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2008年3月14日 (金)

天智天皇…⑤系譜(ⅰ)父・舒明天皇

中大兄皇子の父は、推古天皇のあとを継いだ第34代天皇の舒明天皇である。
推古天皇は、在位36年の628年に亡くなった。後継候補としては、田村皇子と山背大兄皇子が有力だった。
『日本書紀』の舒明即位前紀には、推古の後継に田村皇子(舒明)が決まる経緯を詳しく説明している。
宇治谷孟訳の『日本書紀〈下〉』講談社学術文庫(8808)から抜粋してみよう。

大臣の蘇我蝦夷はひとりで皇嗣を決めると群臣が承服しないのではないかと恐れ、阿倍麻呂臣と謀って、群臣を集めて、「天皇が崩御されたが、後継者がいない。速やかに決めなかったら乱れがある恐れがある。何れが日嗣となるべきか」と諮問した。

大伴鯨連が、田村皇子を推し、采女臣摩礼志・高向宇摩・中臣連弥気・難波吉士身刺が賛成した。
これに対し、許勢臣大麻呂・佐伯連東人・紀臣塩手は、山背大兄皇子を推した。
蘇我倉麻呂臣は、即答を保留した。
蘇我大臣は、境部摩理勢臣に会って意見を尋ねると、山背大兄を推した。
山背大兄は、斑鳩宮でこの議論を漏れ聞き、「叔父上(蝦夷)はなぜ田村皇子を皇位に就けようようとするのか、その理由が分からないので、教えて欲しい」と尋ねた。
蝦夷は、山背大兄に返答しかね、阿倍臣麻呂らの太夫を呼んで、山背大兄の言葉を説明した。

問題は、推古の遺詔の解釈だった。
田村皇子に対しては、「軽々しく行く先の国政のことを言ってはならない。それ故、田村皇子は、言葉を慎んで心をゆるめないように」と言った。
山背大兄皇子に対しては、「お前はまだ未熟であるから、あれこれと言ってはならぬ。必ず群臣の言葉に従いなさい」と言った。
山背大兄は、自分が推古天皇から聞いた言葉は少し違う。自分は、「皇位が国家にとって大切なことは、私の世に限ったことではない。お前はまだ心が未熟であるから、言葉は身長にするように」と言われた。
自分は天下を貪る気はないが、自分の聞いたことはそういうことだった、と主張した。

上記をみれば、推古の遺詔は明快で、田村皇子を指名している。
山背大兄皇子は、「自分が聞いたのは……」と主張しているが、それは客観的な根拠にはなり得ないだろう。
上記のような経緯があって、629(舒明元)年1月4日、大臣と群卿は、皇位の璽印(鏡・剣)を田村皇子にたてまつった。
皇子は、「自分はその任に堪えない」と辞退したが、群臣の願いを受け入れ、皇位に就いた。

舒明即位の経緯については、いろいろな見方がある。
蝦夷が権勢を振るうための傀儡にしようとした言う説、他の有力豪族との摩擦を避けるために蘇我氏の血を引く山背大兄皇子を回避したと言う説、欽明天皇の嫡男である敏達天皇の直系(田村皇子)と庶子である用明天皇の直系(山背大兄皇子)による皇位継承争いであり豪族達も両派に割れたために、蝦夷はその状況に対応した現実的な判断をしただけであるとする説などである。
問題は、蝦夷の態度である。多くの説は、山背大兄皇子よりも田村皇子の方が、自分に優位になるという蝦夷の判断による結果だとしている。
しかし、遠山美都男氏は、『天智天皇』PHP新書(9902)で、次のように述べている。

山背大兄の執拗な干渉にも拘わらず、蝦夷は肉親である山背大兄を抑え、推古の遺志を奉ずる群臣会議における自己の公的立場を貫きとおした。舒明の即位に貢献した蝦夷の態度は、舒明即位前紀において称賛に値するものとして描かれている。
舒明即位前紀から王位継承を私しようとする蘇我氏の専横をいうのは誤りである。それは、舒明即前紀の文脈を正しく把握した認識とはいえないからである。

確かに、『日本書紀』の記述は、山背大兄皇子にとって不利のように思われる。
しかし、もし山背大兄の父の厩戸皇子(聖徳太子)が推古天皇の皇太子的な地位にあったとすれば、山背大兄が推古の後を継ぐのは自分だと考えるのも自然のような気がする。
問題は、推古の在位が余りにも長すぎたことであろう。

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