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2008年3月21日 (金)

天智天皇…⑫乙巳のクーデター(ⅱ)

中大兄は、乙巳の変の後で、なぜ即位しなかったのか。
『日本書紀』は、皇極が中大兄に譲位しようとしたのに対し、中臣鎌子連が、「古人大兄は、殿下の〔異母〕兄です。軽皇子は殿下の叔父です。まさにいま、古人大兄がいます。それなのに殿下が天皇位につけば、弟たるものの謙遜の心にそむきます。しばらく叔父を立てて民の望みに答えるのも、またいいのではないでしょうか」といい、中大兄はそれがいい、と判断したとする。

遠山美都男氏は、『天智天皇』PHP新書(9902)で、乙巳の変の前奏曲ともいうべき山背大兄王の討滅事件について、次のようにみる。
『藤氏家伝』に、以下のような記述がある。
入鹿が山背大兄を滅ぼさなければならない理由として、皇極の在位が不安でり、内乱が起きかねないから、山背大兄を討つ。
つまり、山背大兄を討てば内乱が回避できるというのであって、皇極という女帝からの皇位継承が問題だったということになる。

皇極は推古に次ぐ女帝である。推古からの皇位継承に関して、推古在位が長期化したために有力な皇位継承者がいなくなったことが認識されていた。そのため、皇極が譲位し易い状況を作り出すことが課題であった。
そういう背景の下で、皇位継承順位第二位の軽皇子を推す一派と、同じく第三位の古人大兄皇子を支持する一派(蘇我入鹿が中心)とが共同戦線を組み、第一順位の山背大兄を亡き者にして、皇極の譲位を促す状況を作り出した。
それが山背大兄討滅事件の意味である。

山背大兄の討滅により、軽皇子が第一位に、古人大兄が第二位に昇格した。
皇極は、二人のうちのどちらかに譲位すればいいわけである。
『日本書紀』は、皇極が中大兄に譲位しようとしたのに対し、中大兄が辞退して、軽皇子を推し、軽皇子は古人大兄を推したように記述しているが、、遠山氏は、これは事実とは言えないだろう、としている。
何故ならば、遠山氏は古人大兄の出家を6月14日以前のこととし、すでに皇位継承資格を自ら放棄しているのであって、この譲り合いには参加できないはずであった、としているからである。

皇極から孝徳への譲位は、史上最初の生前譲位である。
それは、大王(天皇)に集中していた権力の譲渡であり、計画なしに行えるものではない。
クーデターの実行によって譲位が可能になったのであると考えれば、クーデターの目的自体が、皇極の譲位を図るためであったともいえる。
クーデターの前夜において、皇位継承候補者の第一と第二が、軽皇子と古人大兄皇子であり、譲位を計画的に実現するための武力行使であったのならば、その主導者は軽皇子とその一派であったと考えた方が自然である。

軽皇子とその一派とは、軽皇子の宮があった和泉国和泉郡やその周辺に何らかの権益を有していたものである。
倉山田石川麻呂は、河内国石川郡を本拠としているが、軽皇子の和泉国和泉郡とも近い。
石川麻呂の娘の乳娘は軽皇子に嫁いでいる。
阿倍内臣麻呂は、クーデターそのものには名前が見えないが、改新政権に左大臣に就任していることを考えれば、事前に何らかの接触があったであろう。
軽皇子は、阿倍内麻呂の娘の小足媛を妻に迎え、有間皇子をもうけている。
巨勢徳太は、大伴長徳と共に、早くから軽皇子に奉仕する立場にあった。
中臣鎌足はクーデターの準主役と目されている。しかし、彼が中心人物であったかどうかは良く分からない。
『日本書紀』では、鎌足が中大兄と相談してクーデターを起こしたように書かれているが、鎌足は軽皇子に仕える立場にあった。
いずれも、軽皇子と地縁や婚姻などを通じて軽皇子と主従関係を形成していた。

中大兄は、クーデターに参加したのではあるが、和泉国和泉郡を中心とした人間関係とは接点がない。
クーデター人脈の中での接点は、軽皇子との叔父・甥関係のみである。
つまり、通説とは異なり、中大兄を乙巳のクーデターの中心人物とみることはできない、というのが遠山氏の結論である。

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