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2008年3月26日 (水)

天智天皇…⑰即位遅延の理由

天智天皇が『日本書紀』に登場するのは、舒明崩御のときの次の記事である(宇治谷孟現代語訳『日本書紀〈下〉』講談社学術文庫(8808))。

十三年冬十月九日、天皇は百済宮で崩御された。十八日、宮の北に殯宮を設けた。これを百済の大殯という。この時、東宮の開別皇子(のちの天智天皇)は十六歳で誄をよまれた。
 開別皇子(ヒラカスワケノミコ)
 誄(シノビゴト)

舒明13年は641年であるが、4年後の645年には中臣鎌足らと謀り、クーデターによって蘇我入鹿を暗殺し(乙巳の変)、叔父の孝徳天皇を擁立して、皇太子となった。
大化の元号を制定し、「大化の改新」と呼ばれる改革政治のリーダーだったとされる。
正妻は異母兄弟の古人大兄皇子の娘の倭姫王であるが、その古人大兄は、謀反を企てたかどで中大兄(開別)皇子の命により討たれてしまう。

天智天皇が天皇として即位するのは、668年に近江大津宮に遷都してからであり、645年に皇太子に就いてから、23年を経ている。
この間、即位の機会がなかったわけではないだろうから、天智天皇が長く即位しなかったことの理由づけは、7世紀中葉の政治史を説明するキーの一つである。
このことについて、どのような説明がなされてきたであろうか。 

1.天武天皇を推す勢力への配慮とする説。
通説・定説の天武天皇は天智天皇の弟であるというのは誤りで、皇極天皇が舒明天皇と結婚する前に生んだ漢皇子であり、彼は天智天皇の異父兄であるとする説に基づくもの。
確かに、『日本書紀』の天智天皇と一部の歴史書に掲載される天武天皇の享年をもとに生年を逆算すれば、天武が年長となってしまう。
しかし、同一史料間には矛盾は見られず、8~9歳程度の年齢差を設けている史料が多い。これに対しては『「父親が違うとはいえ、兄を差し置いて弟が」ということでは体裁が悪いので、意図的に天智の年齢を引き上げたのだ』との主張がある。
『日本書紀』に見える、天智の年齢16歳は父舒明天皇が即位した時の年齢だったのだが、間違えて崩御した時の年齢にしてしまった。だから、本当の生年は『本朝皇胤紹運録』等が採用している614年だ、とする説、古代においては珍しくなかった空位(称制期間が天智と持統にある)の期間のために誤差が生じたのだ、とする説などがある。

2.乙巳の変は軽皇子のクーデターであり、中大兄皇子は地位を追われたという説。
中大兄皇子と蘇我入鹿の関係が比較的良好で、基本政策も似ていて、中大兄皇子が入鹿を殺害する動機がなくなる、とする。
皇極退位の理由や、入鹿以外の蘇我氏がクーデター後も追放されていない理由なども説明できる。

3.天智の女性関係に対しての反発から即位が遅れたとする説。
『日本書紀』に記載されている孝徳から妻の間人皇女(天智の同母妹)に当てた歌に、彼女と天智との不倫関係を示唆するものがあるとするものである(08年3月17日の項)。
異母兄弟姉妹間での恋愛・婚姻は許されるが、同母兄弟姉妹間でのそれは許されなかったのが当時の人々の恋愛事情だった。

4.斉明天皇の死後に間人皇女が先々代の天皇の妃として皇位を継いでいたのであるが、何らかの事情で記録が抹消されたという説。
『万葉集』に出てくる「中皇命」なる人物を間人皇女とする説から来るもので、「中皇命」とは天智即位までの中継ぎの天皇ではないか、と解釈できるという主張である。

天智の即位が遅れた理由については、上記のようにさまざまに考えられているが、そもそも、乙巳のクーデターの直後に皇太子の地位についたのかどうかも疑問である。というのは、当時は未だ皇太子制が確立されていなかったはずであり、『日本書紀』が、「中大兄を立てて皇太子とされた」と記述すること自体に修飾があるからである。

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