天智天皇…⑯乙巳のクーデター(ⅵ)
もう少し砂川説を追ってみよう。
『日本書紀』の孝徳2年3月20日条である。
皇太子(中大兄)が使いを遣わして、以下のような内容の奏上をする(宇治谷孟現代語訳)。
昔の天皇たちの御世には、天下は混然と一つに纏まり治められましたが、当今は分かれ離れすぎて、国の仕事が行ない難くなっています。わが天皇が万民を統べられるに当り、天も人も相応じ、その政が新たになっています。つつしんでお慶び申し上げます。現つ神として八嶋国を治らす天皇が、私にお問いになりました。「群臣・連・及び伴造・国造の所有する昔の天皇の時代に置かれた子代入部、皇子たち私有の名入りの私民、皇祖大兄(孝徳天皇の祖父)の名入りの部とその屯倉などを、昔のままにしておくべきかどうか」というお尋ねを謹んで承り、「天に二日なく国に二王なしといいます。天下を一つにまとめ、万民をお使いになるのは、ただ天皇のみであります。ことに入部と食封の民(貴族の私民)を国の仕丁にあてることは、先の規程に従ってよいでしょう。これ以外は私用に召し使われることを恐れます。故に入部は五百二十四口、屯倉は百八十一所を献上するのが良いと思います」とお答えします。
この部分について、一般には、陰の実力者の中大兄が率先して私有財産を献上することで、他の有力貴族も従わざるをえないようにした、とされている。
しかし、見方を変えれば、中大兄が孝徳に私有財産を献上せざるを得なかった、もしくは没収された、とも解釈できる。
孝徳が、中大兄の傀儡であったのか、実力で天皇位を得たのかの判断によって変わってくる。
諸皇族および群臣百寮が孝徳から離れていくのはこの私有財産禁止令に端を発しているのではないか。つまり既得権益を失ったことによる離反である。そして、中大兄に権力の重心がシフトしていく。
孝徳の次妃は、蘇我倉山田石川麻呂の娘の乳娘であり、中大兄の場合と同じである。
中臣鎌足は、中大兄と軽の二人に、蘇我倉山田石川麻呂の娘を妃として迎えさせ、石川麻呂をしっかりと抱え込んだ。
つまり、鎌足の中大兄と軽に対する態度は同等と見ることができる。
しかし、孝徳9年に、中大兄が都を難波から大和に戻すように献策し、孝徳が同意しなかったとき、鎌足は孝徳と共に難波に残っている。
白雉5年春1月1日条である。
夜、鼠が倭の都に向って走った。紫冠を中臣鎌足連に授け、若干の増封をされた。
孝徳が崩御するのは、この年の10月10日である。既に難波の都には鼠さえも居つかない有り様の中である。
そういう状況の中で、紫冠を授けている。つまり、臣下として最高位に位置づけているのである。
おそらく、鎌足は、孝徳が亡くなるまで従っていたのであろう。
とすれば、鎌足が心から臣従していたのは、中大兄ではなく軽(孝徳)だった、と考えた方が自然である。
このことも、乙巳のクーデターの主導者が、中大兄ではなく、軽であったことを示している。
皇極が、息子の中大兄ではなく、弟の軽に譲位したのは当然のことであった。
中大兄が難波から飛鳥に移ったとき、皇極上皇や間人皇后だけでなく、公卿大夫・百官の人々がみなつき従って遷った。
砂川氏は、孝徳2年3月20日条の「私有財産禁止令」が、群臣を離反させ、中大兄に期待が集まった、とする。
つまり、孝徳は、改革を急ぎすぎたのではないか、ということである。
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