大化改新…③朝鮮半島の動向
大化改新は、東アジア諸国との関係を視野に入れて理解すべきである、ということは現時点では当然の前提とされている。
とくに、朝鮮半島諸国との関係は、中国との関係を背景に置きつつ、より直接的な相互影響関係にあったものと考えられる。
武田幸男「朝鮮三国から統一新羅へ」(『大化改新と東アジア』山川出版社(8102)所収)により、朝鮮半島の動向を概観してみよう。
朝鮮半島では、高句麗・百済・新羅の三国鼎立状態が、7世紀を通じて新羅に統一されていく。その過程は、おおよそ次の4つのフェーズに分けて考えることができる。(図は、田辺昭三『藤原鎌足とその時代』(青木和夫、田辺昭三編著『藤原鎌足とその時代―大化改新をめぐって 』吉川弘文館(9703)所収))。
①第一期
562年からの40年間。
新羅が高霊加羅を併合した結果、朝鮮半島南部にあった加羅(任那)諸国が滅亡し、三国鼎立状態となる。
②第二期
三国の緊張状態が高まり、戦争期となる。
602年に百済と新羅の戦争が勃発し、以後高句麗VS新羅の戦いを交えつつ、百済VS新羅の間の戦争が頻発した。
戦争は小規模で慢性的なものであったが、新羅が孤立する状態が多かった。
③第三期
642年の百済による新羅四十余城の奪取によって、戦争が大規模した。
戦争の大規模化は、国家間の係争という性格を強め、百済と高句麗の和親、百済・高句麗と新羅の対立関係が明確になり、唐の親新羅の立場での軍事介入を招くことになった。
その結果、660年に百済、668年に高句麗が滅亡した。
④第四期
百済・高句麗の滅亡により、朝鮮半島では、新羅と唐との抗争が主軸となった。
唐は676年に朝鮮半島から撤退し、684年に新羅は高句麗・百済遺民を掌握した。
朝鮮半島の動向は、中国との関係により大きく規定され、また日本列島に影響を及ぼすものであった。
598年以来、隋は高句麗征討を試みるが、軍事力による強引な威圧が無理を生じ、隋滅亡の一因となった。
隋の失敗を踏まえ、唐は三国への軍事介入を避ける方針をとった。
新羅は、三国鼎立状態の中で、親唐路線を追求した。それは、三国の関係の中での孤立の必然的な結果でもあった。
乙巳のクーデターとその後の大化改新は、上記の第三期の時期であり、それは朝鮮半島の情勢が最も熾烈な対立的だった期間ということになる。
この期間に、唐は朝鮮半島への介入を強め、高句麗・百済を屈服させた。
倭は百済との関係から、朝鮮半島の争乱に係わり、663年に白村江で唐・新羅連合軍に大敗する。
その後の敗戦期の様相については、われわれが生きてきた時代でもある東亜・太平洋戦争の敗戦期との対比という視点からも、大いに関心を抱かざるを得ない。
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