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2008年3月16日 (日)

天智天皇…⑦系譜(ⅱ)母・皇極(斉明)天皇(続)

皇極が即位したのは、舒明の大后であったからであるが、それは舒明の遺志であったと考えられる。
推古の次期大王は、田村皇子(舒明)と山背大兄皇子の間で争われ、田村皇子が大王位に就いて、山背大兄は、大兄としてさらに次期大王の最有力候補者として位置づけられた。
とすれば、舒明亡き後は、山背大兄が最有力だったのではなかろうか?

Photoにもかかわらず、大后の宝皇女が皇極天皇として即位したのは、推古死去の際に山背大兄が自分の後継としての地位を強引に主張したことに対する反発もあったと考えられる。
そして、舒明在位の間に世代交代も進んでいた。舒明と山背大兄は、欽明の曾孫世代であるが、次の玄孫世代も成長しつつあった。
舒明崩御の時点では、曾孫世代の山背大兄、舒明の大后・宝皇女の同母弟の軽皇子、玄孫世代の古人大兄らが有力候補者だった。
これらの候補者の間の争いを避けるためには、推古天皇の例に倣って、大后が即位するという方法論が選ばれた(遠山美都男氏『天智天皇』PHP新書(9902))。

推古女帝から舒明天皇を経て皇極女帝に移る間に、蘇我氏は馬子から蝦夷・入鹿に世代交代し、大兄も山背から古人に変わった。
『日本書紀』には次のようにある。

(皇極2年10月)六日、蘇我大臣蝦夷は病のため登朝しなかった。ひそかに紫冠を子の入鹿に授けて大臣の位になぞらえた。またその弟をよんで物部大臣といった。大臣の祖母(馬子の妻)は物部部弓削大連(守屋)の妹である。母方の財力によって、世に勢威を張ったのである。
十二日、蘇我大臣入鹿は独断で上宮(聖徳太子)の王たち(山背大兄王)を廃して、古人大兄(舒明天皇の皇子、母は蘇我馬子の女)を天皇にしようと企てた。

そして、11月1日にはそれを具体化する。

蘇我入鹿は小徳巨勢徳太臣、大仁土師娑婆連を遣わして、山背大兄王らを不意に斑鳩に襲わせた。--ある本には巨勢徳太臣・倭馬飼首を軍の将軍としたとある。

この後、乙巳の変が起き、蘇我本宗家は滅亡し、皇極の弟の軽皇子が即位して孝徳天皇になり、約10年の治世を経て、皇極は重祚して斉明天皇となる。
皇極時代と斉明時代との違いとして、飛鳥岡本宮に、大兄として葛城皇子(中大兄)の存在がある。この皇子が大兄に立てられたのは、『日本書紀』は軽皇子の政権成立時であったとするが、前大兄の古人大兄の滅亡事件(645年11月)のあとか、有間皇子謀殺事件(658年11月)のあととみる可能性もある(『女帝の世紀』毎日新聞社(7811))。

皇極・斉明女帝は、司祭者としてのすぐれた権能を持っていた。皇極元年の夏は日照りが続いた。

八月一日、天皇は南淵(明日香村)の川上においでになり、跪いて四方を拝し、天を仰いで祈られると、雷鳴がして大雨が降った。雨は五日間続いて、天下は等しくうるおった。国中の百姓は皆喜んで、「この上もない徳をお持ちの天皇である」といった。

この女帝の権能は、伊勢大神への斎の皇女の派遣がないことからも裏付けられる。
つまり、女帝は、日の神も水の神も、つまり天の神を司祭し、その神霊を発揚させる権能の体現者であった(上掲書)。
斉明女帝は659年、遣唐使を送った。また、これに先立って、粛慎、蝦夷に軍隊を送っている。つまり単なる巫女敵な伝統や内政ばかりでなく、外交や軍事についても権力を体現していた。
そして、新羅・唐の圧迫に苦しむ百済を救援するために、661年には、みずから軍隊を率いて難波津から筑紫に進んだ。
斉明女帝は、日(太陽=農業)神に加え、軍神、海神の司祭を集中したものであった。政治の根本に存続していた祭祀権を集中した存在だった。

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