天智天皇…③その時代(ⅱ)
新政権は、8月5日に、東国の国司を任命し、基本方針を詔した。
9月には、吉野に逃げていた古人大兄に謀反の意思があるとして、中大兄は菟田朴室古と高麗宮知に古人大兄を討たせた。
12月に、孝徳は、難波の長柄の豊碕に遷都した。
翌646(大化2)年正月、新政府は、改革の構想を示す詔を発した。
この「改新の詔」を、どう解釈し、どう評価するかは、古代史理解のキーポイントの1つである。
共に東京大学教授を務めた坂本太郎と井上光貞の間で、「群評論争」と呼ばれる有名な論争があるが(07年9月12日の項)、『日本書紀』編纂時の潤色はどの程度だったのであろうか?
649(大化5)年3月17日、阿倍大臣が薨じた。その直後の24日、蘇我日向が中大兄に、倉山田石川麻呂の謀反を讒言し、中大兄はこれを信じてしまった。
孝徳から攻められた石川麻呂は、山田寺で自経する(08年3月5日の項)。
この事件の背景には、改革を巡る政権内部の対立があったものと考えられる。
653(白雉4)年5月12日、吉士長丹らの遣唐使が派遣される。
この歳、中大兄が、倭京(飛鳥)に遷りたいと奏請するが、孝徳はこれを許さなかった。
中大兄は、皇祖母尊(皇極)と間人皇后(中大兄の同母妹)を奉じ、皇弟たちを連れて飛鳥河辺の行宮に移り住んだ。
公卿、大夫、百官の人たちは、みな中大兄に従って遷った。
孝徳は怨んで、皇位を捨てようと思い、宮を山碕(京都府乙訓郡大山崎)に造らせたが、失意のうちに翌654(白雉5)年10月10日崩じた。
655年、一度退位した皇極が重祚して斉明天皇になった。
斉明は、656年に、新しく宮の造営を始めた。運河を掘って、多武峯の山腹に石垣をめぐらした宮殿を築造した。
多くの人員が動員されたが、人々の反発を招き、「狂心の溝渠だ。作るはしから自然に壊れる」と誹謗した。
その反発の表れでもあろうが、飛鳥板葺宮など斉明の宮殿が火事で焼かれた。
そうした空気を背景に、658(斉明4)年、孝徳の遺児で阿倍内麻呂の孫の有間皇子が謀反を計画した。しかし、事前に発覚して捕らえられ、中大兄の命令で処刑されてしまう。
この年の6月、朝鮮半島では、唐が高句麗への攻撃を開始した。
659年、阿倍比羅夫が、東北の日本海岸を北上し、蝦夷の国を討った、とある。
蝦夷は、秋田や能代地方のことと考えられる。
660年3月、阿倍臣(名前は不明)が200艘の船団を率いて、粛慎国を伐った。
粛慎は、松花江から黒龍江流域に住んでいるツングースと考えられている。
畿内政権は、「古代帝国」的な姿勢をもって、東北から、さらには海を越えて北東アジアにも目を向けていたのである(網野善彦『日本社会の歴史』 岩波新書(9704)。
660年、高句麗を攻撃した唐は、高句麗の頑強な抵抗にあい、新羅と結んで矛先を百済に転じた。
唐・新羅連合軍の前に、百済は滅亡し、遺臣は畿内の朝廷に救援の要請をしてきた。
女帝斉明は、ただちに救援・外征を決意し、661年正月に中大兄や大海人らと共に難波をたち、筑紫に本営を置いた。
斉明一行は、3月25日に娜の大津(博多)に着いた。
この航海の途中で、大田姫皇女が、大伯皇女を出産し、途中熟田津に立ち寄った。
有名な『万葉集』の次の歌は、この際のものとされる。
熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今はこぎ出でな
この歌は、題詞が「額田王の歌」となっているが、左注に、「この歌は、天皇の御製なり」という山上憶良の類聚歌林の言葉が紹介されており、その解釈を巡って論議がある。
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