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2008年3月18日 (火)

天智天皇…⑨系譜(ⅳ)義兄・古人大兄皇子

中大兄皇子の父・舒明天皇には、蘇我法提郎媛との間に古人大兄王子がいた。中大兄にとっては義兄である。
Photo宝王女(皇極・斉明)との間には、中大兄の弟として、大海人王子がいた。
舒明の兄弟については、詳しいことは分からないが、宝王女の父の茅渟王の存在が知られている。茅渟王は、軽王子(孝徳)の父でもある。
舒明崩御の時点で、図のA~Eの大王後継候補がいたことになる(中村修也『偽りの大化改新 』講談社現代新書(0606))。

この中で、大海人は、兄の中大兄がいるので、直接は候補になり難い。また、軽王子も、舒明の義弟なので、優先順位は低い。
宝王女の目から見ると、自分の子供の中大兄を大王位に就かせることを考えると、山背大兄と古人大兄が邪魔ということになる。
しかし、古人大兄は、蘇我馬子の娘を母としており、蝦夷の後ろ盾の中で即位した舒明のことを考えると、蘇我氏と対立するわけにはいかない。
山背大兄も、上宮家の長であるから、有力である。中大兄はまだ16歳である。

舒明の後継を宝王女とすることは、おそらく舒明の遺志でもあったのだろうが、宝王女自身が望んだことでもあっただろう。
自分が大王位に就けば、中大兄の成長を待って譲位する、というシナリオを実現する確率が高まるからである。
古人大兄の年齢は不詳であるが、中大兄よりは年長であった。しかしまだ20歳未満で、大王位に就くのが自然であるような年齢には達していなかったものと思われる。もし、古人大兄が大王位に就くのに妨げにならない年齢であったのなら、宝王女が即位するのは難しくなっていたであろう。
山背大兄は、年齢的には大王位に就く条件を満たしていた。しかし、宝王女、蘇我入鹿、軽王子の3人の思惑が、山背大兄の排除ということで一致した。
皇極2(643)年11月、山背大兄襲撃事件が起きて、山背大兄は自ら命を絶つ。

『日本書紀』は、山背大兄襲撃事件を、蘇我入鹿によるものとしているが、『藤氏家伝』では、入鹿は「諸王子と共に謀りて」という言葉がある。
この「諸王子」には誰が含まれていたか?
おそらくは、古人大兄、軽は参加していた可能性が高い。中村氏は、皇極女帝も謀議に加わっていたのではないか、というよりも、山背大兄襲撃の首謀者は、皇極ではないかと推測している(上掲書)。
それは、中大兄を大王位に就けたいという思いは当然のこととして、自分が王后としての地位を利用して大王に就いたことの後ろめたさもあったのではないか、ということである。

古人大兄は、乙巳のクーデターの後で、皇極が中大兄に大王位を譲ろうとした際に、中大兄が中臣鎌足に相談したとき、中臣鎌足に「中大兄の兄である古人大兄をさしおいて大王位に就くべきではない。(だから)叔父の軽(孝徳)を立てるべきだ」と言わしめている。
つまり、乙巳のクーデター時点では、古人大兄は、中大兄よりも大王位継承順位が高かったのである。
古人大兄は、クーデターの後、皇極天皇が譲位の意思表示をすると、王位継承資格を放棄するために出家した。
遠山美都男氏は、古人大兄もクーデター派の作戦目標に入っていたので、クーデター派の面前で出家という形で降伏を表明した、とする(前掲書)。

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