天智天皇…②その時代
天智天皇が生きた時代は、日本という国家が誕生しようとする「産みの苦しみ」の時代だったように思われる。
628(推古36)年に、推古天皇が亡くなる。
皇太子だった聖徳太子は、既に推古29年に薨去していたが、後継の皇太子を立てるに至っていなかったため、大王位の継承をめぐって大夫たちの間に対立があったが、629年に、蘇我蝦夷の支持する田村皇子が大王位に就き(舒明天皇)、宝皇女(皇極、斉明)が大后(皇后)となった。
もっとも、この時期に、皇太子という制度は確立していなかったと言われる。
舒明は、630(舒明2)年に、犬上御田鍬や薬師恵日を唐に遣わした。
御田鍬は、2年後の632(舒明4)年に帰国した。唐は、高表仁を遣わして御田鍬を送らせたが、『旧唐書』では、高表仁は王子と礼を争い、朝命を宣せずに還ったと記載されてる。
『日本書紀』にも天皇との会見記事がないことから、高表仁が大和政権に受け入れられなかったのは事実だと考えられる。
この頃、唐は新羅と組んで高句麗と百済に圧力を加えていた。
高句麗や百済も大和政権との結び付きを求めて使者を送ってきており、東アジアの情勢は緊迫していた。
640年(舒明12)年に、高向玄理が唐から新羅を経由して帰国する。隋から唐への王朝交代を体験してきた玄理らが帰ってきたことは、政権の中枢部に刺激を与えただろうと思われる。
舒明は、641(舒明13)年に亡くなる。翌年、宝皇女が即位する。皇極天皇であり、推古に次ぐ女帝である。
皇極が即位したのは、大王候補が、山背大兄、中大兄、古人大兄など複数居て決め切れなかったためと考えられている。
朝鮮半島では、高句麗と百済で政変が起き、新羅に侵入するが、これに対して新羅は唐に救援を求め、唐は、644年に高句麗に攻撃を仕掛ける。
国内では、蘇我蝦夷、入鹿の父子が権力を高め、大王と肩を並べるほどになった。
『日本書紀』には、643(皇極2)年10月12日の条で、蘇我入鹿が独断で上宮(聖徳太子)の王子たち(山背大兄)を廃して、古人大兄(舒明天皇の皇子、母は蘇我馬子の女)を天皇にしようと企てた、とある。
そして、11月1日、入鹿は小徳巨勢徳太臣・大仁土師娑婆連を遣わして、山背大兄王らを不意に斑鳩に襲わせた。
山背大兄は、一族と共に自決して亡くなった。
『日本書紀』の皇極4年秋7月条に、「常世神」に関する記述がある。
東国の富士川のほとりの人、大生部多(オオフベノオオ)が、蚕に似た虫を、「これは常世の神であって、この神を祭る人は冨と長寿が得られる」と勧めた。
人々は、財宝を投げ出して、熱狂したという。新興宗教のハシリだったのだろうが、社会の転換を期待する精神が、人々の間に高まっていたということでもあろう。
そんな時代背景の中で、中大兄と中臣鎌足を中心に、蘇我蝦夷、入鹿父子の専横を打倒するためのクーデター計画が練られた。
645(皇極4)年6月12日、中大兄らは計画を実行に移した。
三韓の調を貢る儀式を機として、皇極女帝の面前で入鹿を斬り、翌日蝦夷は自刃して、権力を極めた蘇我父子は滅びた。
皇極女帝は、中大兄に大王位を譲ろうとしたが、中大兄は皇極の弟の軽皇子を推し、孝徳天皇となった。
中大兄は、大兄の立場に留まり、新政権には、中臣鎌足が内臣、国博士に僧旻、高向玄理が起用された。
左大臣には、阿倍内麻呂、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂が任命された。
唐帰りの僧旻、玄理らと、大夫(マエツキミ)を代表する大臣のバランスを図りつつ、改革を実現していこうという布陣と考えられる。
新政権は、皇極4年を改めて大化元年とした、『日本書紀』は伝える。
しかし、この大化改元は、「九州年号」(08年1月7日の項)等との関係で、不審な面もある。
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