・氐(テイ)・鮮卑などの異民族の動きが活発となった。魏を滅ぼした晋が280年に中国を統一したが、316年にはこれらの異民族に押されて滅び、江南地方の移って東晋を建国したが、中国北部には、これらの異民族が割拠し、1世紀余にわたって、五胡十六国と呼ばれるように、多くの王朝の隆替が繰り返された。
華北では5世紀に鮮卑系の北魏が諸族を統一し、江南には宋がおこって、6世紀末まで民族の異なる王朝が南北に分かれて交替を続ける南北朝の時代となった。

中国が分裂状態に入り、支配力が衰えると、東アジアの諸民族にも大きな影響を及ぼした。
朝鮮では、中国の直轄支配の拠点、楽浪・帯方の二郡が、313、314年に高句麗に滅ぼされ、高句麗が朝鮮半島北部を領有した。
南部の韓族社会でも小国統一の動きが進み、南西部では346年に馬韓諸国が、南東部では356年に辰韓諸国が統一され、それぞれ百済、新羅になった。
このような動きに対し、日本列島に近い弁韓地方は統一が遅れ、小国の分立状態が続いていた。

3世紀末から4世紀中葉にかけて、中国の史書などでは日本列島の様子が覗えないが、大きな政治的変動があったと想定される。
畿内に中心をもつ政治勢力=大和政権が発展して、九州北部から中部地方に及ぶ地域に支配を及ぼした。
それは古墳の出現・波及という考古学的事実があるからで、わが国の古墳は、3世紀後半以後、瀬戸内海沿岸から畿内にかけての西日本に、前方後円墳という独特の形式をもつものとして出現した。
前方後円墳は、形式、副葬品の組み合わせ、埋葬施設などの点で、画一的な性格をもっており、それは各地の首長層のあいだの緊密な政治的結合と、その頂点に立つ政治勢力としての大和政権の存在を考えなければ理解できない。

大和政権は、5世紀に入るとめざましい発展をみせるが、その動因は4世紀後半に始まる朝鮮半島への軍事的進出であった。
313年の楽浪郡の滅亡後政治的真空状態が生まれたが、新興の百済・新羅を間に挟んで、高句麗と倭(日本)が進出を図った。大和政権は、地方の政治集団を服属させる過程で、鉄を中心とする資源を求めて、朝鮮半島南部に手をのばしたものと考えられる。
『日本書紀』の神功皇后紀に次の記述がある。

五十二年秋九月十日、(百済の)久氐らは千熊長彦に従ってやってきた。そして七枝刀一口、七子鏡一面、および種々の重宝を奉った。

現在、天理市の石上神宮に伝わる七枝刀は、この時の刀と推定されるが、七枝刀の銘は、大和政権が鉄を求めて朝鮮に進出した事情を示していると解釈されている。
高句麗の広開土王碑には、404年に倭が帯方郡の故地に迫ったが、広開土王がこれを撃退したことが記されている。
中国王権の支配力が衰え、東アジアの政治秩序が崩壊した間隙をついて朝鮮半島への進出を狙ったものであり、高句麗との戦闘により軍事力が強化され、鉄資源や文明の独占によって、大和政権は王権を強化していったと考えられる。

5世紀に入っても、倭(日本)は依然として弁韓(任那)地方を中心に勢力を保持し続けたが、高句麗の勢いが強まり、倭の軍事行動は活発さを失っていった。
倭の五王の時代、倭国は朝鮮南部の支配を維持するために腐心したが、5世紀末になると、任那諸国お間で、倭国の支配から脱して自立しようという動きが顕著になってきた。
高句麗に北方の領土を奪われた百済は、南方への進出を図り、任那西部の領有の承認を大和政権に求めた。
朝廷は、高句麗に対抗する百済を支援する立場からこれを承認し、任那諸国が倭国の統制を離れる傾向が一段と強まった。

継体天皇の朝廷は、任那の倭国勢力の後退を防ぐため、527年に、近江毛野の率いる6万の軍兵を派遣した。
この時、筑紫国磐井が新羅と結んで九州北部で反乱をおこしてその軍をさえぎったため、物部麁鹿火を遣わして、528年に磐井を切って平定した。
朝鮮半島に渡った近江毛野は、大和政権による任那支配の機関であった日本府を加羅(大加羅)から安羅に移した。
任那については、百済と新羅が争奪戦を繰り返していたが、552年に新羅が漢江流域の百済領を奪い、西海岸への進出を果たして、任那諸国の主導権を握ることになった。
新羅は、562年に任那諸国を完全に制圧し、大和政権による朝鮮支配は終りを告げた。

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2008年4月29日 (火)

天皇家のルーツ②騎馬民族征服王朝説

今日、4月29日は、国民の祝日である。
私たちの世代にとっては、「天皇誕生日」という言葉の方が馴染みがあるが、昭和天皇が亡くなって「みどりの日」と改称され、昨年から「昭和の日」となった。
草田男流に言えば、「昭和は遠くなりにけり」という感もするが、この際呼称は余り重要ではなく、ゴールデン・ウィークという連休の維持の方が、大多数の関心事だったということだろう。

ところで、戦前・戦中の皇国史観の下では、天皇家のルーツ(08年4月25日の項)に関するオープンな議論などは、もちろんご法度だった。
だから、戦後になって、江上波夫さんが発表した「騎馬民族征服王朝説」は、大きな反響と波紋を呼んだ。
それは一言で言えば、大陸からやってきた騎馬民族が征服王朝を築き、日本の支配層になった、とするものである。万世一系を否定するものと言えよう。

井上さんという、福岡県立朝倉高校のOBとおぼしき人が、「邪馬台国大研究」と題して、邪馬台国を中心に日本古代史に関する膨大な探究を収録したサイトがある。
http://inoues.net/index.html
「膨大な探究」と言ってもアマチュアのものであるが、私などは大いに啓蒙されることが多く、その探究心を大いに尊敬している。生涯学習という言葉があるが、そのモデルではないかとも思う。
その井上さんのサイトの騎馬民族征服王朝説に関する部分を引用させてもらおう。

3世紀末にツングース系騎馬民族(夫余族)の高句麗が、朝鮮半島を南下して南朝鮮を支配する。百済王はこの騎馬民族の首長ではないかと江上氏は示唆している。この騎馬民族はやがて4世紀になって北九州に上陸しこの地を征服する。その時朝鮮からやってきて、後100年ほど続く「九州王朝」の開祖となった者が、後に「崇神天皇」と呼ばれるようになったと言うのである。現天皇家の始祖はここにあるとする。江上氏によればこれが「第一回の建国」ということになる。
「九州王朝」はやがて「応神天皇」を戴いて近畿征服を果たす。この北九州から近畿への遠征が「神武東征」として日本神話に反映している。「第二回目の建国」である。ちなみに、崇神の渡来はニニギノミコトによる高千穂峰への降臨として説話に残っている、と言う。

騎馬民族征服王朝説には、反論も多く学界の定説となっているわけではない。
しかし、朝鮮半島からの渡来者が九州に上陸し、そこで権力を固めて近畿に東征した、という部分に関して言えば、藤井游惟氏の歴史認識(08年4月16日の項)も共通であり、現時点では、多くの識者が考えていることではなかろうか。
しかし、「騎馬民族征服王朝説」が発表された当時は、相当の勇気を要することだったと思う。
再び井上さんの言葉を引用させてもらう。

人物の特定はひとまず置くとして、大まかな民族や権力構造の成立過程については大いに示唆に富んだ説であろう。しかも、戦後まもなくまだ人々が敗戦の痛手からも立ち直っておらず、天皇家神聖視の気風も完全には消え去っていない昭和23年という時点で、こういう説を公にしたという勇気には驚かざるを得ない。天皇家の始祖は朝鮮にあるという事を堂々と唱えたのである。旧日本軍が支配し、虐げ、搾取した朝鮮民族。自らは崇め奉っていた天皇がその被支配者層の出自だと言うのである。

精細な事実関係の検証はともかくとして、タブーが解き放たれて、新しい視野が開かれた鮮やかな事例だと思う。
江上説を否定する論者は少なくない。
例えば、国立歴史民俗学博物館の館長を務めた佐原真氏などが代表選手である。
騎馬民族は来なかった』日本放送出版協会(9309)というそのものズバリの著書もある。
また、江上氏との対論で、『騎馬民族は来た!?来ない?! 』という著書もあるが、版元の小学館による読者へのアンケートでは、江上説の支持が80%に及んだという。

どうやら、専門家には支持者が少なく、アマチュアには支持者が多いということだろう。
80%の人が江上説を支持しているということは、アンケートの対象者が著書の購入者が対象だろうから、この問題に関心を持つ集団というバイアスがかかっている。
それは問題意識を持っているというバイアスであり、そういう層においての評価である。
藤井游惟氏の「上代特殊仮名遣い白村江帰化人記述説」も、専門家よりも問題意識を持ったアマチュアが支持する説ではないかと思う。
江上説が大きな反響を呼んだのは、騎馬民族という言葉の意外性も大きいだろう。
われわれは、日本人は上から下まで農耕民族という先入観を持っており、支配階級が騎馬民族の系譜であるという論には少なからぬショックがあったのではないか。

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2008年4月28日 (月)

山本七平の『「空気」の研究』

「空気」という言葉で思い出すのは、山本七平氏の『「空気」の研究 』文春文庫(8310)である。
山本七平氏は、山本書店という出版社の社主だったが、同社から刊行されてベストセラーになった『日本人とユダヤ人』の著者であるイザヤ・ベンダサンその人だと考えられている。

山本氏は、われわれが何かを判断するときの基準に「空気」が大きな役割を担っている、という。
その代表例として、「文藝春秋」75年8月号に掲載された『戦艦大和』(吉田満監修構成)を挙げる。

全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う」(軍令部次長・小沢治三郎中将)という発言がでてくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確な根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら「空気」なのである。

そして、このような判断の下し方が、「大和の出撃」について特別だったのではなく、ごく一般的に行なわれているものであることを示す。

われわれが「空気」に順応して判断し決断しているのであって、総合された客観情勢の論理的検討の下に判断を下して決断しているのでないことを示している。だが通常この基準は口にされない。それは当然であり、論理の積み重ねで説明することができないから「空気」と呼ばれているのだから。従ってわれわれは常に、論理的判断の基準と空気的判断の基準という、一種の二重基準(ダブルスタンダード)のもとに生きているわけである。そしてわれわれが通常口にするのは論理的判断の基準だが、本当の決断の基準となっているのは、「空気が許さない」という空気的判断の基準である。大和の出撃はそのほんの一例にすぎない、と言ってしまえば、実に単純なのだが、現実にはこの二つの基準は、そう截然と分かれていない。ある種の論理的判断の積み重ねが空気的判断の基準を醸成していくという形で、両者は一体となっているからである。いわば議論における論者の論理の内容よりも、議論における言葉の交換それ自体が一種の「空気」を醸成していき、最終的にはその「空気」が決断の基準となるという形をとっている場合が多いからである。

この説明は見事だと思う。私の体験にも見事に合致する。
まあ、日常生活の多くのことは、「判断」と言っても、どちらでもいいようなことである。だから、「空気」であろうと「論理」であろうと、どちらの基準であっても大きな問題ではない。
しかし、「大和の出撃」となると事情は異なる。
あるいは、そもそも開戦を決めた御前会議はどうだったのか?
やはり、「開戦止む無し」という「空気」ではなかったのか?

いま、場の空気を読むことの重要性が言われている。
場の空気とは、コミュニケーションの場において、言語では明示的に表現されていない諸要素のことであると説明されている。
明示的に表現されていないことを理解する力であるから、一種の暗黙知である。
言葉で明示的に表現されることは、全体の一部に過ぎないから、空気を読むことが必要であり、重要であることは当然である。
しかし、いま「KY」などとして、空気が読めないことを、ことさらに強調して否定的に捉えることには疑問がある。

「KY」の行きつく先には、「魔女狩り」があり、異端の説は存在を許されなくなる。
山本氏の議論で興味深いのは、われわれの祖先は、「空気の支配」に抵抗する術を持っていた、という指摘である。
それは「水を差す」というように、「水」の存在である。
しかしながら、「水」は、伝統的な日本的儒教の体系内における考え方に対しては有効なのだが、疑似西欧的な「論理」には無力だった、とする。
そして、伝統的な日本的な水の底にある考え方と西欧的な対立概念による把握とを総合することによって、新しい「水」を発見することが重要な課題である、としている。
さしずめ、「KY」に対して「MS=水を差す」とでも言えようか。

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2008年4月27日 (日)

天皇家と空気

人間である天皇を象徴だ、という用法は、松田聖子が「1980年代日本の芸能シーンの象徴」というような用法と同じように、「ごく稀」な用法ということである。
いささか意地の悪い解釈だとは思うが、天皇家に関する週刊誌等の記事は、芸能人と同じような扱いのことが多いことも事実であろう。
それは、大日本帝国憲法時代の、「神聖ニシテ侵スヘカラス」を否定して、「開かれた皇室」として身近な存在であることをアピールしようとしてきた結果でもある。
しかし、「開かれた皇室」というのは、そもそも根底に矛盾を抱えているのではないか?
皇室の権威の根源が共同幻想であるとするならば、開かれることによって、その幻想性が失われることは必然だからである。
共同幻想的権威を失うのと引き換えに、皇室は、理想的な家族像の「象徴」としての位置を背負わされるようになった、ともいえよう。

「国家の本質が共同幻想だ」ということは、祭祀というような面について考えれば理解できる。
『魏志倭人伝』では、卑弥呼が、「鬼道に事(ツカ)へ、能(ヨ)く衆を惑わす」と表現されている。つまり、卑弥呼は霊能者、言い換えれば宗教者としての性格を持っていたことを示していたということだろう。
邪馬台国が国家としての体裁を整えていたかどうかは別として、つまりその統治のしくみが原初的であったにせよ、官のようなものも存在していたことが窺えるから、一定レベルで統治組織が形成されていたことは想像できる。

もちろん、邪馬台国の女王と天皇家との関係は分からないとせざるを得ないが、政治的な権力の確立過程で、宗教的な力が与っていたことは間違いないだろう。
ある集団に宗教的な理解が共有されているならば、それを共同幻想と呼べるだろう。そして、ある種の宗教的な共通の了解、つまり共同幻想が集団をまとめる力になり得ることも理解できる。
世には多くの宗教団体が存在する。その教義はそれぞれ異なっているのだろうが、宗教性の高い集団の凝集力は強い。
自分では無宗教と思っていても、多くの日本人は、死ねば仏式で葬儀を行なうし、子どもが生まれれば神社にお宮参りに行く。

そういう共同幻想の焦点として機能しているのが、ある場合は芸能人であり、ある場合は皇室なのだろう。
現在の皇室に関して、何かと話題にされるのは皇太子(東宮)家の言動である。
例えば、たまたま手にした週刊誌(『週刊現代080419号』)では、「あなたは、雅子さまと美智子さまのどちらに共感するか?」というような記事の組み方をしていた。

体の不調を抱えながら、多忙な公務をこなす皇后陛下。
そして、子育てをしながら、適応障害と闘う皇太子妃殿下。

正直に言って、天皇家の一員として生きるというのは大変なこと、つまり心身の大きな負担を伴うものであろう、と思う。
皇室を離脱しようと思っても、それ自体が大きな別の心身の負担になるだろう。
そして、そもそも天皇制が共同幻想の1つの形態だとすれば、そこには不合理・非合理な要素が存在していることは当然でもあるだろう。
つまり、合理的な思考をある部分で放棄しなければ、皇室の一員であることを自ら否定しなければならなくなる、というような構造になっているのではないのだろうか。

雅子妃殿下のように、キャリアの外務官僚(外交官)としての履歴を持つ人は、日本人の中でもとりわけ合理的な思考能力に恵まれた人であろう。
皇室での具体的な生活など想像の域外で良くは分からないが、おそらくは伝統やしきたりなどが数多く存在していることだろう。
そして、それらの多くは、必ずしも合理的な根拠を持っているというものではないだろう。
合理的な思考に馴染んできた雅子妃が、そういう不合理・非合理に適応するのが難しいだろうことは分かるような気がする。
ムリに合わせようと思えば、適応障害が発生することも当たり前かも知れない。

皇太子が、「雅子の人格・キャリアを否定するような動きがあった」と発言したことがあった。
その意味するところの内実がどのようなことであったのかは不明だが、人格については別として、キャリアについては外交官だったこと以外には考えられない。
つまりは、外交官としてのキャリアを否定するような発言ということである。
それは、もっと外交に時間を割け、ということなのか? それともそういう活動は慎めということなのか?

私などは、もっと気楽に、「空気」に合わせて生きていけばいいのに、などと考えたりする。つまり、不敬を省みずに言えば、雅子妃は「KY=空気読めない」(08年2月14日の項)なのではないか、という感じがする。
しかし、実際はむしろ逆であって、適応障害というのは、「空気」を意識し過ぎていることの結果なのだろう。
いま、「KY」は、否定的な用いられ方をしていることが多い。
しかし、私は、「空気」を読むことは必要だけど、「空気」に逆らうことが重要な場合がある、とも思う。
その意味で、「KY」という言葉の流行によって、ごく少数の異端が存在を許されにくい「空気」が生まれることの方を恐れる。

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2008年4月26日 (土)

天皇と憲法

日本国憲法の第一章は「天皇」であり、次のように規定されている。

第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
第二条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。

私は、現在の情勢下での「護憲」か「改憲」か、という論議に関しては、「護憲」の方によりシンパシーを感じる者である。
しかし、正直に言って、冒頭の、この「天皇」に関する規定については、理解し難いものがある。
「日本国の象徴」とはいかなる意味か?
「日本国民統合の象徴」とはいかなる意味か?
「主権の存する日本国民の総意」とはいかなる意味か?
そういう「象徴」の立場を、「世襲」するというのは、いかなる論理に基づくものか?

「象徴」とは、一般には、あるものを、その物とは別のものを代わりに表象することによって、あるものを間接的に表現し、知らしめるという方法である。
WIKIPEDIA(1月31日最終更新)では、次のような例を挙げている。

あるものに対してその性質や量を表すには通常言葉(言語)や数値が用いられる。たとえば、日本に対してその性質を表すならば「ユーラシア大陸の東端に位置する列島、及びそれを領土・領海・領空とする国家の国号」となろうし、その量を表すならば領土の面積や日本標準時子午線の経度、あるいは各月の平均気温や湿度、平均降水量などを挙げることとなる。
このような具体的表す方法のほかに方法がある。それは、あるものを、その物とは別のものを代わりに表象することによって、あるものを間接的に表現し、知らしめるという方法である。そのことを“象徴”といい、象徴を用いて表現することを“象徴する”という。

この「象徴」に関する解説を、日本国憲法に適用するとどういうことになるか。
「ユーラシア大陸の東端に位置する列島、及びそれを領土・領海・領空とする国家」の象徴が、「天皇」というヒトであるという意味は?
WIKIPEDIAでは、続けて次のように解説している。

象徴として用いられるものは一般に人間以外のものでなければならないのが哲学全般における定説であるが、ごく稀に人間が象徴として用いられる場合がある。例えば、「松田聖子は1980年代日本の芸能シーンの象徴である」のような場合である。この場合、松田聖子という歌手は1980年代の日本の社会・文化の性質や量を表した存在だ、とみなされているわけである。ただし社会科学で用いられる場合更に広義の用法となる場合がある。

つまり、人間である天皇を象徴として用いるというのは、松田聖子などと同じように、「ごく稀」な事例の1つだ、ということである。
しかし、日本国憲法の冒頭が、そのような「ごく稀」な用法で規定されているというのもどんなものだろう、と素朴に思う。

もちろん、憲法というのも歴史的存在であって、前身の「大日本帝国憲法」と対比で考えなければならないことは承知している。
大日本帝国憲法も、第一章は「天皇」であった。

第一条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第二条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス
第三条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第四条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ

ここでは、「万世一系」が前提とされている。
皇統の男性ということは現憲法と同一であるが、第四条で「統治権を総攬し」とあり、さらに次のような規定もある。

第十一条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス

つまり、現憲法の天皇が「象徴」として位置づけられているのに対し、大日本帝国憲法では、「統治権を総攬し」「陸海軍を統帥する」存在として規定されていた。
陸海軍が自衛隊となったいまは、自衛隊が軍隊であるかどうかは別として(まあ、軍隊と考えるのが自然で、この部分については、現実と憲法とが齟齬を来たしていると思うが)、自衛隊は内閣総理大臣の指揮下にあることになった。
大日本帝国憲法の時代の日本国の評価は、もちろん光の部分と影の部分とがあって、一言で云々することはできない。
しかし、「天皇」の名において、否定的に評価されなければならないことが行なわれたことがあった、という事実から目をそむけることはできない。
その反省のもとで、「主権の存する日本国民の総意」として、現憲法が採択された、ということだと思う。

「主権の存する日本国民の総意」がどのような手続き的な根拠を持っているか、などという野暮な論議をするつもりはない。
大日本帝国憲法と日本国憲法とを比較すれば、それが歴史の発展の反映であることを素朴に感じることができるだろう。
その制定の過程に、日本国民でない人(例えば、ベアテ・シロタ・ゴードンさん(07年12月2日の項))が係わっていたとしても、そして「総意」とは言えないとしても、現在の日本人の過半数が支持していると思う。

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2008年4月25日 (金)

天皇家のルーツ

藤井游惟氏は、『白村江敗戦と上代特殊仮名遣い―「日本」を生んだ白村江敗戦その言語学的証拠』において、倭王朝の本貫の地を加羅(伽羅、伽耶、任那)だとしている。
ほぼ同じ見解を提示しているのが、室伏志畔『万葉集の向こう側―もうひとつの伽耶』五月書房(0207)である。
しかし、両者の推論の態度や方法論はまったく異なっている。
藤井氏が、実証的な言語学をベースに議論を組み立てているのに対し、室伏氏は「幻視」に基づいており、自らの方法論を、幻想史学と名付けている。

幻想史学とはいかなるものか?
幻想論といえば、一世を風靡した吉本隆明氏の『共同幻想論 』河出書房新社(6812)を思い浮かべる人が多いだろう。
この書の基本的な主張は、国家の本質を共同幻想である、と規定しところにあると思う。しかし、難解で読み通すことが苦痛であり、完読した記憶がないから、余り自信がない。
室伏氏は、吉本言語論・国家論を基礎に据え、梅原猛氏の日本学、古田武彦氏の九州王朝説などの成果を取り入れながら、独特の史観を提示している。

それは、文献や考古史料による実証ではなく、その実証できることの「向こう側」を透視しようとするものだということができる。
言い換えれば、文献解釈に独創的な視点を持ち込むことが可能である一方で、論議の仕方が恣意的にならざるを得ない、ということになる。
それはクリエイティブ思考の1つの形ではあるが、クリティカル思考とは離れたものである。つまり、一定の手続きを踏めば、誰でも同じ理解に達するというものではない。
言い換えれば、方法論自体が通説とは成りがたい性格を持っているわけであるが、室伏氏の立場は、仮説として提示することに意義があるということであろう。

日本国憲法の第一章が「天皇」となっていることを考えれば、現在の日本は、紛れもない「天皇制」の国と言わざるを得ない。
しかし、それを森喜朗元総理が言ったように、「天皇を中心とする神の国」だと考えている人はごく僅かに過ぎないだろう。
しかし、「天皇制」という体制は、いかなる性格のものか、理解し難いことが多い。
例えば、小泉内閣時代、皇室典範の改正がテーマになった。
当時の状況では、現状の皇室典範だと、皇位継承に支障が出てくる可能性があるので、皇室典範を改定して、皇位継承ルールを変更しようというものであった。

皇室典範の第一章は、「皇位継承」であり、次のように規定している。

第一条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。

つまり、女性の天皇は認めない、という立場である。
これに対し、日本史上には、推古天皇や持統天皇など、有名な女性天皇がいる。
だから、女性天皇を認めれば、皇位継承問題は解決するのではないか、と考えられる。
しかし、皇室典範にも記されているように、「男系」ということがもう1つの問題になってくる。
女性にも、男系の女性と、男系であることを問わない女性がいるわけである。
男系というのは、父親の系譜であり、推古天皇の場合は、父親が欽明天皇であり、持統天皇の場合は、父親が天智天皇である(とされている)から、男系の女性天皇ということになる。

このときの論議で理解不能だったのは、男系男子に限定すべき論拠を、神武天皇のY染色体を保持することが重要だ、といかにも遺伝学を踏まえた議論であるかのように論じた人がいたことである。
ヒトのY染色体というのは、男性のみが持つ染色体だから、Y染色体は、男性の系譜を通じて伝えられることになる。
だから、神武天皇のY染色体を維持するためには、現在の皇室典範が規定するように、男系の男子でなければならない、という視点である。

仮に神武天皇が実在の初代天皇だったとしても、神武がヒトであるならば、当然両親がいて生まれてきたはずである。
その系譜の天照大神に大きなウェイトが置かれてきたことを考えても、素朴に神武天皇のY染色体というものの意味に疑問符を付けざるを得ないと思うのだが。
何よりも、私を含め、現存する男子は、すべて男系を辿ることができるが、1つの男系が他のすべての男系と有意な差異がある論拠を何に求めるのだろうか。

皇位が男系を通じて万世一系に保持されてきた歴史こそが尊いのだ、ということを言う人もいる。
しかし、万世一系といっても、当然起源はある。その最初はどうなのだ、と考えれば、万世一系という発想自体に、至上の価値があるとは思えない。
あるいは、歴史以前は別として、歴史の対象になる期間について、という人もいるだろう。
歴史と歴史以前を文字史料の有無で区別するとしても、日本列島における文字の使用は遅れても、漢字の起源は6000年前に遡るという(07年12月21日の項)。
神武より遥かに以前である。

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2008年4月24日 (木)

白村江帰化人

「帰化」とは、みずから、また同族・集団の意志や勧誘によって渡来したものに用いられる(平野邦雄『帰化人と古代国家』吉川弘文館(9306))。
朝鮮半島から日本列島への帰化は、朝鮮三国の政治的情勢によって、波があった。
その時期は、以下の通りである。
1.4世紀末(応神紀)
2.5世紀末~6世紀初(雄略・欽明紀)
3.7世紀後半(天智・天武・持統紀)
いずれも、朝鮮三国間に戦争が起き、国家存亡に係わる政治的な緊張の時期で、集団的な渡来があった。
上記の7世紀後半の波が、白村江の戦いで百済が滅亡したことによるものである。

白村江帰化人(白村江の敗戦によって百済から渡来した帰化人)の中で、天皇家の姻族として大きな勢力をもたのが、百済王氏である。
百済王氏は、百済最後の王となった義慈王の子孫である。
義慈王の敗死により、臣下の鬼室福信は日本に亡命し、日本にいた豊璋王を立てて国の回復を図ろうとした。
しかし、その志は成らず、禅広王のみが日本に残って、持統天皇のとき、百済王の姓を賜ったという。
百済王氏の中で、敬福が陸奥守としいて東大寺大仏の塗金を計上したことが『続日本紀』に記されている(07年9月29日の項)。
その他、俊哲・邑孫・玄鏡など、陸奥鎮守府将軍などの武将として活躍した人が多かった。

帰化人について関晃氏は、次のように規定している(上掲書)。

帰化人(という場合は、はじめに渡来したその人だけではなく、その数代のちの子孫まで含める。それはやはり帰化人としての特殊性が、そのくらいの世代の間は失われないで残っており、その特殊性こそ歴史的な意味が認められるからである。

この特殊性こそが、「上代特殊仮名遣い」という現象をもたらした、というのが藤井游惟氏の説である。
白村江帰化人の多くは、はじめ近江に安置された。
『日本書紀』に以下の文章がある。

(天智八年)
佐平余自信・佐平鬼室集斯ら男女七百人余人を近江国蒲生郡に移住させた。

この「余」が百済王氏のことであり、「鬼室」とは高級官僚の氏である。
王族や高級官僚が、集団的に帰化し、天智天皇の宮室の置かれた近江大津宮の近くに安置されたことが推測できる。

彼らは、天智天皇に登用された。
『日本書紀』の天智紀に次の記載がある。

(天智十年一月)
この月、佐平余自信、沙宅紹明(法官大輔)に大錦下を授けられた。鬼室集斯(学頭職)に小錦下を授け、達率谷那晋首(兵法に詳しい)・木素貴子(兵法に詳しい)・憶礼福留(兵法)・答本春初(兵法)・鬼室集信(薬に通ず)に大山下を授けた。小山上を達率徳頂上(薬に通ず)・吉大尚(薬に通ず)・許率母(五経に通ず)・角福牟(陰陽に通ず)に授けた。小山下を他の達率たち五十余人に授けた。

達率は、百済の将軍を示す肩書きである。
天智天皇が、百済の将軍たちを軍事的な側面で登用していたことが窺える。
しかし、壬申の乱を経て天武天皇が権力を掌握すると、白村江帰化人が登用された形跡が見られなくなる。
彼らに活動の場が与えられるのは、平城遷都後の律令制下における実務官職においてである。

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2008年4月23日 (水)

光市母子殺害事件判決の常識性

昨日、山口県光市の母子殺害事件の差し戻し控訴審の判決が、広島高裁であった。
事件が発生したのは1999年4月14日のことだったから、既に9年前のことになる。
被害者遺族の本山洋さんが、積極的にマスコに登場して被害者遺族の立場を訴えていたから、事件の経緯等については多くの人の知るところだと思う。
この事件については、一審・二審ともに死刑の求刑に対して、無期懲役が言い渡された。
今回の判決は、最高裁が、広島高裁の二審判決を不当として差し戻したことを受けたものであり、この間の事情を考慮すれば、死刑が言い渡されるであろうことは予測できたところでもある。

私は、今回の高裁の判決は、常識に合致した妥当なものだと考える。
もちろん、法の適用は厳格で客観的基準に照らして行われるべきだし、そこに世論の動向や感情論的な要素が入りこむことは極力避けるべきであろう。
しかし、一般的な常識に合致しない判決は、結局は法秩序の安定性を損なうことになるのではないか。
私は、どちらかと言えば、異端の説を尊重する傾向があることを自覚しているし、多数決が正当性を保証するとは全く思わないが、司法的判断に常識の要素は必要だと思う。
死刑とすべきか否かは、いわば人生観に係わる問題である。私の人生観は、このような事件に対しては、たとえ少年であろうとも、死刑が相当だと思うものだ。

裁判員制度が導入されることを考えれば、罪刑の判断基準はオープンにされていることが好ましいだろう。
今回の高裁判決が注目されるのは、その意味で、死刑に対する基準が変更されたものと捉えられることである。
死刑に相当するか否かの判断基準として、「永山基準」と呼ばれるものが採用されてきた。
犯行当時19歳の未成年であった永山則夫が起こした殺人事件を巡って、最高裁で示された基準であり、以下の要素を考慮して決定するというものである。
1.犯罪の性質
2.犯行の動機
3.犯行態様、特に殺害方法の執拗性、残虐性
4.結果の重大性、特に殺害された被害者の数
5.遺族の被害感情
6.社会的影響
7.犯人の年齢
8.前科
9.犯行後の情状

ポイントは、殺害された被害者の数にあるようである。
この判例以降、4名以上殺害した殺人犯に対しては、裁判所が被告人の犯行時の心神耗弱を認定して無期懲役に減刑して判決をした事例を除けば、裁判所は原則としては死刑判決を適用している。
また、1名だけを殺害した殺人犯に対しては強盗や身代金目的誘拐など金銭目的ではなく、殺人の前科がない場合は、死刑判決を回避する傾向がある、ということである。

殺害された被害者の数を基準とする、というのは何ともやり切れないという気がするが、分析的に捉えれば、このような要素になるだろう。
これらの項目は、大体が定量的な評価に馴染まないものである。被害者の数というのは、ある意味で明晰でデジタルな基準である。
上記基準からすれば、今回のように、2名殺害というのは微妙な範囲になるのだろうが、そういう場合には、やはり常識の出馬が必要なのではないか。
私は、今回の光市の事件については、上記の各項目を勘案しても死刑はやむを得ないのではないかと思うのだ。

死刑判決によって、同種の犯罪に対する抑制効果があるとは思わないが、因果応報というのは、少年だから緩和されるべきだとも思えない。
もちろん、社会環境や家庭環境など、個人的な責任に帰すことのできない要因もあるだろうし、将来の更正の可能性も否定できない。
しかし、犯した罪に相当する罰は受けなければならない、というのが常識なのではないだろうか。

それは、被害者遺族としての本村さんの訴求と無関係とは言わないが、それを別にして、死刑が相当だろうということだ。
つまり、年齢等の情状を酌量して、無期刑とした一審・二審の判断は、常識にそぐわないということである。
死刑を求めて発言していた本村さんに対して、被告の元少年には、死刑廃止派の弁護士を中心に、多数から成る弁護団が結成され、その活動が論議の対象になっていた。
例えば、大阪府知事に就任した橋下弁護士が、TVで弁護士会に懲戒請求を呼びかけ、これに応えて7500通に上る懲戒請求が行われたという。

私は、死刑という刑罰が存続すべきか否かは別に論ずるべき問題だと思う。
死刑という刑罰が法定されている以上、その適用要件についての論議はあっても、死刑を避けるべきだという判断が前提とされるのは間違いであろう。

最近、常識的な視点からみて、いかがなものかと思う司法判断も少なくない。
その典型例は、今年の1月8日の福岡地裁判決である。
飲酒運転で追突事故を起こし、3人の子どもを死亡させた福岡市職員に対して、「危険運転罪」の成立を認めなかった。
法曹の専門家の多くは、この判決を法の適正な適用と評価しているようであるが、市民としての感覚から著しく逸脱したものではなかろうか。
もし、この事故に「危険運転罪」を適用しないとすれば、どのような要件を満たせば同罪が適用されるのか?
法の適用条件の解釈以前に、基本的な事実関係についての認識不足が招いた判決だと思う(08年1月9日の項)。

私は、光市の事件の弁護団の主張自体が非常識だとは、必ずしも思わないし、主任弁護人としてマスコミに登場している安田好弘弁護士も、人権派として敬意を表するにやぶさかではない。
被告に有利なように活動するのは、弁護士の本来的な役割である。
しかし、大局的な判断において、大きなミスを犯しているとせざるを得ないだろう。
というのは、今回の判決によって、たとえ少年であったとしても、厳罰に処するべきはそうすべきだ、という流れになっていくであろうからである。
それは、弁護団の意図した、死刑廃止の方向とは結果的に逆行するものになる。
裁判員制度というものが導入されるが、果たして本当に妥当な判断ができるのか、わが事として考えると、正直に言って、いささか心もとない。

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2008年4月22日 (火)

上代特殊仮名遣論争④

私も、旅行や出張を併せて、数十回は海外に行ったことがある。
その都度、せめて英会話を、特にヒヤリングについてはもう少し勉強しようか、などと思うが、結局その時だけのことに終わってしまう。
現在はムダな努力はしないことにしよう、と思うに至っている。
まったく、中学校以来10年以上は学校で英語を学んでいるのだから、もう少しマシな聴力を身に付けてもいいのではないか、と思う。
しかし、私の言語脳は、既に小学校就学以前に形成されていて、中学校からの学習時間程度ではどうにもならないらしい。

発音については、発音記号というものを教わった。
この発音記号に従えば、万国の言葉を発音できるはずである。しかし、実際の発音は、やはり目で見るのではなく、耳で聴く方が理解が進むことは当然である。
藤井游惟氏の『白村江敗戦と上代特殊仮名遣い―「日本」を生んだ白村江敗戦その言語学的証拠』には、CDが付いていて、発音を紹介している。

条件異音の概念も、CDを聴いてみると理解が進む。例えば、韓国人は、kとgの区別が難しいらしい。
日本人が「銀行」と発音したのをリピートしているのだが、どうしても「キンコウ」になってしまう。
韓国人にとっては、「銀行」と「近郊」を音で区別できないらしい。
「金さん」「銀さん」の区別も同様である。
一方、韓国語は8母音だというから、日本人が無自覚な母音の差異を聞き分ける。
帰化した百済人が、日本語を8母音として認識した表記が、上代特殊仮名遣いというのは理解し易いだろう。

圧巻なのは、『万葉集』の中で、全文が借音仮名で書かれている歌を、現代朝鮮語漢字音と中国語18ヵ所の方言、日本語の呉音、漢音で発言した実験を収録した部分である。
取り上げられているのは、例えば以下の歌である。

余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須麻須 加奈之可利家理(巻5-793)
世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり

これが例えば「呉音」では次のように発音される。
ヨノウナカハ ムナシキモナィト シルトゥキシ イヨヨマスマス カナシカリケリ
「漢音」では次のようになる。
ヨドゥダィカハ ボゥダィシキボゥダィトゥ シリュウトゥキシ イヨヨバシュバシュ カダィシカリカリ

CDを再生してみると、各音の違いがはっきり分かる。
日本語として一番自然なのは、日本語の「呉音」である。まあ、日本語だから当たり前というとも思うが、日本語の「漢音」は全く日本語らしくない。
「呉音」の次に日本語に近いのは朝鮮音である。
『三国志』でおなじみの「呉」は中国の南の部分である。CDに収録されている中国の方言では、南京、蘇州、上海などが相当する。
しかし、これらの方言で読んだものは、決して日本語らしく聞こえない。

藤井氏によれば、日本で「呉音」とされている音は、古代の呉地方の方言模倣だという考えは間違いで、原型は、百済人たちの「朝鮮音(百済音)」なのだという。
そして、その朝鮮音のもとは、黄海を挟んだ対岸の山東半島地方の方言だとする。
この辺りは、私がゴチャゴチャ紹介するよりも、是非原著にあたり、付属のCDを聞いて欲しいと思う。
「目から鱗が落ちる」というコトワザがあるが、果たして耳からは何が落ちるのであろうか?

奈良時代前半に、上代特殊仮名遣いと呼ばれる現象があった。
それが50年程度経った奈良時代後半頃には、急速に崩れていった。
その急激な変化は何によるものなのか?
藤井氏の説を要約してみよう。
①上代特殊仮名遣いは、条件異音を写したもの
②条件異音を聞き分けられるのは、言語的外国人
③当時の歴史的状況からすれば、それは「白村江帰化人」とでも呼ぶべき百済人
④三世から四世の世代になると、日本語が母語化して、条件異音を聞き分けられなくなる
今後、どのような説が登場するか分からないが、現時点でいえば十分な説得性を持っているといえるのではなかろうか。

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2008年4月21日 (月)

上代特殊仮名遣論争③

つまり、藤井游惟氏は、上代特殊仮名遣いを書き分けたのは、条件異音を聞き分けた言語的外国人であり、当時の歴史的状況からすれば、それは白村江の戦いの後に帰化した百済人が中心だったに違いない、とする。
奈良時代の日本語も、現代の日本語と同じように5母音であり、あたかも8母音のように書き分けられているのは、条件異音を書き分けたからだということである。
この点において、毎日新聞の敏腕記者だった岡本健一京都学園大学教授が大きな衝撃を受けたという松本克己説(金沢大学文学部紀要に掲載された『古代日本語母音組織考--内的再建の試み--』(1975年)、後に『古代日本語母音論--上代特殊仮名遣の再解釈』ひつじ書房(9501)として刊行)と同じである。
しかし、藤井游惟氏は、松本説を一種の「トンデモ説」であるとして否定している。

藤井氏が松本説を否定するのは、松本氏が、「上代特殊仮名遣いで、条件異音の書き分けをしていたのは、日本人自身」としているとしか考えられないことに対してである。
条件異音とは母語話者には意識できない発音の差異のことである。
これは言ってみれば、「条件異音」の定義のようなものであり、母語話者が条件異音の書き分けをすることは、「絶対にあり得ない」。
この点において松本説は「トンデモ説」だいうのが、藤井氏の指摘である。
言い換えれば、藤井氏は、松本氏の業績全般を否定しているわけではないし、松本氏自身は、外国人記述の可能性を視野に入れていたのではないか、と推測をしている。

藤井氏は、松本氏の説の立て方に、意識的か無意識的かは別として、次のような戦略的な意図があったのではないか、としている。
松本氏の論文が出た頃には、『記紀万葉』を外国人が書いたなどと言い出せば、言語学次元の問題を越えて、歴史学者を巻き込んだ「外国人記述説」の議論が沸騰してしまうだろう。
だから、「音素体系と書記体系とのズレはしば起こる現象」とするにも拘わらず、例示を紀元前10世紀頃のギリシャ語の例を挙げるに留めている。
松本氏が「内的再建」として、「一つの言語の歴史を他言語との比較・類推で考えるのではなく、当該言語の内部から言語史を再構築していく」という方法論を標榜しているのは、「ある言語の表記の為に外来の文字を適用したのは、当該の外国人」という史実から読者の目をそらすためのトリックである。
「トリック」だとか「トンデモ説」などと過激に否定するのは、松本氏が「日本言語学会」の会長まで務めた学者であることを含め、条件異音の概念に対する学界の理解不足に対する啓蒙的な意図のようにも感じられる。

ともあれ、「上代特殊仮名遣い」現象は、国語史としての重要な問題であるのみならず、それが行なわれていた時代の歴史像と密接に係わる問題である。
論争史のなかで、松本氏とほぼ同時期に8母音説に異を唱えた論文がある。
松本克己の論文の発表は1975年3月であるが、同年9月、森重敏氏が、「上代特殊仮名遣とは何か」という論文を発表した。
その中で、万葉仮名に見られる用字の使い分けは渡来人が日本語にとって不必要であった音声の違いを音韻として読み取ってしまったものだとするものである。森重はそれをあたかもヘボン式ローマ字が日本語にとって必ずしも必要な聞き分けでないsh, ch, ts, fなどを聞き取ったことになぞらえ、上代特殊仮名遣い中「コ」音のみが平安初期にまで残ったにもかかわらず、ひらがなにその使い分けが存在しなかったことなどを傍証として挙げている(WIKIPEDIA/08年1月31日最終更新)。
この結論は、藤井氏の結論と同様のものであるが、その推論の過程が異なっている。

森重説は、体言において感嘆の際にいかなる助詞も付けないで単語がそのままで使われる時、助詞の代わりのような役目で単語の音韻そのものを「イ」音を加重させることがあると説いた。
すなわち、「花」であればそれが「花よ」という形を取るのではなく「ハナィ」あるいは「ハィナ」「ハィナィ」と、母音そのものに「イ」を付け加えることによって表現することがあるというのである。
この辺りの解説は、この解説を読むだけでは正直に言ってよく分からない。
ここからア段音にイを加重させたものがエに、ウ段音にイを加重させたものがイに、オ段音にイを加重させたものがオになり、それぞれ乙類と呼ばれる音になったというのが要旨である、ということである。
藤井氏によれば、この加重説では、上代特殊仮名遣いの甲乙書き分けが説明できないので、言及されなくなった。

この時期を同じくして登場した8母音否定説に対しては多数の反論が展開され、論争が繰り広げられた。
WIKIPEDIAの解説では、「上代母音についての結論が出たわけではなく、上代にはいくつの母音が実際に存在したのか、その具体的な音価は何か、なぜイ段・エ段・オ段の一部のみに使い分けが見られるのかなどについて、今後も様々な分野からのアプローチが待たれている」状況である。
管見では、藤井氏の推論は、その有力なものではないかと思う。

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2008年4月20日 (日)

上代特殊仮名遣論争②

松本克己氏の論文は、「母音調和」論にも疑問を投げかけるものであった。
Photo岡本健一氏の著書『古代の光―歴史万華鏡 』から引用する。
子音をCで表示し、甲乙の区別を下付きの数字で、i1、i2のように表示する。
左表の「ナダめる-ノドか」「ワカい-ヲコがましい」のように、似ている言葉は、「a-o」の母音交替でできている。
この、「a-o」型の母音交替現象は表のように4つに分類できる。
①CoCoでは、必ずo1
②CuCoでは、必ずo2
③CiCoでは、o1かo2
④CaCo・CoCaの音節構造(aoの共存)はない
つまり、o1とo2は、「音節結合」の型によって棲み分けをしているのであって、「上代特殊仮名遣」におけるオ列の甲・乙は、独立の音韻とは認められない。

この説明は、岡本氏によるものであるが、挙げられている例示によっては、母音交替現象ということが、どうも良く分からないように思う。
母音交替については、辞書的は、次のように説明されている。

一つの語根中の母音が、文法機能や品詞の変化に応じて、音色や長さの違う別の母音と交替すること。インド-ヨーロッパ諸語に特徴的で、英語の tooth(「歯」の単数形)―teeth(複数形)、sing(「歌う」の現在形)―sang(同過去形)―sung(同過去分詞形)などがその例。また、日本語の、フネ―フナ(舟)、シロ―シラ(白)、カルシ―カロシ(軽)などについてもいう。アプラウト。
http://dictionary.www.infoseek.co.jp/?gr=ml&ii=1&lp=0&qt=%CA%EC%B2%BB&sc=&se=on&sm=1&sv=KO

表中の「ナド~ナダ」、「ワカ~ヲコ」が、上記の説明の母音交替に該当するのだろうか?
この解説も、正直に言って私には良く分からない。

松本氏は、イ列、エ列についても、母音が2つあったのならば、シ・チ・ニなどの行にも書き分けが見られるはずである。しかし、そうでないのである、それは子音のちがいによるものであって、母音のちがいではない、と説明する。
これについては、その通りだろう、と理解できる。
結局、松本氏の結論は、以下のようなものであった。

奈良時代の日本語も、母音に関する限り、現代と同じ五母音であった。日本語は記録時代に入って以来、一貫して五母音の体系を基本的に維持してきた。

語の環境によってわずかに音声が変わるだけで意味が変わらないとき、「変異音」と呼ぶ。
松本説を言い換えれば、上代特殊仮名遣いの甲・乙の書き分けの差異は、変異音の反映である。
松本氏は、日本語を中国語の表記法(漢字)で写したために、音韻的には意味のない変異音を書き分けた、と説明する。

藤井游惟氏の著書『白村江敗戦と上代特殊仮名遣い―「日本」を生んだ白村江敗戦その言語学的証拠 』は、上代特殊仮名遣いの甲・乙の書き分けは、「条件異音」を示したものだ、とする。
「条件異音」とは、異音が前後に接続する母音や子音、アクセントなどの「条件」に従って規則的に現れる場合をいう。
例えば、「カンダ(神田)」の「ン」、「マンガ(漫画)」の「ン」、「マンボ」の「ン」、「コンニャク」の「ン」を実際に発音してみよう。

藤井氏の次の説明のように、舌の位置や唇の形を比較してみると、差異があることが分かる。
カンダ:舌先が前歯の裏に付く
マンガ:舌が空中に浮いたまま
マンボ:唇が閉じている
コンニャク:舌がベチョッと口の天井に張り付く
あるいは「木村さんの」、「木村さんが」、「木村さんも」、「木村さんに」などの「ん」の発音は、同じ単語であるにもかかわらず、それぞれ異なっている。
それが、無意識のうちに発音し分けている「条件異音」である。
重要なことは、母語話者は、その発音の差異について、無意識・無自覚であることであり、それを意識するのは、言語的外国人である、ということである。

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2008年4月19日 (土)

上代特殊仮名遣論争

毎日新聞記者として、稲荷山鉄剣銘のスクープをものし、学芸部長を経て京都学園大学の教授になった岡本健一氏に、『古代の光―歴史万華鏡』三五館(9610)という著書がある。
その中に、「上代特殊仮名遣論争」という一節があって、上代特殊仮名遣いを巡る論争の一つの局面が紹介されている。

「大学の紀要ほどつまらないものはない」と言われるが、岡本氏はある紀要の論文に大きな衝撃を受けた、という。
金沢大学文学部紀要に載った松本克己『古代日本語母音組織考--内的再建の試み--』(1975年)である。
それは、橋本進吉博士以来、国語・言語学界において定説としての位置を占めていた「上代特殊仮名遣」の8母音説を否定するものであった。

上代特殊仮名遣は、「キ」「ヒ」「ミ」「ケ」「ヘ」「メ」「コ」「ソ」「ト」「ノ」「モ」「ヨ」「ロ」の13音(とその濁音)について、甲・乙の書き分けをするものである。
つまり、上代特殊仮名遣が行なわれていた奈良時代前半まで、「イ」、「エ」、「オ」の母音に2種類があり、計8母音だった、とする説である。
上代特殊仮名遣は、江戸時代における先駆的論考を、明治末期に橋本進吉東京帝大教授が再発見し、それを8母音として整理した。
つまり、橋本説は、表記上の書き分けは、音声上の差異を反映したものである、とするものである。
しかし、それは「上代特殊仮名遣」という現象に対する1つの解釈であって、8母音が存在したことを証明するものではない。

「上代特殊仮名遣」の研究において、橋本進吉氏の研究を発展させたのが、有坂秀世氏であった。
有坂氏は、「古代日本語には<母音調和>があった」ということを、昭和7(1932)年に東京大学の卒業論文で発表した。同じ年、京都大学の池上禎造氏も、同趣旨の卒業論文で発表している。
<母音調和>とは、相性のいい母音どうしは共存するが、相性の悪い母音とは共存しないという現象で、モンゴル語、トルコ語などの北方系のアルタイ諸語に見られる現象である。
とすれば、日本語の先祖は、北方系のアルタイ語族だった可能性が高い、ということになる。

有坂氏は、1934年の論文「古代日本語における音節結合の法則」で、古代日本語における母音調和を、次のように定式化した。
①オ列甲類音とオ列乙類音とは、同一結合単位内に共存することはない。
②ウ列音とオ列乙類音とは、同一結合単位内に共存することが少ない。特に2音節の結合単位については例外がない。
③ア列音とオ列乙類音とは、同一結合単位内に共存することが少ない。
これは、「有坂の法則」と呼ばれることになった(WIKIPEDIA/080131最終更新)。

松本克己『古代日本語母音組織考--内的再建の試み--』は、橋本-有坂の、8母音説、<母音調和>説を共に否定するものであった。
上記WIKIPEDIAによれば、松本は有坂の音節結合の法則について、「同一結合単位」という概念の曖昧さを指摘した上で甲乙2種の使い分けがある母音だけではなく全ての母音について結合の法則性を追求すべきだとして、1965年の福田良輔の研究をもとに母音を3グループに分けて検証を行なった。
その結果、従来甲乙2種の使い分けがあるとされてきた母音は相補的な分布を示す(つまり、同じ音の守備範囲を分け合っている)などしており、母音の使い分けを行なっていたわけではなく音韻的には同一であったとした。

松本はギリシア語での/k/の表記を引き合いに出し、/k/についてkとqの二種類の文字が使われていたからと言ってそれがギリシア語で2種の子音が意図的に使い分けられていたという事実を示すわけではないことを挙げ、同様に上代特殊仮名遣いについても使い分けがそのまま当時の母音体系を正確に表したものではないことを指摘した。(/k/は、発音を示す記号)
その上で松本は日本語の母音の変遷について、
1.i, a, u の3母音
2.i, a ~ o, u の4母音
3.i, e, Ï, a, o, u の6母音
4.現在の5母音
のような変遷を辿ったとし、上代日本語の母音体系は現代と同じ5母音であったと結論づけた。

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2008年4月18日 (金)

言語学から見た白村江敗戦の影響②

藤井游惟氏は、白村江の戦い後に日本列島に亡命してきた百済人(白村江帰化人)が、日本語文書の作成に果たしたことの論拠が、他でもない「上代特殊仮名遣い」という現象である、とする。
「上代特殊仮名遣い」については、既に砂川恵伸氏の論考に関連して触れた(08年2月9日の項08年2月10日の項)が、一般に余り知られていないと思うので、もう一度藤井氏の著書を参照しつつ、整理してみよう。

表音文字の平仮名・片仮名が発明され普及し始めたのは平安時代に入ってからで、奈良時代まで日本語の発音は漢字で表記されていた。一般に「万葉仮名」と呼ばれているが、藤井氏は、『万葉集』には他の表記法も採られているから、漢字の音読み一字が一音に相当する表記法は、「借音仮名」と呼ぶべきである、とする。
「借音仮名」の例は、次のようなものである(『白村江敗戦と上代特殊仮名遣い―「日本」を生んだ白村江敗戦その言語学的証拠』東京図書出版会(0710))。

余能奈可波 牟奈之伎母乃等 志流等伎子 伊与余麻須麻須 加奈之可利家理  (大伴旅人:793番)
ヨノナカハ ムナシキモノト シルトキシ イヨヨマスマス カナシカリケリ

『万葉集』に収録されている4500首以上の歌の中で、「借音仮名」で書かれているのは、全体の1/4程度であるが、統計的判断をするのに十分な量である。
『万葉集』だけでなく、『記紀』や『風土記』の中の歌や註などにも「借音仮名」が用いられているので、当時の発音や文法などを推測することができる。
日本語として使われている漢字の読みには、「呉音」「漢音」「唐音」「慣用音」の4種類がある。
上記の「ヨノナカハ……」という「読み」は、呉音・慣用音に基づくものであって、漢音等の読みでは意味不明になってしまう。

この「借音仮名」を、中国(唐代)の発音辞典(韻書)に照らして分析すると、「キ」「ヒ」「ミ」「ケ」「ヘ」「メ」「コ」「ソ」「ト」「ノ」「モ」「ヨ」「ロ」の13音(とその濁音)が、規則的に二種類の漢字(甲類・乙類)によって書き分けられているという現象が見出された。
例えば、「夜」と「世」は、現代語では同音異義語である。発音における差異はない。
しかし『記紀万葉』の表記においては、「夜」(甲類)と「世」(乙類)が厳密に区別されている。
このような「使い分け」は、奈良時代前半の750年頃までは強固に守られていたが、それ以降急激に混乱して区別がなくなっていき、平安時代(800年代)に入って、平仮名や片仮名が発明された時には消滅してしまう。

旧来は、この甲類・乙類の使い分けは、母音が異なっていたことの反映だろう、と考えられていた。
つまり、奈良時代前半まで、日本語の母音は8種類あり(つまりイ・エ・オの3つの母音に甲・乙2種類があった)、それが平安時代までに5つに収斂した、という考えである。
それでは、僅か数十年程度の間に、どうして母音の数が、8から5に減ったのか?
あるいは、奈良時代前半においても日本語の母音は5つだったとすると、どうしてそれが8つに書き分けられていたのか?
「上代特殊仮名遣い」の存在とその消滅という現象は、日本語史上の大きな謎であると同時に、それに合理的な説明ができる歴史認識こそが、古代史解釈の正解ということになる。

「上代特殊仮名遣い」は江戸時代の本居宣長によって問題の所在が感知され、門弟の石塚龍磨が著した『仮名遣奥山路』(1978年頃発表)によって世にでた。
石塚は、万葉仮名の使われた『古事記』・『日本書紀』・『万葉集』について、その用字を調査して、用字の使い分けがあると結論した。
宣長・石塚らの探究は長く埋もれていたが、東京帝大教授の橋本進吉によって再発見され、1917(大正6)年、「帝国文学」に発表された論文「国語仮名遣研究史の一発見――石塚龍麿の仮名遣奥山路について――」で学会に評価されるようになった。

本当に、母音の数が8から5に変化したのか?
橋本氏以降現在まで、多くの国語学者がこのテーマにチャレンジし、ユニークな研究成果を発表してきた。
「上代特殊仮名遣い」の存在とその短期間における消滅という現象は、日本語史における最もミステリアスでスリリングなテーマだということができる。

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2008年4月17日 (木)

言語学から見た白村江敗戦の影響

藤井游惟氏は、白村江敗戦の影響を言語学的な視点から推論する。
そして、律令制創建が、白村江敗戦の副産物だったという結論を得る。

藤井氏は、7世紀末から8世紀前半の律令制草創期に編纂された『記紀万葉』の表記法から発見された「上代特殊仮名遣い」(08年2月8日の項08年2月9日の項)を分析すると、それが日本語以外の言語を母語とする「言語的外国人」が、日本語を聞き取り、表記したものと考えざるを得ない、とする。
それは誰か?
森博達『日本書紀の謎を解く―述作者は誰か』中公新書(9910)は、『日本書紀』の漢字の音韻や語法を分析して、渡来中国人が著したα群と日本人が書き継いだβ群を区分けした。
藤井氏は、『日本書紀』のβ群、『古事記』、『万葉集』、『風土記』などに表れる「上代特殊仮名遣い」の書き手は、白村江敗戦で大量に亡命してきた百済帰化人の一世・二世・早期の三世の世代だった、とする。

つまり、『記紀万葉』は白村江敗戦の副産物として成立したものであって、ということは、律令制の立案や施行の文書事務にも彼らが関与していたはずであって、彼らの存在なくしては、律令制国家建設そのものが不可能だった、ということになる。
通説的理解では、645年の乙巳の変の後の「大化改新」から701年の大宝律令の公布まで、約半世紀の間に、国内の社会制度や教育制度が整備され、人材が育って律令制が施行された、ということになる。

律令制は、非常に合理的な制度ではあるが、この制度を立案し、施行するためには、数多くの実務官僚を必要としたはずである。
そのような実務官僚は、古代史の展開の上で自然発生的に生まれていたのか?

日本史上における「文書」作成量は、663年の白村江の敗戦以後、急速に増大する。
それ以前は、稲荷山鉄剣のような希少な金石文と推古朝に書かれたとされる『元興寺露盤銘』、『中宮寺天寿国曼荼羅繍帳銘』などで、これらは推古朝遺文と称されているが、その制作年代については疑問とされている。
ところが、663年の白村江敗戦以後、670年に「庚午年籍」が作られたのを初めとして、日本国内の文書作成量が著増する。
681年:天武天皇が律令編修と史書編修の詔を下す。
689年:「飛鳥浄御原令」完成。
690年:「庚寅年籍」作成。
701年:「大宝律令」完成公布。
712年:『古事記』完成。
713年:「風土記」編纂の詔。
720年:『日本書紀』完成。
また、出土する木簡も殆んどが白村江敗戦後に書かれたものである。

それは、白村江の敗戦によって、大量の「読み書きができる人材」が日本にやってきたからに他ならない。
白村江の戦いの後、大勢の百済の王族・貴族・官僚およびその家族が日本列島に移住している。
実際に、『日本書紀』には、次のような記述があり、大量の百済人が渡来してきたことがうかがえる。

(天智四年春二月)
百済の民、男女四百人あまりを、近江国の神崎郡に住ませた。

(天智五年冬)
百済の男女二千余人を東国に住まわせた。

(天智八年)
佐平余自信・佐平鬼室集斯ら男女七百人余人を近江国蒲生郡に移住させた。

これらの帰化人は、一般庶民ではなく、王族・貴族・官僚およびその家族であって、さまざまな特技を持っているだけでなく、当然のことながら読み書きができる教養人だった。
7世紀後半に文書作成量が増えるのは、数多くの亡命帰化した百済人が存在したからであった、というのが藤井氏の主張である。

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2008年4月16日 (水)

藤井史観の大要…倭王朝加羅渡来説

藤井游惟氏は、『白村江敗戦と上代特殊仮名遣い―「日本」を生んだ白村江敗戦その言語学的証拠』東京図書出版会(0710)の第一章で、日本古代史についての認識を披瀝している。
その大要を紹介すれば以下の通りである。

①日本列島の社会が、「歴史」の時代に入るのは、5世紀の「倭の五王」の時代からである。この時代は河内平野の古代古墳群が示すように、河内に権力の中心があった。
倭の五王の最後の一人である倭王武が雄略天皇であることが、埼玉県行田市の稲荷山古墳で発見された鉄剣銘の解読によって、決定的になった(07年9月6日の項参照)。

②雄略天皇が実在したことが確実視されることから、それ以降の日本列島の歴史は、『日本書紀』の記述に基づいて理解されている。
しかし、国家・政権による歴史書は、自らの正統性を主張するものであることに留意する必要がある。
つまり、河内に権力の中心があった時代から、歴史が自律的に発展し、中央集権的な国家が形成された、と考え、さらにそれを遡らせて、神代の時代から自立した国だった、と考え勝ちであるが、それは間違いである。
奈良時代から江戸時代の間は、確かに国際社会の影響を受けない殆んど孤立した社会だった。それが破られるのは、1853年のペリー艦隊の来航であり、明治維新以降、日本社会は国際社会との有機的な関係に巻き込まれることになった。

③日本列島に人類が住み着いたのは約3万年前のことであるとされている(藤村新一による旧石器遺跡偽装によって、一時は、日本の旧石器時代の始まりはアジアでも最も古い部類に入る70万年前までに遡るとされたが、捏造発覚により藤村の成果をもとに築かれた日本の前・中期旧石器研究が、夢幻の如く霧消したことは記憶に新しい)。
今から3000~2300年くらい前に、朝鮮半島から農耕文明を携えた渡来人が北九州に移住し、稲作社会が始まり、日本列島の人口も増大していった。

④『日本書紀』によれば、応神天皇の時代に、朝鮮半島に任那と呼ぶ植民地があったとする。任那は、512年に百済に割譲、562年には新羅に攻められて滅亡してしまう。
しかし、その後も倭の王朝は朝鮮半島に関心を持ち続け、軍事介入なども行ないながら、朝鮮半島における利権の回復を図るが、結果的に663年の白村江の戦いに大敗することになる。
しかし、日本が朝鮮半島に植民地を持っていたのではなく、倭王朝の本貫の地が朝鮮半島の任那だったと考えれば説明が明快になる。

⑤2~3世紀の朝鮮半島南部は、馬韓・弁韓・辰韓のいわゆる三韓に分かれていた。弁韓の東部分が、倭の五王の称号に出てくる「加羅」の地だった。
日本列島も、戦国時代のように、各地に小豪族の連合体が割拠し、連合体内部での抗争、連合体同士の抗争などが常態だった。
北九州の連合体内部での抗争に乗じて、加羅の勢力が介入して、盟主の座を奪った。

⑥北九州連合の盟主となった加羅王は、次第に、土地も広く、人口も多い日本列島に本拠を移すことになり、本貫の任那・加羅には、代理を置いて支配するようになった。
それが、「任那植民地」の実相ではないか。
加羅渡来王朝は、加羅から馬や鉄を取り寄せて軍事力を固めた後、列島中央の河内平野に本拠地を移した。この東遷の史実を反映したのが『記紀』の神武東征神話だろう。
倭王朝は、畿内に本拠を移した後に、出雲、熊襲、関東などの地方政権を平定していった。それが日本武尊などの神話に反映している。

⑦倭王朝の後継者たちにとっては、日本列島の方が故郷になり、次第に本貫の地に対する関心も低下していった。
660年に、百済が新羅と唐に攻められて滅亡すると、国是だった「本貫の地の任那回復」が不可能になるため、その復興のために参戦したのが「白村江の戦い」だった。
藤井氏の主張の一つは、倭王朝が加羅(任那)からの渡来王朝だった、というところにある。

⑧『日本書紀』が、「大化改新」や「壬申の乱」に比べ、「白村江の戦い」の記述が小さいのは、倭王朝が加羅(任那)渡来王朝であることを隠し、神代の昔から日本列島の王だったとする意図による。
「壬申の乱」に勝利した天武天皇は、白村江敗戦で朝鮮半島から完全に閉め出された現実を直視し、日本列島のみを領土、倭人のみを国民として、律令制によって「近代化」を図る一方で、自らの子孫の王朝の永続を願って、『日本書紀』を編纂させた。

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2008年4月15日 (火)

藤井游惟氏からのコメント

私のブログは、別に自慢をするわけではないが、ロングテールの最たるものである。
しかし、「Web2.0」のお陰で、一定期間を累積すれば、それなりに広いリーチを持つことになり、思いがけない読者と出会うこともある。
例えば、藤井游惟さんという人が、ブラウジングしている中で、私のブログにヒットし、貴重なコメントを寄せて頂いた(08年3月5日の項)。
藤井さんは、『白村江敗戦と上代特殊仮名遣い―「日本」を生んだ白村江敗戦その言語学的証拠』東京図書出版会(0710)という書を著された方である。
同書の奥付によれば、千葉県柏市で生まれ、すぐに大阪に転居されたとのことである。早稲田大学で東洋史を学び、大学院で社会学課程を修了した。
外国人に日本語を教えながら、社会発展の法則性を探る社会学者として自己規定されている。

私たちは、小・中学校以来、「大化改新」についてはさまざまな形で教えられた記憶があるが、「白村江の戦い」については余り記憶がないという人が多いのではないだろうか。
笹山晴生『日本古代史講義 』東京大学出版会(7703)では、以下のように記述されている。

(倭国は)斉明天皇が九州で病死した後も中大兄皇子は作戦指導を続け、六六二(天智称制元)年春、大軍を朝鮮に送り、豊璋を国王とし、大量の軍需品をも援助した。遺臣の軍は一時大いにふるったが、ほどなく君臣の反目を生じ、豊璋が軍事指導者たる福信を殺害したため、軍隊は動揺を来たし、一方唐は、六六三(天智称制ニ)年にいたり、増援軍を百済に送り、文武王のひきいる新羅軍とともに遺臣の軍の拠った周留城を攻めた。同年八月、日本の水軍は、劉仁軌らのひきいる唐の水軍と錦江河口の白村江に決戦し、兵船四百艘を焼かれる決定的な敗北を喫した。その結果周留城は陥り、豊璋は高句麗に逃れ、日本軍は多くの百済人を伴って帰還し、朝鮮の動乱への軍事介入は完全に失敗に帰した。

上記のような記述で、それが古代史における対外活動の大きな失敗の事例であることは示していても、日本史上の有数の事件であった、などという雰囲気の記述ではない。
それはもちろん、『日本書紀』自体がそういう書き方をしているからである。
『日本書紀』は、以下のように記す(宇治谷孟『日本書紀〈下〉』(8808))。

(八月)十七日に敵将が州柔(ツヌ)に来て城を囲んだ。大唐の将軍は軍船百七十艘を率いて、白村江に陣をしいた。二十七日に日本の先着の水軍と、大唐の水軍が合戦した。日本軍は負けて退いた。大唐軍は陣を堅めて守った。二十八日、日本の諸将と百済の王とは、そのときの戦況などをよく見極めないで、共に語って「われらが先を争って攻めれば、敵はおのずから退くだろう」といった。さらに日本軍で隊伍の乱れた中軍の兵を率い、進んで大唐軍の堅陣の軍を攻めた。すると大唐軍は左右から船をはさんで攻撃した。たちまち日本軍は破れた。水中に落ちて溺死する者が多かった。船のへさきをめぐらすこともできなかった。朴市田来津は天を仰いで決死を誓い、歯をくいしばって怒り、敵数十人を殺したがついに戦死した。このとき百済王豊璋は、数人と船に乗り高麗へ逃げた。

軍事的な敗北について触れてはいるが、9年後の「壬申の乱」に1巻を費やしているのに比べ、いかにも薄い記述であると言わざるを得ない。
まあ、「負け戦」を詳細に記述しないという編纂者の気持ちは分からなくもないが、しかし、歴史書としてはそういうわけにはいかないだろう。
まして、白村江の戦いは、日本古代史上における最大級の出来事であった。

白村江の敗戦によって、「この国のかたち」は根本から変わらざるを得なかった、ということができる。
それを訴求してきたのは、大和王朝よりも以前に九州に王朝が先在した、とするいわゆる古田史学である。白村江の敗戦によって、日本列島を代表していた九州王朝=「倭国」が滅亡し、近畿を中心とする「日本」がその立場に立つことになった、とする。
そして、古田史学の中の異説論者ともいうべき室伏志畔氏は、『白村江の戦いと大東亜戦争―比較・敗戦後論 』同時代社(0107)を著して、白村江敗戦の意義について考察している(07年9月22日の項)。
また、古田史学とは独立した立場から、鈴木治氏が、『白村江/敗戦始末記と薬師寺の謎』学生社(6212)において、白村江敗戦の長期に渡る影響を指摘していることも既に紹介した(08年3月7日の項)。

藤井氏の新著は、全く新しい視点に立って、白村江敗戦の影響について論じたものである。
その視点とは、天武朝以降の律令制建設の実務を支えたのが白村江敗戦による亡命百済人たちであり、日本古代史の貴重な史料である『記紀』や『万葉集』を書いたのも彼らであった、ということである。

藤井氏は、「前後に接続する母音や子音、アクセントなどの「条件」に従って規則的に現れる「異音」を「条件異音」と呼び、母語の条件異音は聞き分けることができず、それができるのは言語的外国人だけであるという。
上代特殊仮名遣い(08年2月8日の項08年2月9日の項)は、亡命百済人が聞き分けた古代日本語だったということになる。

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2008年4月14日 (月)

ロングテール

「Web2.0」とセットになって流布されたのは、「ロングテール」というコンセプトだった。「ロングテール」というのは、文字通り「長い尻尾」のことである。
Photo図に示すように、世の中にある多くの事象において、少数の要素が全体の中で重要な比率を占める、ということが知られている。
縦軸は、横軸にプロットされた要素が、全体の中でどの程度の比率を持っているかを示している。
一般に、「80対20」の法則などと言われるように、全体の20%程度の構成要素が、全体の80%の比率を占める、と言われ、それはわれわれの経験則にも合致している。
だから、全体に大きな影響を与える少数の要素を抽出し、先ずそこに集中的な影響を及ぼすように力を注ぐべきだとされた。
「ABC分析」などといわれるように、全体の構成要素を、先ず対処すべき重要なA(緑の部分)、さほどではないB(青の部分)、とりあえずは認識の外に置いておいてもいいC(赤の部分)と区別せよ、というのは、企業行動の鉄則であった。

ところが、「Web2.0」の時代に入って、今まで無視されていたCの部分に光が当てられるようになった。
Cの部分が今まで、優先順位が低いとされてきたのは、努力の割りに報われないからであった。
多くの場合、何らかの対策を打つ場合、最低限必要な努力度はほぼ共通すると考えられるから、コスト/パフォーマンスという指標で比べれば、AとCではAの方が効率的であることは明らかである。
しかし、インターネットの世界では、情報コストが著しく軽減される。
その結果、Cの部分でも、経済性が確保できるケースが出てきたということだ。

典型的なのは、書籍のネット販売である。
私などもそうであるが、本というのは、書店の店頭で手に持って、内容を立ち読みしてから買うのが一般的だろう。
ということは、書店の店頭に置かれない書籍は、販売の機会が永遠に失われているようなものである。
一方で、書籍の刊行点数は日を追って増大している。つまり、書店の店頭に置かれているのは、世の中に存在している書籍のごく一部に過ぎない。
それが、「Web2.0」の世界では事情が変わってくる。

世の中に刊行された書籍の販売部数をグラフ化してみれば、おそらく典型的に図のような形を描くであろう。
Aは、ごく僅かのベストセラーである。養老孟司『バカの壁」新潮新書(0304)だとか「○○の品格」などが、この希少な例である。
毎日毎日刊行されている多くの書籍は、著者にとっては一期一会の思いが込められているものが多いと思われるが、その思いとは裏腹に、広く社会に知られることもなく絶版ということになる。

その、世に知られることもなく消えていったのが、C(赤の部分)=(恐竜の)長い尻尾である。
それが、たとえばAmazonのようなネット書店の登場により、いささか事情が変わってきた。
実物を手にとって見てみる機会は別として、そういう書籍が存在すること自体は、殆んどコストゼロで多くの人に知らせることができるようになった。
Cのロングテールも、ネット上では無視できないターゲットになってきた、ということである。

私自身、ブログを書いていること自体が「Web2.0」の賜物と認識しているが、読者の数も知れているので、余り反響ということを意識しないで、自分の関心の流れに従って、それこそ徒然の文章を綴っている。
いわゆるKY語(08年2月14日の項)といわれるものの中に、「KZ」がある。
次のように解説されている(http://zokugo-dict.com/09ke/kz.htm)。

KZとは「絡みずらい(Karami Zurai:本来、絡み辛いなので「絡みづらい」が正しいが、頭文字がZのため、あえて「ずらい」と表記しています)」の頭文字からとった略語である。絡みづらい、つまり(人やグループ、話題に)接しにくい、関わりにくいさまのことで、「アイツ、KZだからなあ」「KZな話題」といった使い方をする。これはアルファベットの頭文字を使った略語は以前から使われているが、2007年にその中のKYが流行語になったことから、KY語(KY式日本語)と呼ばれ、話題となった。

私のブログなどは、私の関心を基本的な軸にしているので、典型的な「KZ」だろうと思う。

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2008年4月13日 (日)

Web2.0

いささか旧聞に属してしまうのかも知れないが、06年に「Web2.0」という言葉がブームになった。
移り変わりの速い世相の中で、既に余り使われなくなっているような気がするが、それは「Web2.0」が日常的なものとして当たり前になっているということでもあろう。
「Web2.0」とは、この言葉が広く知られるようになった要因の1つである梅田望夫『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる 』ちくま新書(0602)によれば、以下の通りである。

ネット上の不特定多数の人々(や企業)を、受動的なサービス享受者ではなく能動的な表現者と認めて積極的に巻き込んでいくための技術やサービス

Web2「2.0」というのは「Windows3.0」のように、ソフトウェアの改版を示すのによく用いられる表記であり、「Web2.0」は、Webすなわちインターネット社会が、新しい発展段階に達したとの認識を示した言葉である。
つまり、OSが主導的だった段階を「Web1.0」とし、Webが主導的になった段階を「Web2.0」と区分しようということである。
「1.0」の時代は、パソコンに搭載したソフトで文章や図表を作り、それをWebサイトに表示していた。
これに対し「2.0」の時代は、サイトに直接書き込みを行なう。
ブログやSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)が代表的なものである。
「1.0」から「2.0」への移行によって、企業の力関係も変化してくる。
「1.0」の時代の覇者はマイクロソフト社だった。
WindowsはOSのデファクト・スタンダードの位置を獲得し、圧倒的な支配力を誇った。  
そして、OSだけでなく、汎用のアプリケーションソフト(ワープロ、表計算、プレゼンテーション)などにおいても、マイクロソフトは、デファクト・スタンダードとなる製品を供給してきた。

「2.0」の時代の覇者の位置にあるのは、グーグル社である。
梅田氏は、上掲書で次のように書いている。

「グーグルはシリコンバレー史の頂点を極めるとてつもない会社だ」
と私が確信したのはニ〇〇三年初頭のことだった。シリコンバレーでは、ネットバブル崩壊から半年が経過したニ〇〇〇年一一月の感謝祭を境に、人がどんどん減っていった。ハイウェイの渋滞はなくなり、株価は下がり続け、経済の先行きが全く見えない中で、ニ〇〇一年九月十一日に同時多発テロが起きた。それから米国は「戦争の時代」へと突入していった。その頃の私は、戦争の前ではITもネットも起業家精神もちっぽけなものだなぁと、少し憂鬱な気分で毎日を過ごしていた。
グーグルという会社の圧倒的達成を予感したのはちょうどその頃で、私は、グーグルから勇気と元気の源を与えられたような気がした。
……
グーグルのような全く新しいコンセプトの企業をゼロから生み出し、それを世界一の企業にまで育てる力こそがこの地の魅力なのだ、と改めて強く確信したからだった。

その後の社会情勢やグーグルの発展を見れば、梅田氏のこの見方は、鋭い先見性を持ったものだったことが理解できる。
私のような一市井の人間に対しても、発言の媒体が提供されていることだけでも、「Web2.0」の時代は、人類史上の画期であることは間違いないのではないか。

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2008年4月12日 (土)

大化改新…⑯異説(ⅳ)武蔵義弘

武蔵義弘『抹殺された倭王たち―日本古代史へのこころみ』理想社(0406)は、異端という程ではないが、通説ともやや異なった視点から大化改新を論じている。
武蔵氏は、先ず「大化」年号を問題にする。
『日本書紀』では、蘇我本家滅亡のあと、わが国最初の年号として、「大化」が制定された。
しかし、「大化」年号が実在した物証は、宇治橋断碑しかなく、この碑文が信じられるものであったとしても、大化建元が645年のことであったかどうかは疑問が残る。

大化、白雉と続いた年号が、孝徳一代で立ち消えになったのはなぜか?
本格的な年号の復活は文武天皇のもとで「大宝」が建てられて以降のことであり、50年近くも断絶していた。
孝徳天皇は、「仏法を尊び、神道を軽(ソシ)りたまふ」と書かれ、儒者を好むとされている。武蔵氏は、これを「外国かぶれ」だったとする。
孝徳朝で国博士という政治顧問に就任した僧旻と高向玄理は、ともに中国に留学した経験を持つ知識人だった。
孝徳は、この2人からの情報によって中国の文物制度への憧れを持ち、年号を制定して、冠位の制を拡充sるなどの刷新を試みた。
しかし、孝徳の中国趣味は周囲から理解されず、后を含め飛鳥に引き上げてします。そして、孝徳は、孤独のうちに難波宮で没する。
『日本書紀』の編纂者は、近江朝の治績を引き下げる目的で、改革の淵源は孝徳朝にあったというように編集したのではないか。

武蔵氏は、「国司」制度の成立について検証する。
孝徳天皇は「改新の詔」の半年前、645年8月5日に、「今始めて万国を修めむとす」と、「東国等の国司」の任命を行なったと『日本書紀』は記載する(08年4月8日の項)。
9月19日に一斉に出発した彼らの任務は、人口調査、検地、武器の没収と国ごとに集中管理させることにあった。
翌年3月までに帰還し、評定を受け、所定の任務を果たしたとしてとがめを受けずに済んだのは、8チームのうちの3つだけだった。
しかし、そのとがめを受けた原因は、馬を私的に使ったというような職権乱用に限られており、与えられた任務については、それぞれ完了したかのように記述されている。

しかし、1チームは24名で構成されていたというが、その人数で、人口調査、検地、武器没収という所定の任務を、所定の期間で完了したということが不自然ではないか。
東国とは、のちの東海道、東山道、北陸道の総称で、実際にはこの時点で朝廷の支配が及びえたのは美濃・尾張までだったようだが、実際に国司が派遣されたのは、畿内だけではなかったのではないか。
孝徳朝の段階では、「倭国」の範囲は、畿内地方に限られたもので、その範囲内で行政刷新を試みたとみるべきだろう。
「今始めて万国を修めむとす」という言葉自体が、それ以前には統治が万国に及んでいなかったことを示している。

この状況を変えざるを得なくなったのは、白村江の敗戦がきっかけである。
645年の「乙巳の変」の時点では、唐と新羅の提携が成立するという状況はあったものの、唐の狙いは高句麗の討伐にあって、倭国にとっては対岸の火事というレベルのことであった。
それは蘇我氏本家打倒のあと、百済に対する軍事支援をただちに実行しなかったことからも窺える。
それが、660年の百済滅亡によって、大和政権は危機感を持つに至る。
百済再興の議が計られ、大軍を朝鮮半島に送り込むものの、白村江において唐軍との戦闘で倭国軍は壊滅的打撃を受ける。

この敗戦の直後に、朝廷は「今始めて万国を修めむとす」とふるい立つ。
白村江で壊滅した倭国軍の主力は、瀬戸内海沿岸の国々から集められたが、敗戦によって西国からの兵士募集に期待が持てなくなり、兵士募集の拠点を尾張・美濃などの東国に移さざるを得なくなった。
「東国国司派遣」の内容はこのようなことではなかったか。

さらに、百済や高句麗からの移住者の増加が、近江朝の東国進出を促した。
その結果、従来の倭国の領域を越えて倭王の権限が伸張した。
それが、倭国から日本国への名称変更を促すことにもなった。
近江朝は「壬申の乱」で滅亡するが、大海人皇子が勝利したのは、兵士募集の新たな拠点として開発された尾張・美濃地方の豪族を味方につけたことが大きな要因である。

『日本書紀』では、676(天武5)年に「国司任用」記事がある。しかし、国々の境界が683(天武12)年12月13日では、「諸国の境界を区分させたが、この年区分はできあがらなかった」とあるから、一般的な形での国司任命は無理だったと思われる。
690(持統4)年7月6日に、「大宰・国司もみな遷任された」とある。持統即位の年である。
この辺りで、国司制度が完成したのではないか、というのが武蔵氏の見方である。
一種の大化改新否定論ではあるが、国内事情に限定した見方であるところが、小林惠子氏と対極的である。
しかし、『日本書紀』の記載は、慎重に批判した上で推論すべきであるという点は共通している。

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2008年4月11日 (金)

大化改新…⑮異説(ⅲ)小林惠子(2)

小林惠子氏の説は、大胆不敵というか突飛というか、正直に言えばついて行くのが難しいと思う。
しかし、それは決していわゆる「トンデモ」な説とは異なるのではないか。
小林氏の基本的なスタンスは、次の通りである(『陰謀大化改新』文藝春秋(9209)、『興亡古代史―東アジアの覇権争奪1000年』文藝春秋(9810)などによる)。

①日本古代史に関しては、『日本書紀』が正史としてほとんど絶対といってもいい程尊重されている。王朝の変遷や為政者の血縁関係や、人物に対する評価なども、『日本書紀』の記載がほとんど何の修正もなく教科書等によって一般に流布されている。

②第二次世界大戦後の古代史は『記紀批判』に始まった。しかし、継體天皇以後の史実について、『記紀』に書かれた以外のもので、定説になったものはない。『記紀』の記述は神代と人代に別れていて、神代に縄文時代の残影があってもいいように思われるが、その痕跡はない。
国生み神話の最初に淡路島があることは、大和地方が本州を代表する勢力になってからの、大和へ侵攻した側の記憶による記述である。

③つまり、『記紀』の記述の神代は古墳時代を投影した時代から始まっており、それは7世紀から8世紀にかけての『記紀』を編纂した為政者たちの歴史認識による。
したがって、『記紀』が記載している上限は、弥生時代であり、しかも『日本書紀』は“万世一系”の啓蒙書として書かれているので、歴史書としては不備なことが多い。たとえば、神武の即位年を紀元前599年に設定したが、それは縄文晩期であって、結果的に天皇の年齢と即位年数を異常に長くせざるを得なくなった。

④ということは、『記紀』だけで日本の古代を解明することは不可能であり、中国の史書によることになる。『三国志』による邪馬臺国時代から、『宋書』の“倭の五王”時代までは、荒唐無稽な説話の多い『記紀』よりも、中国の史書が重視されている。
ところが、倭の五王の最後の「武」は雄略天皇に比定されているものの、その後の倭国関連記事が7世紀初めの隋代まで中国の史書から消えるので、必然的に『記紀』に頼らざるを得ない。6世紀の欽明天皇の辺りから、『日本書紀』の記述はほぼ史実を反映したものと考えられている。

⑤しかし、同じ『日本書紀』なのに、前半は信用せず、後半は疑う余地がない、というのもおかしな話である。それでは、『日本書紀』のどこが正しく、どこが違うのか。人それぞれに意見が分かれ、堂々めぐりをして結局は『日本書紀』に頼らざるを得ないのが現実である。

⑥『日本書紀』の欺瞞は次の2点にある。
a 王統譜を万世一系に捏造し、王朝に変遷があること、すなわち日本でも易姓革命があったことを隠蔽していること
b 中国や朝鮮三国などとの政治外交史を日本中心に主体性を持って優位に展開したように見せかけていること。特に、外国から来た為政者が大王となった事実を極力隠蔽するべく改竄していること

⑦『日本書紀』の完成した時代では政治的にさし障りがあって明記できないことは讖緯説敵表現で語っている。日本の古代を解明するためには、東アジア全体の同姓を俯瞰して捉えなければならない。日本の7世紀までは、それ以後の日本史とまったく違った別の目で見ることが必要である。

⑧日本列島では、7世紀末に北海道・東北・沖縄を除いて、大和地方を首都にした日本国が成立した。7世紀と8世紀の間には大きな断層がある。7世紀までの為政者階級は、民族的にも血縁的にもより深く他のアジア諸国と関連していた。
しかし、日本国が名実共に成立した8世紀以後になると、民族の移動による国際交流は激減し、日本独自の天皇家を中心とした民族意識と文化が成立した。その視点で日本国成立以前の混沌とした古代を推理しても、何も解明できない。

⑩大化改新は、戦前・戦中は、中大兄が専横な蘇我氏に天誅を加え、天皇親政を復活させた王政復古として教えられた。戦争直後には、国民一人一人が国から土地を貸与される“班田収受之法”から、社会改革の面を強調したとらえ方を教えられた。
しかし、大化改新はそのいずれでもなく、東アジアの動乱の1つだった。初唐の勢力拡大の一環であり、三国と連動する政変であったことは多くの専門家の指摘するところとなっている。しかし、各国が具体的にどのように関わり合っているかについての解明は、未だほとんどなされていない。

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2008年4月10日 (木)

大化改新…⑭異説(ⅱ)小林惠子

異説の代表選手は、小林惠子(ヤスコ)氏であろう。
小林氏は、『白村江の戦いと壬申の乱 補訂版―唐初期の朝鮮三国と日本』現代思潮社(8805)を初めとして、多くの著書があり、それぞれが相当部数売れているようなので、読者の数も多いと思われる。
しかし、その論の内容は、異説というよりも異端の説と呼ぶのが相応しい。
小林氏の議論は、日本古代史を東アジア全体との関連で捉える視野の広いものであるが、特に以下の2点が特徴的である。
①朝鮮半島との間で人物像が錯綜していること
②新異説讖緯説的表現に関する独特の解読

讖緯説とは、自然界と人間界とは密接な相関関係があるとして、陰陽五行説にもとづき、日食・食・地震などの天変地異を予測したり、緯書(孔子など聖賢が述作した経書に付託して禍福・吉凶・符瑞の予言を記した書)によって人間の運命を予測したりする説。先秦時代(紀元前221年の秦による天下統一以前の時代、周初より春秋戦国時代)から起こり漢末に盛んとなるが、あまりにも弊害が多いので晋時代以降はしばしば禁じられた、とされるものである(http://www.bekkoame.ne.jp/i/ga3129/435tennousei.htm)。

Photo_2ここでは、小林氏の所説の集大成とも見られる『興亡古代史―東アジアの覇権争奪1000年』文藝春秋(9810)から上記を拾ってみよう。
小林氏の人物像で最も有名なものは、「聖徳太子は西突厥の王だった達頭(タルドゥ)可汗だった」というものであろう。
俄かには信じがたい説であるが、小林氏は、達頭は北アジアの草原の道を通って朝鮮に来て、百済に入りその王朝に迎えられて法王になった。
そして、そのまま日本に移り住んで播磨の斑鳩に住み、蘇我氏に迎えられて大和の大王になった。
達頭は表向きは用明天皇の子とされた、とする。

大化改新関連の人物像に関しては、以下のように説明されている。
①孝徳は、高句麗の太陽王で、百済の義慈王であった。高句麗の宝蔵王は義慈王の子である。
②中大兄は、百済の武王(舒明)の子で、百済名を翹岐と言った。
③大海人は、中大兄の義弟で、高句麗の蓋蘇文である。父親は親唐派で、斉明天皇の前夫だった高向玄理である。
④中臣鎌子(鎌足)は、孝徳(=義慈王)の内臣で、百済名を智積という。武王の死後、山背王朝と蘇我氏打倒を画策する義慈王の密命を帯びて来倭し、中大兄を巻き込んだ。

相当に複雑で理解が難しいが、図のような系譜になる(『興亡古代史』)。

また、讖緯説的表現とは、例えば、『日本書紀』の次のような表現である。

(推古紀)
三十四年春一月、桃や李(スモモ)の花が咲いた。
三月には寒くなって霜が降った。
夏五月二十日、馬子大臣が亡くなった。桃原墓(飛鳥石舞台の古墳)に葬った。大臣は蘇我稲目の子で、性格は武略備わり、政務にもすぐれ、仏法をうやまって、飛鳥川の辺りに家居した。その庭の中に小さな池を掘り、池の中に小さな嶋を築いた。それで時の人は嶋大臣といった。
六月、雪が降った。この年は、三月より七月まで長雨が降り、天下は大いに飢えた。老人は草の根を食って道のほとりに死んだ。幼児は乳にすがって母子共に死んだ。また盗賊が大いにはびこり止めようもなかった。
三十五年の春二月、陸奥国で狢(ムジナ)が人に化けて、歌をうたった。
夏五月、蝿がたくさん集まり、十丈ほどの高さになり、大空に浮かんで信濃坂を越えた。その羽音は雷のようであった。東の方上野国に至って、やっと散り失せた。

このような表現に関して、小林氏は次のように解説している。
季節はずれの冬に花が咲くのは、臣下がクーデターを計画したという讖緯説的表現である。時節はずれの霜は、軍が始動し、殺戮が行なわれた場合に降るという。
この場合は、『日本書紀』舒明即位前紀から、馬子が没すると、摩理勢が反乱を起こしたことを示している。

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2008年4月 9日 (水)

大化改新…⑬異説(ⅰ)論点の鳥瞰

645年の乙巳のクーデターとそれに続く大化改新については、『日本書紀』の記述についてさまざまな解釈が可能なため、異説も数多い。
クーデターは失敗すればそれまでであるが、成功した場合には、その過程は、クーデターの実行者に都合のいいように修飾される。『日本書紀』の記述もそういう目で見ることが必要なことは当然とも言えよう。

「改新」については次のような点が「謎」として指摘されている(澤田洋太郎『異端から学ぶ古代史 』彩流社(9410))。
①新旧両勢力の間にはどういう対立があったのか。
②クーデターの目的は何であり、何ゆえ武力行使という非常措置をとらなくてはならなかったのか。
③中臣鎌子の正体は何か。
a 首謀者のはずの中大兄皇子が即位せず、軽皇子が孝徳として即位した事情は?
b 改新の詔勅の真偽
④古人大兄皇子の「韓人、鞍作りを殺しつ。わがこころ痛し」の解釈。

これらについて、一般的には次のように理解されている。
①蘇我氏の専横を排除するには暗殺以外の手段はなかった。
②豪族支配から公地公民の中央集権政治の確立が「改新」の目的であった。
③中央集権政治については、唐から帰国した南淵請安・高向玄理らの思想的影響が大きかった。

これらの説明は十分に説得的とは言えないだろう、というのが澤田氏の指摘である。
そこで、次のような理解が生まれてくる。
①クーデターにおいて最大の利益を得たのは、軽皇子(孝徳天皇)である。
②従って、軽皇子がクーデターの黒幕であろう。
③それは、聖徳太子の子の山背大兄皇子が蘇我入鹿と巨勢徳太によって襲撃された事件に、軽皇子が絡んでいたことが『上宮聖徳太子補闕記』に書かれていることからも推測できる。
④巨勢徳太は軽皇子の腹心と思われる。
これは、遠山美都男氏(08年3月23日の項)や中村修也氏(08年3月22の項)の説として既に紹介した。

「改新」の実体について、澤田氏は、次のように指摘する。
一般には、豪族支配を打破することによって、「公地公民」の理想を実現することであり、そのために当時の革新勢力が断行した政治改革とされるが次のような弱点がある。
①蘇我氏は豪族連合の頂点にあったが、屯倉を増設したり、国造の官僚化をはかるなど、中央集権国家建設の路線を歩んでいて、律令制度導入の障害になるような存在ではなかった。
②「改新」によって豪族の支配が除かれたわけでもない。

とすれば、現象面だけでなく、背後にある国際情勢についてみる必要がある。
乙巳のクーデターの4年前に、百済では義慈王が多数の王族、豪族を粛清して独裁権力を確立した。
翌年には、高句麗で、泉蓋蘇文が莫離支(マリキ=軍部大臣)になって独裁権力を確立した。
これら二国から攻撃を受けた新羅は、金春秋を高句麗に派遣して妥協を図ったり、唐に使者を送って事態の打開を図っている。
このような国際情勢の中で、乙巳のクーデターや大化改新は、どう理解されることになるのだろうか。

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2008年4月 8日 (火)

大化改新…⑫東国国司派遣について

『日本書紀』によると、孝徳天皇は、皇極4(大化元)年6月14日に即位すると、すぐに体制を整え、8月に東国へ国司を派遣した。

八月五日、東国の国司を召された。国司らに詔して、「天つ神の命ぜられるままに、今はじめて日本国内のすべての国々を治めようと思う。およそ国家の所有する公民や、大小の豪族の支配する人々について、汝らが任国に赴いてみな戸籍をつくり、田畑の大きさを調べよ。それ以外の園地や土地や用水の利得は百姓が共に受けるようにせよ。また国司らはその国の裁判権をもたない。他人からの賂をとって、民を貧苦におとしいれてはならぬ。京に上る時は多くの百姓を従えてはならぬ。ただ、国造、郡領だけを従わせよ。……

原秀三郎氏は、この詔の中の「大小の豪族の支配する人々」の解釈について問題にする。
坂本太郎他校注では、「凡そ国家(アメノシタ)の所有(タモテ)る公民(オホミタカラ)、大(オホ)きに小(イササケ)けに領(アヅカレ)る人衆を」となっている。
この「大きに小けに」の部分を、大小の豪族という意味に解釈すると、国家の所有と大小の豪族の所有という対概念になるが、そうではなくて、国家の所有する公民を「大量に預かっている場合も、少しだけ預かっている場合も」というように同格に解釈すべきだ、というのが原氏の主張である(『「大化改新」論の現在』(青木和夫、田辺昭三編著『藤原鎌足とその時代―大化改新をめぐって 』吉川弘文館(9703)所収)。

つまり、国家の所有(公民)と大小の豪族の所有(私有民)と対概念で捉えると、民部・家部ということに相当するが、そうではなくて、王領の民の調査をするということであり、それは大化改新の原則とは矛盾している。
改新は第一条において、公地公民の原則を示している(08年4月3日の項)。しかし、ここではそうではない。
それは、改新の前に王民の調査を始めよ、ということである。

原氏の解釈は、孝徳は、即位して王領の調査を始めた。そしてそれと並行してコホリ=評制を順次施行していったのではないか。
東国国司については、大化2年3月2日に、「……法に従った者は褒めるが、違反した者は遺憾である。……先の勅に従って裁断することにする」とあり、3月19日には、その裁断結果が発表されている。
原氏は、この処分はいかにも早すぎるのではないか、とする。

原氏の見解は、「孝徳天皇は、大化5(649)年に即位して、翌650年に白雉と年号を改め、白雉5(654)年に死去したのではないか」(08年4月4日の項)であり、この部分について、次のように解釈する。
①大化5年に、東国国司詔が出て、評制の施行が行われる。
②翌年の白雉元年3月頃までに悪い噂が中央に来る。
③白雉2年頃に調査を命じ、白雉3年頃に処断が下された。
④『常陸国風土記』などの史料をみると、最初に評制が施行されたのは、香島の神郡で大化5(649)年である。
⑤孝徳は、率先垂範してまず王領を再編成し、それから豪族の領民へ拡大していった。
⑥つまり、評制は一斉に施行されたのではなく、徐々に施行されて行った。
⑦白村江の敗戦の後、民部・家部が制定されて、私有権が制限されようになる。

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2008年4月 7日 (月)

大化改新…⑪白雉改元儀の意義

白雉改元は、白い雉を瑞祥として行なわれたものである。『日本書紀』では、大化の次の年号であるが、九州年号では、白雉以前に、「僧要」だとか「常色」などの仏教的なニュアンスの濃い年号が建てられている。
白雉は、いわば初めて瑞祥に基づいた建元ということになる。
九州年号が実際に使用されていたとして、白雉改元はいかなる意味を持つと考えられるか?

これに関して、異端の見解を披瀝しているのが、斎藤忠『失われた日本古代皇帝の謎 』学研M文庫(0803)である。
斎藤氏は、表紙裏の著者紹介欄によれば、古代史とキリストを主たる対象としたジャーナリストということである。 
従って、オーソドックスな学界とは距離を置いた人だと思われる。
私は、日本古代史に関しては、いわゆる通説・定説の類を疑ってかかりたいと思うし、そういう面に関してアマチュアも大いに発言して欲しいと思う。
そういう中で、異端の説を試みることに賛成であるし、妥当性を得ない異端はいずれ淘汰されることになると思う。

斎藤氏の説は、九州王朝説をさらに発展的に捉え、倭国を幕藩体制のような一種の連邦国家とするものである。つまり、多元的国家の存在を認めるものである。
その連邦を構成する国家の1つとして、『隋書』に登場する俀国があり、それは大委国であり、九州王朝が直轄で支配する国であるとする。

孝徳は、孝徳紀の冒頭で、「天万豊日天皇は皇極天皇の同母弟である」とされる以外に系譜に関する説明がない。
この記述の仕方は、天武紀の冒頭における「天淳中原瀛真人天皇は天智天皇の同母弟である」のとそっくりである。
そして、天智-天武の兄弟関係については大いに疑義があるとされている(08年1月26日の項)。
斎藤氏は、天武紀における天智の同母弟とある記述は、天智の同母弟ではなく、九州王朝の君主の弟を指すとしている。
この点は、既に紹介した砂川恵伸氏の見方(08年1月15日)と同一である。

そして、この見方から、斎藤氏は、姉・宝王女の同母弟である孝徳は、九州の皇統の王子ではないか、とする。
そして、『日本書紀』が、郡制の施行を半世紀前に遡らせて記述しているように、そして、九州王朝の年号「大化」がヤマト王権のものとして半世紀遡って移植されたように、改新の業績自体が半世紀遡って孝徳朝の治績として移植されているのではないか。
孝徳朝の改新事業は、もともと九州王朝側のものであって、それが半世紀ほど後に行なわれたヤマト王権側の似た改新事業が移植・融合されているのではないか、とするのである。

斎藤氏は、孝徳が常住するために難波の長柄豊碕宮に入るのは白雉2年12月のことであり、それまで小郡宮や大郡宮などの仮宮で執政していた。
小郡や大郡は筑紫国にもあるが、北九州と畿内には共通の地名は数多くある。
これらの仮宮が畿内のものとは限らない。
そして『万葉集』(巻6・1062~4)にある「やすみしし我が大君(孝徳)のあり通ふ難波の宮は~」の歌について、孝徳はどこから難波の宮に通ったのか、と問う。
斎藤氏は、北九州の首都から難波に通ったのではないか、とする。難波は副都(陪都)だったというのである。

難波長柄豊碕宮の造営開始は白雉元年で、この年に瑞祥にちなむ改元を行なった。
それは、唐の天命に従わないことの表明で、その証拠に、白雉改元後は唐と交わることなく、親唐の新羅を咎めたてる記事がある。

(白雉二年年冬十二月の晦日の条)
この年、新羅の貢調使知万沙飡らは、唐の国の服を着て筑紫に着いた。朝廷では勝手に服制を変えたことを悪(ニク)んで、責めて追い返された。巨勢大臣がそのとき申し上げた。「今新羅を討たれなかったら、きっと後に悔いを残すことになるでしょう。そのやり方は難しくありません。難波津から筑紫の海に至るまで、船をいっぱいに並べて、新羅を呼びつけてその罪をただせば、たやすく出来るでしょう」と。

つまり、孝徳の朝廷は、唐の臣下として振る舞いだした新羅を非難し、その使節を拒むのであるが、瑞祥年号の建元は、唐の天命に対する拒絶宣言であった。
それは、孝徳紀の改元の儀が、日本の正史に類を見ないほどの紙数を割いて記述されている。
そして、「四方の諸の国・郡など、天がゆだね授けられるので、自分がまとめ天下を統治している」と詔している。
それは、天命が自分に下されていることを示したものであって、壮麗な改元の儀は、皇帝登位の儀式だったのである。

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2008年4月 6日 (日)

大化改新…⑩白雉献上記事

孝徳紀に詳しく記されている白雉献上記事について、九州王朝説の主唱者古田武彦氏は、次のように論じている(古田武彦、澁谷雅男『日本書紀を批判する』新泉社(9410))。
『日本書紀』は、七世紀後半に三個の年号(大化・白雉・朱鳥)が飛び飛びに(試行錯誤的に)行なわれたのち、八世紀以後、「大宝」以降連続年号の時代となった、と「主張」する。
つまり、「七世紀後半から八世紀へ」の推移が、同一王朝内の“なだらかな移行”として描写しているが、それは史的事実と相反している。

史的事実とは、七世紀末までは九州年号、八世紀以降は近畿年号が用いられ、そこに明らかな画期線が存在している、ということである。
古田氏は、「九州年号」が偽作されたものであるならば、6世紀前半移行についてだけ偽作したことが不自然であるし、『日本書紀』の3年号を「種(アイデアの元)」にして、その3年号を含む31年号を創作した、などという「想定」は不自然であり得ないことだ、とする。
しかし、『日本書紀』は、なぜ3年号を配置したのか?
その鍵となるのが、孝徳紀の白雉献上記事だとする。
『日本書紀』の記事は以下のような内容である。

先ず、「白雉」出現の先例を挙げる。
①後漢の明帝の永平十一年に、白雉があちこちにみられた
②周の成王の時に越裳氏が来て、白雉を奉った
③晋の武帝の咸寧元年に、松滋県で見られた
これらは、いずれも天子の盛業の証しとして出現した、とされている。
これに対し、高麗国の事例として、以下が挙げられている。
a 白鹿
b 白雀
c 三足の烏
よりささいではあるが「めでたいしるし」の例とである。

そしてわが国の事例として、次のように記されている(宇治谷孟『日本書紀〈下〉』(8808))。

わが国では応神天皇の世に、白い烏が宮殿に巣をつくり、仁徳天皇の時に竜馬が西に現れた。このように古くから今に至るまで、祥瑞が現れて有徳の君に応えることは、その例が多い。いわゆる白鳳・麒麟・白雉・白烏、こうして鳥獣から草木に至るまで、めでたいしるしとして現れるのは、皆天地の生むところのものである。

しかし、『日本書紀』の応神紀・仁徳紀には、この事例の記載はない。「白鳳・麒麟・白雉・白烏」と、吉祥の代表選手として並べられているにも拘わらず、である。
古田氏は、これを、中国の天子の固有名詞を日本国の「応神天皇」「仁徳天皇」ととりかえ、換骨奪胎した「盗用文」であるとする。
孝徳紀に記されている長門国司がたてまつった白雉は、「天子の吉祥」であり、「地方豪族の雄」や「夷蛮の王」に対する吉祥ではない。

そして、
a 『隋書』俀国伝の「日出ずる処の天子云々」の多利思北孤が、九州王朝の主であったのに対し、推古天皇は、「大王天皇」を称する地方豪族であったけれど、「天子」を称することはなかった。
b 『続日本紀』記事(宇治谷孟現代語訳『続日本紀〈上〉』講談社学術文庫(9206))。

①元明紀・和銅元(708)年
全国に大赦を行なう。和銅元年一月十一日の夜明け以前の死罪以下、罪の軽重に関わりなく、すでに発覚した罪も、まだ発覚しない罪も、獄につながれている囚人もすべて許す。八虐を犯したもの、故意による殺人、殺人、殺人を謀議して実行し終わったもの・強盗・窃盗と律により平常の赦には許されないとしている罪は、この中に入れない。山沢に逃げ、禁書をしまい隠して、百日経っても自首しないものは、本来のように罪する。
②元正紀・養老元年(717)年
(十一月十七日)
…山野に逃亡し、兵器を隠し持ち、百日以上になる者は、大赦はなく、もと通りの罪とする。

『続日本紀』の記事は、「禁書」を隠しもって山沢に逃亡(亡命)していたものが、追い詰められて「兵器」のみの残党狩りの様相を呈するに至ったことを示している。
「禁書」を手にした近畿天皇家は、その「禁書」を利用・換骨奪胎して(言い換えれば盗用して)、『日本書紀』という正史を「造作」したのだった。
その「盗まれた神話」の実例の1つが、白雉献上譚だというのが、古田氏の主張である。

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2008年4月 5日 (土)

大化改新…⑨白雉期の位置づけ

美術史において「白鳳時代」という言葉は大きな比重を占めている。
しかし、その「白鳳の由来」については曖昧であると言わざるを得ない(08年1月6日の項1月8日の項)。
白鳳は白雉の異称である、というのが坂本太郎以来の一般的な理解のようであるが、それにしては白雉年間の意義についての論議が少ないようである。
旧来の通説的には、めざましい改革が行われたのは、大化年間だけのことで、白雉期には改革の進展はなかったとする。
その論拠は、白雉という瑞祥が、それまでの5年間(大化年間)の政治が良かったから、出現したという解釈である。
『日本書紀』には次のようにある。

(白雉元年)
二月九日、長門国司草壁連醜経が白雉をたてまつって、「国造首の一族の贄が、一月九日に麻山で手に入れました」といった。これを百済君豊璋に尋ねられた。百済君は「後漢の明帝の永平十一年に、白雉があちころにみられたと申します」云々といった。また法師たちに問われた。法師たちは答えて、「まだ耳にせぬことで、目にも見えません。天下に罪をゆるして民の心を喜ばせられたらよいでしょう」といった。道登法師が言うのに、「昔高麗の国で伽藍を造ろうとして、たてるべき地をくまなく探しましたところ、白鹿がゆっくり歩いているところがあって、そこに伽藍を造って、白鹿薗寺と名づけ仏法を守ったといいます。また白雀が、ある寺の寺領で見つかり、国人はみな『休祥(大きな吉祥)だなあ』といいました。また大唐に遣わされた使者が、死んだ三本足の烏を持ち帰った時も、国人はまた『めでたいしるしだ』と申しました。これらはささいなものですが、それでも祥瑞といわれました。まして白雉とあればおめでたいことです、と。僧旻も、「これは休祥といって珍しいものです。私の聞きますところ、王者の徳が四方に行き渡るときに、白雉が現れるということです。また王者の祭祀が正しく行なわれ、宴会、衣服等に節度のあるときに現れる、と。また王者の行いが清素なときは、山に白雉が出て、また王者が仁政を行なっておられるときに現れる、と申します。周の成王の時に越裳氏が来て、白雉を奉って、『国の老人の言うのを聞くと、長らく大風淫雨もなく、海の波も荒れず三年になります。これは思うに聖人が国の中におられるからでしょう。何故、行って拝朝しないのだ、とのことでした。それで三ヵ国の通訳を重ねて、はるばるやってきました』と言ったということです。また晋の武帝の咸寧元年に、松滋県でも見られたとのことです。正しく吉祥でありますので、天下に罪をゆるされるがよいでしょう」といった。

大化年間に改革を限定するという説に対して、白村江の敗戦(663年)の後、天智3(664)年の「甲子の宣」から改革が始まるとするのが、原秀三郎氏らの見解である。
それは、大化改新詔の第一条の部曲をやめて公地公民の原則を行い、その代わりに食封を賜うということが言えるのが、天武4(675)年に部曲が廃止されてからでなければならないからである。
他の租税等の改革は、公地公民の原則をもとに行われるものであるから、大化年間に一挙に行われるのは無理だ、ということになる。

原氏は、孝徳朝の実体は白雉以降であり、その記録が大化年間に集中的に集められたのではないか、とする。
それは、『日本書紀』の立場が、藤原鎌足の事績を顕彰するところにあり、乙巳のクーデターの後に、中大兄(天智)の右腕の鎌足が重要な役割を果たしたと位置づけたいからである。

Photo_2 ところで、「九州年号」(08年1月7日の項)は表(斎藤忠『失われた日本古代皇帝の謎 』学研M文庫(0803))のようなものがあり、白雉元年は652年とされる。
『日本書紀』では、白雉元年は650年だから、2年のズレがあることになる。
原氏は、孝徳は、蘇我氏滅亡の5年後の白雉元年に即位したとし、そこから新政が行われたのであり、それを「白雉惟新」と名づけている(『「大化改新」論の現在』(青木和夫、田辺昭三編著『藤原鎌足とその時代―大化改新をめぐって 』吉川弘文館(9703)所収)。
明治維新の「維」新と区別するために、「惟」新の文字を使ったとする。

その具体的内容として、第一に「評制」が施行された。
第二に、白雉改元をした。
第三に、白雉2年に難波遷都を行った。これに伴い、畿内制を施いた。
第四は、653年と654年に遣唐使を派遣した。
これらの孝徳の新政は、儒教に基づく理想主的な政治であったため、現実面の経済政策や土地政策でぬかりがあり、中大兄と対立関係になった、というのが原氏の「改新」の捉え方である。

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2008年4月 4日 (金)

大化改新…⑧否定論(ⅴ)

原秀三郎氏の「大化改新否定論」の論点の第二は、孝徳天皇の即位の時期に関してである。
つまり、前記5条件の「①645年6月14日、孝徳天皇が蘇我氏滅亡の直後に即位した。」の否定である。
『日本書紀』では、孝徳が皇極から譲位されたのは、乙巳のクーデターが決行された6月12日の直後の14日のことである。

十四日、皇極帝は位を軽皇子に譲られ、中大兄を立てて皇太子とされた。

これに対し、原氏は、孝徳が即位したのは、大化5(649)年のことではないか、とする。
『唐書』に、「永徽初孝徳即位」という記事があり、日本でも『皇代記』という平安時代の書物に、「孝徳天皇諱軽、治十年大化五年即位」とあるという。
史料批判の態度としては、同時代により近い史料を重視し、かつ民間に伝承されているものよりも官撰のものの方を重視すべきである、というのが鉄則である。
従って、後世史料によって『日本書紀』の記述を否定することは、非常に困難なものではあるが、しかし『日本書紀』そのものが一定の政治的立場に立って編纂されていることも事実である。
かつては神典として、批判的に扱うことすら危険視されていた時代もあるが、「偽装の原点」(07年9月6日の項)とする説もあるのだから、全体を総合的に勘案して考えることが重要であろう。

原氏の論点の第三は、大化年号問題である。
これは、「②6月19日に年号を大化に改めた。」に係わる。
『愚管抄』の皇帝年代記の中に「朱鳥ノノコリ七年、大化四年、元年乙未」という記述があり、持統天皇のときに大化の年号があった、ということである。
大化年号については、いわゆる「九州年号」との関係(08年1月7日の項)で議論されているが、原氏は、持統朝の大化が正しく、孝徳朝の大化はあとからつけられた可能性がある、とする。

論点の第四は、難波宮遷都の時期の問題「③12月9日に難波長柄豊碕に移した。」である。
『日本書紀』では、大化元年に以下の文章がある。

冬十二月九日、天皇は都を難波長柄豊碕に移された。老人たちは語り合い、「春から夏にかけて、鼠が難波の方へ向ったのは、都遷りの前兆だった」といった。

しかし、一方で、白雉年間には、次のような記載がある。

(元年)
冬十月、宮の地に編入されるために、墓をこわされた人、及び住居を遷された人々に、それぞれに応じた御下賜があった。将作大匠荒田井直比羅夫を遣わして、宮地の境界線を立てさせた。

(2年)
冬十二月の晦日、味経宮で二千百余人の僧尼を招いて、一切経を読ませられた。このとき天皇は大郡(上町台地の東側か)から遷って、新宮においでになった。この宮を名づけて難波の長柄豊碕宮(大阪市東区法円坂町辺)という。

(3年)
秋九月、豊碕宮の造営は終わった。その宮殿の有様は、譬えようもない程であった。

つまり、白雉元年の10月に宮地の選定が行われ、翌年の12月に宮を遷り、さらに翌年の9月に造営が完了したということである。
大化元(645)年に都を移したとすると、白雉3(652)年の完成まで余りに間がありすぎる。
原氏は、これを白雉元年から3年にかけて造営が行われたと見る方が妥当ではないか、とする。

とすると、孝徳朝というのは、実際は白雉の5年間だったのではないか、という見方が出てくる。
原氏は、『日本書紀』が大化年間に行われたとしている諸改革は、実際は白雉年間に行われたもので、それがその前の5年間に、大化年号とともに挿入されたのではないか、ということである。
そして、孝徳天皇は、大化5(649)年に即位して、翌650年に白雉と年号を改め、白雉5(654)年に死去したのではないか、とする。(『「大化改新」論の現在』(青木和夫、田辺昭三編著『藤原鎌足とその時代―大化改新をめぐって 』吉川弘文館(9703)所収)。

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2008年4月 3日 (木)

大化改新…⑦否定論(ⅳ)

原秀三郎氏は、改新否定説の対象としている大化改新を、次の5条件として要約する(『「大化改新」論の現在』(青木和夫、田辺昭三編著『藤原鎌足とその時代―大化改新をめぐって 』吉川弘文館(9703)所収)。
それは、坂本太郎が、『大化改新の研究』至文堂(1938)において示したもので、基本的な学説として位置づけられてきた。
①645年6月14日、孝徳天皇が蘇我氏滅亡の直後に即位した。
②6月19日に年号を大化に改めた。
③12月9日に難波長柄豊碕に移した。
④大化2年正月元旦、甲子の日、改新の詔四条が出され、第一条で公地公民の原則が示された。
⑤大化の5年間で主要な改革がほぼ完了した。
そして、坂本氏は、改革の終わった白雉年間はほとんど何もなく、663年の白村江の敗戦の後は、改新以前の古い政治に立ち戻った、とする。

このような見解に対し、原氏らの否定論の論拠は以下のようなものである。
①部民制の廃止
宇治谷孟現代語訳『(日本書紀〈下〉 (講談社学術文庫)』では、改新詔は、以下の通りである。

その第一、昔の天皇たちの立てられた子代の民・各地の屯倉と臣・連・伴造・国造・村の首長の支配する部民・豪族の経営する各所の土地を廃止する。そして食封を大夫より以上にそれぞれに応じて賜わる。以下は布帛を官人・百姓にそれぞれ賜わることにする。そもそも大夫は人民を直接治めるものである。よくその政治に力を尽くせば人民は信頼する。故に大夫の封禄を重くすることは、人民のためにすることなのである。

原氏は、上掲文の「そして食封を……」の部分の文脈を問題にする。
「廃止する」というのは、ここで「廃止する」という命令形で、「そして……」は、その代わりに賜うと読むのが自然であろう。
ところが、肯定論者は、「廃止する」を「廃止せよ」とこれから廃止するというニュアンスで捉え、「そして……」は、「そうしたらあたえるであろう」とする。
原氏は、そもそもこのような解釈は自説に都合のいいように無理して読んだものだ、と批判する。

そして、この詔によって、私地私民制が廃止されたというのが、改新論の根本である。
原氏は、これに対し、部民制の廃止は、白村江の敗戦の翌年の664年の「甲子の宣」から始まるとする。
それは、天智3年2月条の以下の記述(上掲書)に基づく。

三年春二月九日、皇太子(中大兄)は弟大海人皇子に詔して、冠位の階名を増加し変更することと、氏上・民部・家部などを設けることを告げられた。

この段階で、民部(公民)と家部(私有できる民)との区別が明確になったのであり、それが公民制の前提である。
これに基づいて庚午年籍が作られ、国家社会主義的な軍国日本が作られていく、という理解である。
そして、天武4年(壬申の乱の4年後)2月条の次の文章に着目する(坂本太郎他校注『日本書紀日本書紀 (5) (ワイド版岩波文庫) 』(0311))。

己丑に、詔して曰はく「甲子の年に諸氏に給へりし部曲は、今より以後、皆除めよ。

この部分の部曲の解釈が問題で、宇治谷孟現代語訳では以下のように訳されている。

十五日、詔して「天智三年に諸氏に賜わった民部・家部は以後中止する。

つまり、部曲=民部・家部というのが、宇治谷訳である。
しかし、原氏は、浜口重国『唐王朝の賎人制度』(東京大学出版会)に、部曲とは賎民の一種で、とくに売買できないものをいう、と明記されていることを引き、部曲は、家部の特定部分を指し、その他の部分が、家人・奴婢として私有されるものである、とした。
つまり、大化改新の内容を構成する「④大化2年正月元旦、甲子の日、改新の詔四条が出され、第一条で公地公民の原則が示された。」という論拠は否定された、というのが原氏の主張である。

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2008年4月 2日 (水)

大化改新…⑥否定論(ⅲ)

原秀三郎氏らの日本史研究会古代史部会は、1964年から約3年間、大化改新についての共同研究を実施する。
原氏によれば、それは改新否定説を説得的なものにするための十分条件を追究するものであった。
この共同研究の成果として、原氏は次の3点を挙げる(前掲書)。

1.大化改新の研究史的位置づけ
大化改新を、明治維新、鎌倉幕府開設とならぶ三大改革と位置づける見方は、近代天皇制イデオロギーによって捏造されたものであり、それが定着したものであること。
中世以前には、大化改新は、壬申の乱以上に重視されていなかった。近世になって、新井白石や本居宣長は、大化の政治改革は、悪政として否定的に捉えられてきた。
それが積極的な肯定的評価をされるようになったのは、明治維新との対照でその意義が論じられるようになってからで、明治20(1887)年前後からである。
大正期には、社会経済史学が勃興するのに伴い、改新を、氏族制度から古代国家への移行の画期として位置づける見方が現れてくる。
昭和に入ると、『日本書紀』の批判的研究をベースにした津田左右吉が、「改新は政治制度に関するものであって、社会変革としての要素はなかった」とする見解を発表する(『大化改新の研究』(1930、31))。
津田は、社会経済史における階級闘争史的見方を排し、日本民族史の特質を、皇室中心の社会生活と思想の一貫性に求めた。
また、『日本書紀』の記載をそのままうけとらず、本文の批判的検討を行った。
この津田の研究に対し、反論を加えたのが、坂本太郎であった。
坂本は、『日本書紀』の史料的信頼性を強調し、結果的に皇国史観を補強した。その結果、大化改新が明治維新とならぶ王政復古の大改革とする評価が確立した。
敗戦後には、井上光貞が、津田の『日本書紀』の批判的研究を前進させたが、改新詔そのものを疑うことはせず、原詔の存在を肯定するものであった。
つまり、原詔は宣命体の文章で、それが現詔の漢文体にされる過程で、浄御原令あるいは大宝令による修飾が加えられたとするものである。
原氏は、これらの研究史の大筋を回顧し、改新が近代天皇制によって、美化され、称揚され、虚像として捏造されてきた、と総括する。

2.大化年号への疑惑
原氏らの共同研究の成果の第二は、「大化」という年号の存在に関してである。
『日本書紀』によれば、孝徳朝で大化年号が建てられ5年続き、その後白雉に改元されて5年続き、いったん途絶えて天武15年に朱鳥と改元されたが、その年に天武が死去したため、朱鳥はこの1年で終わっている。
古代年号については、特に「九州年号」と呼ばれるものとの関連で、さまざまな議論がある(08年1月7日の項)。
大化改新については、当然、その「大化」という年号自体の吟味がなされてしかるべきであったにも拘わらず、原氏によれば、原氏らの共同研究が、1965年に『“大化改新”への分析視角』として取り上げるまで問題にされてこなかった。

3.『日本書紀』編者の「大化改新」観の検討
第三は、『日本書紀』の中で、改新はそれにかかわった人物や事件を検討し、その中の作為や虚構を明らかにしたことである。
例えば、藤原鎌足の理想化と蘇我氏の専横非道ぶりなどに作為をみるという視点である。
特に、門脇禎二氏から、蘇我氏の蝦夷、入鹿などという呼び名が、通称と異なり『日本書紀』編者によって命名されたものではないか、あるいは難波遷都は蘇我氏が実権を握っていたとする大化元年の前年にその動きがあったのではないか、という提起があり、乙巳の変による入鹿殺害の政治史的意義が、さほど決定的意義を持つものではない、ということが主張された。

原氏は、「改新否定説」の研究成果は、上記以外に広範囲に及び、旧来の因習的な見方から解放して、自由な観点を提供することになった、とする。

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2008年4月 1日 (火)

大化改新…⑤否定論(ⅱ)

改新詔の凡条が、大宝令によって述作されたものであるという岸俊男氏の見解は、「郡評論争」の結果によって、その正しさが証明されることになった。
改新詔第二詔には、郡および郡司に関する規定があり、主文や凡条にある郡や郡司という語が、改新当時のものであったのかどうかが議論されていた。
金石文などでは、郡は評、郡司は評造あるいは評督などと表記されている場合があり、郡あるいは郡司という語句は、大宝令あるいは浄御原令以降に使われたのではないか、とする疑問である。
これについては、藤原宮出土の木簡により、699年まで、評が使われていたころが明らかになり、郡の使用が大宝令に始まることが明らかになった。
郡評論争に決着が着いたのと同時に、改新詔の凡条が、大宝令によって修飾されたとする岸氏の見方が裏付けられたことになるわけである。

原秀三郎氏は、岸俊男氏から、改新詔を根底から疑ってみるという視点を教示されたことになる。
そして、改新詔第一詔の吟味の検討に着手した。
第一詔は、第二詔以下が主文と凡条という構成になっているのと異なり、主文と凡条とに分かれていない。
大化改新が日本史上の画期であるとされるのは、土地人民の私有を廃して公地公民という原則を打ち出し、その原則のうえに、官僚制、軍事、交通、租税などの諸制度を実施した点にある。
第一詔は、子代、屯倉という皇室財産と、部曲、田荘という諸豪族の私有財産を廃し、かわりに食封を大夫以上のものに与え、それ以外の官人、百姓には布帛をあたえることが記されており、公地公民の原則を宣布したものとされてきた。
第一詔は、第二詔以下の諸政策を根本で支える扇の要の役割を果たしている、ということになる。
その第一詔の信頼性が崩れるということは、大化改新の全体像を問い直すことを意味する。

公地公民に関しては、第三詔が、人民の戸籍、計帳をつくり、班田を行うことをさだめている。
この第三詔が、岸俊男氏の検証したように大宝令によって造作されたものだとすれば、第一詔についても見直すことが必要になってくる。
班田の実施は、白雉3(652)年の記事を造作したものとみれば、持統4(690)年の庚寅年籍にもとづき、持統6(692)年に、班田大夫宇らを四畿内に遣わしたという記事までくだることになる。

原氏は、律令制の大原則ともいうべき公民制が、いつどのような過程で成立したかを、改新詔以外の史料から判断することを考えた。その結果を、第一詔とつきあわせてみようということである。
その結果を、1967年から1968年にかけて、『大化改新論批判序説-律令制的人民支配の成立過程を論じていわゆる『大化改新』の存在を疑う』という論文にまとめ、『日本史研究』誌上に発表した。
原氏の検討結果を要約すれば、以下のようである。

確実な史料にもとづいて公民制の成立過程を検討すると、天智天皇3(664)年に、民部=国家の民と、家部=大・小氏上の民との区別が立てられ、天智天皇9(670)年の庚午年籍を経て、壬申の乱後の天武天皇4年の部曲の廃止によって、はじめて公民制とよぶべきものが成立したことが明らかになった。
つまり、公地公民の原則に立って私地私民を廃し、その代償として食封を支給するなどという具体的な施策は、天武天皇4年以降になってはじめて可能な事柄である。
言い換えれば、改新第一詔が、大化2年正月1日に宣せられたということはあり得ない。改新詔の信頼性は根底から覆され、大化改新という一大政治改革は、『日本書紀』の作為のうえに、近代歴史学が上乗せした虚像に過ぎない。

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