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2008年3月 7日 (金)

薬師寺論争…⑮唐の影響

天智2(663)年の白村江の敗戦後、天智・天武・持統の三代・30年間は、遣唐使の断絶していた期間である。鈴木治『白村江/敗戦始末記と薬師寺の謎』学生社(6212)は、白村江以後の日唐の関係が、白鳳・天平美術にどう影響したかを検討した古典的な書である。

鈴木氏は、「金堂薬師三尊」が、盛唐の仏像の様式を具備した秀麗無比の作であること、この仏像が持統11年の白鳳時代の作であることを前提とする。
その上で、稚拙な趣きのある白鳳仏とは異なり、唐朝の作風を備えた天平仏に属するのはなぜか、と問題提起する。
既に見てきたように、「金堂薬師三尊」が持統11年の作であることについては、現時点では否定的な見解が多数説のようであるが、鈴木氏の所論はユニークな視点を有しているので、以下紹介したい。

天武朝の14年間、持統朝の11年間は、一回も遣唐使が派遣されていないのみか、唐からの使者の来朝もない。
つまり、日唐両国は国交断絶状態であった。
遣唐使は、文武朝の大宝元(701)年に再開されたが、天智9(670)年の郭務悰の一行が来朝して以来、30年間は、日唐交通の断絶期間であった。
2_9しかるに、「金堂薬師三尊」が最新式の唐朝の形式を備えているだけでなく、東院堂の「聖観音」もとうていわが国の仏師の作ではない(写真は、『薬師寺』小学館(8303))。

鈴木氏は、聖観音像は、金堂三尊の脇侍(日光菩薩、月光菩薩)の手本として、本国からもたらされたもので、同時に一流の仏師が来朝制作したのではないか、とする。
つまり、日唐国交断絶というのは表向きの話で、実際には唐からのLST(Landing Ship Tank:戦車揚陸艦=兵員等を上陸させるための艦船)が、随時日本に来ていたのではないか。
天智9年の郭務悰一行は、謀略的性格を持った政治工作隊で、「壬申の乱」は、彼らの謀略によるものだった。
そうでなければ、日本のように、天皇の権威が絶大な風土において、一皇子の叛乱軍がわずか1カ月で勝利することは考えられない。
既に昭和18(1943)年に、東大美術史の滝清一氏が、天平芸術は「模倣ではない、移植である」と言っている。
それは、「天平芸術は、日本人が唐の仏像を真似て作ったものではなく、唐人自身によって作られたものだ」という意味である。

以上のような前置きのもとに、鈴木氏は、持統朝におけるもっとも大きなできごとは、藤原京の建設と薬師寺の建立だった、とする。
薬師寺は、左右に塔のある伽藍配置からして、純粋の唐系の官寺として画期的なものだった。
鈴木氏は、薬師寺は非移建、本尊は移坐の立場をとる。
藤原京と西ノ京は、20キロしか離れていず、両者の伽藍配置がほとんど同じであるにも拘わらず、移建されなかったのは、唐の日本国力消耗策によるものである。

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