天智天皇…⑧系譜(ⅲ)妹・間人皇女
『日本書紀』は、大海人皇子と中大兄皇子を同父同母の兄弟とするが、舒明と宝皇女(皇極・斉明)の間には、もう一人子どもがいる。
孝徳の皇后となる間人皇女である。『日本書紀』は、以下のように記している。
皇極天皇の四年を改めて大化元年とした。大化元年秋七月二日、舒明天皇の女(ムスメ)、間人皇女を立てて皇后とした。二人の妃を立てた。第一の妃は阿倍倉梯麻呂大臣の女で小足媛という。有間皇子を生んだ。第二の妃は蘇我山田石川麻呂の女で乳娘といった。
孝徳と間人皇女は、叔父と姪の関係である。中大兄が、「倭の京に遷りたいと思います」と奏上したとき、孝徳天皇はこれを許さなかったが、中大兄は、皇極上皇・間人皇后・大海人皇子らを率いて、倭の飛鳥河辺行宮に遷ってしまった。
間人皇后まで、中大兄に従って飛鳥に遷ってしまったことは、孝徳にとっては大きな打撃であった。
宮を山碕(京都府大山崎)に造らせ、間人皇后に次の歌を送ったという。
カナキツケ、アガカフコマハ、ヒキデセズ、アガカフコマヲ、ヒトミツラムカ
鉗(馬がにげないように首にはめておく木)をつけて、私が飼っている馬は、厩から引出しもせずに、大切に飼っていたのに、どうして他人が親しく見知るようになりつれ去ったのだろう。
この歌の「コマ」は間人を譬喩している。古代において、「見る」は、男女の仲らいの成り立つことを意味する。「人」は、いうまでもなく中大兄である(中西進『天智伝』中央公論社(7506))。
つまり、中大兄と間人皇女とが近親相姦の関係にあった、とする見解が有力である。しかし、実際どうであったか、などは当時ですら分かりようもないだろう。
しかし、孝徳はそう思ったのであり、それが孝徳にとっては衝撃で、皇位を擲つことすら考えたであろう。結果的に、孝徳は翌年に崩御してしまう。
中西進の前掲書は、新政策の施行、古人大兄の謀反平定、新都の造営など課題山積している中大兄が、石川麻呂事件で無実の忠臣を殺してしまったことで心にひび割れが生じ、そのひびを塞ぐ役割を担っていたのが間人皇女だった、と推測している。
それはともかくとして、遠山美都男『天智天皇』PHP新書(9902)は、間人皇女が、中大兄の即位に関して重要な役割を果たした、とする。
中大兄が、なかなか即位の式を挙げなかったことについては、色々な意見があるが、遠山氏は、中大兄は事実上の天皇であったから、即位礼は、それを形式的に完成させる手続きであった、とする。
形式的に完成させる、というのは、女性天皇から譲位をうけて即位する、という形式を踏まえるということである。
中大兄は、斉明から譲位を受ける形を想定していたが、斉明の急逝で叶わなくなった。
そこで、中大兄は妹の間人皇女を斉明の代役に起用しようと考えた。間人皇女は孝徳天皇の大后だから、斉明と同様の立場と考えることができる。
中大兄は間人皇女の葬礼を主宰、2年近くにわたって継続し、667年に終了した。
中大兄が近江の大津宮に遷ったのは、その翌月のことである。
これを、中大兄は、斉明に代わって間人から譲位を受ける、という形式をとって即位したと見るわけである。
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