大化改新…⑮異説(ⅲ)小林惠子(2)
小林惠子氏の説は、大胆不敵というか突飛というか、正直に言えばついて行くのが難しいと思う。
しかし、それは決していわゆる「トンデモ」な説とは異なるのではないか。
小林氏の基本的なスタンスは、次の通りである(『陰謀大化改新』文藝春秋(9209)、『興亡古代史―東アジアの覇権争奪1000年』文藝春秋(9810)などによる)。
①日本古代史に関しては、『日本書紀』が正史としてほとんど絶対といってもいい程尊重されている。王朝の変遷や為政者の血縁関係や、人物に対する評価なども、『日本書紀』の記載がほとんど何の修正もなく教科書等によって一般に流布されている。
②第二次世界大戦後の古代史は『記紀批判』に始まった。しかし、継體天皇以後の史実について、『記紀』に書かれた以外のもので、定説になったものはない。『記紀』の記述は神代と人代に別れていて、神代に縄文時代の残影があってもいいように思われるが、その痕跡はない。
国生み神話の最初に淡路島があることは、大和地方が本州を代表する勢力になってからの、大和へ侵攻した側の記憶による記述である。
③つまり、『記紀』の記述の神代は古墳時代を投影した時代から始まっており、それは7世紀から8世紀にかけての『記紀』を編纂した為政者たちの歴史認識による。
したがって、『記紀』が記載している上限は、弥生時代であり、しかも『日本書紀』は“万世一系”の啓蒙書として書かれているので、歴史書としては不備なことが多い。たとえば、神武の即位年を紀元前599年に設定したが、それは縄文晩期であって、結果的に天皇の年齢と即位年数を異常に長くせざるを得なくなった。
④ということは、『記紀』だけで日本の古代を解明することは不可能であり、中国の史書によることになる。『三国志』による邪馬臺国時代から、『宋書』の“倭の五王”時代までは、荒唐無稽な説話の多い『記紀』よりも、中国の史書が重視されている。
ところが、倭の五王の最後の「武」は雄略天皇に比定されているものの、その後の倭国関連記事が7世紀初めの隋代まで中国の史書から消えるので、必然的に『記紀』に頼らざるを得ない。6世紀の欽明天皇の辺りから、『日本書紀』の記述はほぼ史実を反映したものと考えられている。
⑤しかし、同じ『日本書紀』なのに、前半は信用せず、後半は疑う余地がない、というのもおかしな話である。それでは、『日本書紀』のどこが正しく、どこが違うのか。人それぞれに意見が分かれ、堂々めぐりをして結局は『日本書紀』に頼らざるを得ないのが現実である。
⑥『日本書紀』の欺瞞は次の2点にある。
a 王統譜を万世一系に捏造し、王朝に変遷があること、すなわち日本でも易姓革命があったことを隠蔽していること
b 中国や朝鮮三国などとの政治外交史を日本中心に主体性を持って優位に展開したように見せかけていること。特に、外国から来た為政者が大王となった事実を極力隠蔽するべく改竄していること
⑦『日本書紀』の完成した時代では政治的にさし障りがあって明記できないことは讖緯説敵表現で語っている。日本の古代を解明するためには、東アジア全体の同姓を俯瞰して捉えなければならない。日本の7世紀までは、それ以後の日本史とまったく違った別の目で見ることが必要である。
⑧日本列島では、7世紀末に北海道・東北・沖縄を除いて、大和地方を首都にした日本国が成立した。7世紀と8世紀の間には大きな断層がある。7世紀までの為政者階級は、民族的にも血縁的にもより深く他のアジア諸国と関連していた。
しかし、日本国が名実共に成立した8世紀以後になると、民族の移動による国際交流は激減し、日本独自の天皇家を中心とした民族意識と文化が成立した。その視点で日本国成立以前の混沌とした古代を推理しても、何も解明できない。
⑩大化改新は、戦前・戦中は、中大兄が専横な蘇我氏に天誅を加え、天皇親政を復活させた王政復古として教えられた。戦争直後には、国民一人一人が国から土地を貸与される“班田収受之法”から、社会改革の面を強調したとらえ方を教えられた。
しかし、大化改新はそのいずれでもなく、東アジアの動乱の1つだった。初唐の勢力拡大の一環であり、三国と連動する政変であったことは多くの専門家の指摘するところとなっている。しかし、各国が具体的にどのように関わり合っているかについての解明は、未だほとんどなされていない。
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コメント
広開土王を知りたくて、小林惠子氏の『広開土王と「倭の五王」』を手にしたところ、広開土王は仁徳であるとの説に驚かされました。
『記紀』国生み神話を大和へ侵攻した側の記憶だと、小林氏の論に少しもブレがないことを知り、もう少し読んでみようと思った次第です。
投稿: bittercup | 2009年7月 1日 (水) 06時22分
bittercup様
コメント有り難うございます。
小林惠子氏の説は、小生にとってはいささかトンデイルという気も致しますが、内外の文献を広く渉猟・解読され、先入見なしで仮説を構築されていく姿勢には大きな刺激を受けます。
いつの日か、小林説を否定し得る自分の視点を持てれば、と思っています。
今後とも宜しくお願いします。
投稿: 管理人 | 2009年7月 5日 (日) 20時28分