入鹿邸跡の発掘
今朝(08年3月28日)の各紙新聞に、「入鹿邸跡の発掘」に関する記事が載っている(写真は、静岡新聞)。静岡新聞の記事では、大化の改新(乙巳=いっし=の変、645年)で中大兄皇子らに暗殺された飛鳥時代の大豪族、蘇我入鹿(そがのいるか)の邸宅のあったとされる奈良県明日香村の甘樫丘東麓(あまかしのおかとうろく)遺跡で、七世紀中ごろに取り壊された倉庫や堀の跡が新たに見つかり、奈良文化財研究所が二十七日、発表した、とある。
同紙は、蘇我氏の滅亡と時期が一致し、日本書紀が「谷(はざま)の宮門(みかど)」と記す入鹿邸の一部だった可能性が一層高まった、と報じている。
正殿などの中枢部は見つかっていないが、調査中の谷の中央にあるのではないか、とされる。
倉庫の柱穴を壊す形で別の穴を掘り、650年ごろの土 器を捨ててあったため、この時期に蘇我氏の建物群が廃絶したと判断されるいうことである。
『日本書紀』の皇極紀三年条に次のような記載がある(日本書紀〈下〉 (講談社学術文庫) )。
冬十一月、蘇我大臣蝦夷と子の入鹿は、家を甘橿岡に並べて建てた。大臣の家を上の宮門(ミカド)と呼び、入鹿の家を谷(ハザマ)の宮門といった。男女の子たちを王子(ミコ)といった。家の外にとりでの柵を囲い、門のわきに武器庫を設けた。家ごとに用水桶を配置し、木の先にかぎをつけたもの数十を置き、火災に備えた。力のある者に武器をもたせ常に家を守らせた。大臣は長直に命じて、大丹穂山にホコ<木偏に牟旁>削寺(ホコヌキノテラ)を建てさせた。また家を畝傍山の東に建て、池を掘ってとりでとし、武器庫をたてて矢を貯えた。常に五十人の兵士を率いて護衛させ家を出入りした。これらを力人として東方の従者といった。諸氏の人達がその門に侍り、これらを名づけて祖子孺者(オヤコノワラワ)といった。漢直(アヤノアタイ)らは専ら両家の宮門を警護した。
甘樫丘は、飛鳥板蓋宮を見下ろす位置にあり、そのような場所に邸宅を構え、それを宮門(ミカド)と呼んだり、子どもを王子と呼んだことなどが、蘇我父子の専横ぶりを示している、とされている箇所である。
しかし、遠山美都男『蘇我氏四代―臣、罪を知らず』ミネルヴァ書房(0601)は、山背大兄一族と斑鳩殲滅の褒章として、皇極が甘樫丘に邸宅を営むことを許可し、それを宮門と呼んだり子どもを王子と呼んだりするのも、皇極が認めた可能性がある、とする。
つまり、王族に準ずる待遇ということである。
そして、皇極四年六月十二日条のクーデターの日に、入鹿が斬殺された後の文章である。
蓆蔀(ムシロシトミ)で、鞍作の屍を覆った。古人大兄は私宅に走り入って人々に、「韓人が鞍作臣を殺した。われも心痛む」といい、寝所に入ってとざして出ようとしなかった。中大兄は法興寺に入られ、とりでとして備えられた。諸の皇子、諸王・諸卿大夫・臣・連・伴造・国造などみながお供についた。人を遣わし鞍作の屍を蝦夷大臣に賜わった。漢直らは族党を総集し、甲(ヨロイ)をつけ武器を持って、蝦夷を助けて軍(イクサ)をしようとした。中大兄は将軍巨瀬徳陀臣を遣わして、天地開闢以来君臣の区別が始めからあることを説いて、進むべき道を知らしめられた。
中大兄(天智天皇)の颯爽とした指揮ぶりが描かれているが、その立場について諸説があることは既に見たとおりである。
この時代の発掘調査は、歴史学と考古学とが交じり合うので、発掘結果の見方にも史観が反映してくる。
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