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2008年3月27日 (木)

大化改新…①概観

いわゆる「大化改新」は、日本古代史において最も有名な政治過程であろう。
子供の頃、歴史というものを学び始めた最初の段階に、最重要な事象として刷り込まれたように思う。一方で、その実像をめぐって、さまざまな議論が行われてきており、一筋縄では捉えられないものでもある。
最初に、通説の代表選手として、笹山晴生『日本古代史講義 』東京大学出版会(7703)の記述を見てみよう。

同書では、「第7章 大化改新と古代国家の成立」と章立てされ、重要なエポックとして位置づけられている。
小見出しに「大化改新の政治改革」がある。

蘇我氏の滅亡後、皇極天皇の弟の軽皇子が即位して孝徳天皇となり、中大兄皇子が皇太子となって新政府の組織が開始された。政府の機構としては……
中略
皇太子中大兄は政務執行と政策立案の双方の機関を統轄し、権力の中枢に立つという体制であった。同年、大化の年号が定められ、難波(大阪市)への遷都が行われ、改革のための諸事業が着手された。
中略
翌六四六(大化ニ)年正月、いわゆる改新の詔が発布された。『日本書紀』によれば、それは、(一)旧来の子代・屯倉、部曲・田荘をやめ、かわりに大夫以上に食封、以下の官人・百姓には布帛を賜う。(ニ)京師・畿内・国司・郡司などの中央集権的な地方行政機構と、それを支える駅馬・伝馬などの制を整える。(三)戸籍・計帳、班田収受の法を定める。(四)旧来の賦役の制をやめ、田の調をはじめとする新しい税制を施行する、という四ヵ条からなる内容のものである。

笹山氏は、厳密な史料批判を必要とするが、という留保をしつつも、皇族や中央豪族層の持つ土地人民に対する個別的な専有権を一元化し、中央集権的な地方支配体制、統一的な税制の形成をめざすという政治改革の方針がこの時点で宣布されたことは、事実として承認してよいと思われる、としている。

この「改新の詔」の評価が問題である。
上掲書から、論点を抜粋してみる。
①改新詔を基本的の当時のものとして承認する立場
関晃「改新の詔の研究」(『論集日本歴史2 律令国家』所収
-改新詔の規定は将来にわたっての改革の方針を示したものであり、必ずしもそのすべてがすぐに実施されたとは限らない

②名称に書き換えがなされているとする立場
井上光貞「大化改新の詔の研究」(『日本古代国家の研究』所収)
-原詔の枠組みは現在の詔と同じだが、名称には現代風の書き換えがあり、ことに副文の多くは大宝令・浄御原令文を簡略化して転載した

③改新時における改革を否定する立場
原秀三郎「大化改新論批判序説」(『日本史研究』86・88)
-公民支配の体制は、664(天智3)年の民部の設定をへて675(天武4)年にいたって創出された

笹山氏自身の見解は、「皇族や中央豪族層のもつ個別的領有権を一元化する、公地公民への方針を宣示したものとみ、それにともなう中央集権的な地方支配体制、統一的な税制の施行を発表したものとみるが、律令制的な戸籍・計帳・班田収受法の細目はまだこの時点では明確に決定していなかった」というものである。
東アジア情勢が緊迫する中で、急速な権力集中化を意図して行った政治改革であり、世襲職制を廃して官僚制的体制を整え、国力を最高度に発揮させる体制の樹立を企図したものとみる。

かつては、大化前代の氏を血縁団体とみて、改新に氏族社会の崩壊、国家の成立をみる考え方があった。
しかし、氏が一つの政治組織であるとする考え方が有力になり、当時の支配層が、土地人民に対する支配をより確実にするためにおこなった政治改革であって、皇族・諸豪族から政府による一元的支配へという人民の所属関係の変更を意味するものとの見方が有力になってきている。

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