薬師寺論争…⑫山田寺仏頭(ⅲ)
山田寺の丈六仏像が、天武7(678・戊寅)年に鋳造開始し、7年後の天武14(685・乙酉)年に完成して開眼した、とすると、下記年表(08年2月24日の項)にみるように、薬師寺の造営開始の時期と重なってくる。
天武09(680)年 庚辰 11・12天武天皇、薬師寺建立を発願する
天武11(682)年 壬午 天武天皇、皇后のために薬師寺をつくる
朱鳥01(686)年 丙戌 9・9天武天皇崩ずる。この頃本尊の薬師金銅像の鍍金未だ畢らず
持統02(689)年 戊子 1・8薬師寺に無遮大会を設く
持統2(689・戊子)年に、薬師寺で無遮大会が行われたことを、この時点で、寺の根幹部分の金堂とその本尊は出来上がっていたと考えられる。
とすれば、この本尊像は、天武崩御の時点で鋳作を終わっていたと見られ、制作に着手したのは発願の直後の頃ということになる。
つまり、天武9(680・庚辰)年の暮から、朱鳥元(686・丙戌)年の頃までが、実質的な鋳作の時期である。
発願者は天武天皇、官営の造仏所によって行われた。
つまり、本薬師寺の本尊と山田寺丈六仏像とは、ほぼ同じ制作経緯ということになる(松山鉄夫:前掲論文)。
とすれば、この両者は、作風も技法もほぼ似たようなものであるはずである。
しかるに、平城薬師寺の本尊と山田寺仏頭との間には大きな差異があることは明らかである。
この差異をどう考えるか?
久野健氏は、この差異は、様式の源流が異なるからだと説明する。
つまり、山田寺像は、斉・隋の様式を踏襲したものであり、薬師寺像は、初唐の様式を受け入れて急激に飛躍したからである。
この時期の彫刻様式は、外来の影響と国内での発展が絡み合っていて単純に論ずることはできない。
しかし、松山氏は、この両者の差異は決定的であり、制作年代の差と考えざるを得ない、とする。
つまり、平城薬師寺の本尊の制作年代は、山田寺丈六仏像と同時期、天武・持統朝の作品ではない、という判断であって、移坐説は成立しないということである。
それでは、平城薬師寺の制作年代はいつ頃と考えられるか?
『薬師寺縁起』には、「太上天皇(元明)、養老二年(戊午)、伽藍を平城に移す」とあり、養老2(718)年に移転工事が始まったと考えられている。
これに対し、松山氏は、「伽藍を移す」とは、「寺としての宗教的な機能を移した」と解釈すべきであって、とすれば本尊とその堂宇は既にできあがっていたと考えるべきであるとする。
つまり、養老2(718)年には、金堂薬師三尊は既に完成しており、とすれば、和銅3(710)年の平城遷都頃には着手されていた、としている。
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