大化改新…④否定論
私は、「大化改新は645年」というように学んだ記憶があるが、645年に飛鳥で起きた蘇我入鹿暗殺事件と、難波に遷都してからの政治改革過程とは区別して考える必要がある。
難波での政治改革過程に関して、「大化改新否定説」が唱えられている。
以下、代表的な否定論者の原秀三郎氏の『大化改新』(『日本史の謎と発見4女帝の世紀』毎日新聞社(8811)所収)を参考に、「大化改新否定説」について見てみよう。
原秀三郎氏は、1934年に静岡県下田市に生まれ、静岡大学文理学部を卒業後、京都大学大学院文学研究科国史学専攻の博士課程を修了した。
奈良国立文化財研究所員、静岡大学人文学部教授、千葉大学文学部教授などを歴任後、2000年に、出身地の下田市長選挙に出馬したが、落選した。
上掲書によれば、原氏が、大化改新の存在に疑いを持ったのは、京都大学の大学院生であった頃のことである。
1963年9月下旬の残暑の厳しい頃であったという。師事していた岸俊男教授を中心に、『延喜式』の輪読会をひらいていた。
そのころ、大化改新の詔の史料としての信頼性について、議論が盛んになりつつあった。輪読会の後の議論の中で、岸俊男教授が、「ほんとうに改新詔はあったのか?」と発言したのだという。
原氏自身は、その時点では、改新詔の肯定論者というか、詔文の存在を疑う発想などはなく、必死で反論を試みた、と回顧している。
改新詔は、『日本書紀』の孝徳紀に、以下のように書き始められている(坂本太郎他校注『日本書紀 (4) (ワイド版岩波文庫 』(0310))。
二年の春正月の甲子の朔に、賀正礼畢りて、即ち改新之詔を宣ひて曰はく、「其の一に曰はく……
しかし、この記事以外に、詔の存在を示す根拠はあるのか?
改新詔が、本来、『日本書紀』に書かれているような漢文体のものではなかったであろうことは、津田左右吉以来の通説だった。
また、詔文の細部が、近江令や浄御原令、大宝令などの後世の法令の文章を使って修飾されていて、当時の詔勅の内容そのものでないとしたら、そもそも改新詔が存在したのかどうかを疑うことは、当然必要なことであったのであろう。
岸俊男教授は、戸籍制度の研究を長年続けていた。
「ほんとうに改新詔はあったのか?」という発言は、単なる思い付きということでなく、その研究の背景を踏まえてのものであった。
改新詔第三条は、以下のようである。
其の三に曰はく、初めて戸籍・計帳・班田収授之法を造れ。凡て五十戸を里とす。里毎に長一人を置く。……
岸氏は、この改新詔第三詔を、6年後の白雉3(652)に、戸籍がつくられ、班田が行われるようになった、という『日本書紀』の記事との関連で詳しく検討し、以下のような結論を導き出した。
1.白雉3年の造籍、班田の記事は、「戸籍は六年に一造、班田は六年に一班」という浄御原令以降の考え方によって造作されたものであること。
2.改新詔第三詔凡条は、『日本書紀』の編纂された時点での現行法であった大宝令(701年成立)のよって造作された可能性が高いこと。
3.主文についても、計帳の存在が、庚寅年籍(690年)以前には考えられないことから、きわめて疑わしいものであるとせざるを得ないこと。
そして、以下のように述べた(上掲書)。
改新詔は、凡条が『大宝令』を基礎に潤色造作されている上に、その主文に示された内容のなかにもかなり疑わしいものが多いとすれば、改新詔が果してどれだけ原詔の面影を遺しているかに甚だ不安を感じる。勿論私はその内容のすべてを疑うものではなく、改新の趨勢がその中に集約表現されているとは思うが、大胆に極論をすれば最初に述べたように原詔の存否を改めて考慮する必要があると思うのである。
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