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2008年3月 5日 (水)

薬師寺論争…⑬蘇我倉山田石川麻呂

山田寺の当初の造営主の蘇我倉山田石川麻呂は、ちょっと気になる人物である。
生年は不詳だが、没年は、大化5(649)年である。
2_7系譜的には、馬子の子である蘇我倉麻呂の子であり、蝦夷は伯父、入鹿は従兄弟、日向・赤兄・連子は兄弟である。

先ず、石川麻呂は、なぜ蘇我氏の一族であるのにもかかわらず、従兄弟である入鹿殺害に加担したのか?
そもそも乙巳の変は、蘇我氏の専横を打倒する意図のものであったはずである。
『日本書紀』は、乙巳の変を企てるに際し、中臣鎌足が蘇我一族の中に味方が必要だと考えて、石川麻呂にアプローチしたとする。
そして、石川麻呂の娘の遠智娘を、中大兄皇子(天智天皇)の妃とした。
遠智姫は、大田皇女、鸕野皇女(持統天皇)、建皇子を生み、
大田皇女、鸕野皇女(持統天皇)は、大海人皇子(天武天皇)の妃となる。

中大兄や鎌足の陣営に加わった石川麻呂は、乙巳の変の際、入鹿暗殺の合図となる朝鮮使の上表文を、大極殿で読み上げるという役割を担っている。
暗殺がなかなか実行されなかったため、文を読み上げながら震えて汗をかき、そのことを不審に思った入鹿に「何故震えている」と問われたが、石川麻呂は「帝の御前だからです」と答えた、と『日本書紀』に記されている。
入鹿暗殺後、古人大兄皇子が、「韓人殺鞍作臣=韓人(からひと)、鞍作(入鹿)を殺しつ」と言ったとされるが、この「韓人」は、蘇我倉山田石川麻呂を指すという説もある。

改新政府において、石川麻呂は右大臣に任命される。
しかし、649(大化5)年3月、新政府の左大臣安部内麻呂が亡くなると、その1週間後に、石川麻呂の異母弟の蘇我日向が中大兄皇子皇子に、「右大臣石川麻呂に謀叛の疑いあり」と讒言する。

これを信じた中大兄は、使者を石川麻呂のもとへ遣わして審問させるが、石川麻呂は天皇(孝徳)に直接対面して事の真相を語りたいとして、これに応じない。
天皇は再度勅使を遣わすが、石川麻呂が応じないので、兵を派遣して邸宅を取り囲む。

石川麻呂と一族は、本拠地の山田に逃れるが、主戦論を唱える長子の輿志らに対して、石川麻呂は、「寺にやってきたのは最後を心安く迎えるためである。」と諭して、自ら死を選ぶ。

この謀反事件は、冤罪であったことが直ぐに分かる。
『日本書紀』は、次のように記す。

是の月に、使者を遣わして、山田大臣の資財を収む。資財の中に、好き書の上には、皇太子の書と題す。重宝の上には、皇太子の物と題す。使者、還りて収めし状を申す。皇太子、始し大臣の心の猶し貞しく浄きことを知りて、追ひて悔い恥づることを生して、哀び嘆くこと休み難し。即ち日向臣を筑紫大宰帥に拝す。

つまり、石川麻呂は皇太子(中大兄)に忠実だったのにも拘わらず、蘇我日向の讒言を信じてしまったということである。
しかも、中臣鎌足が中大兄の石川麻呂の娘を妃とすることを図った際に、次のようなことが記されている(皇極三年正月条)。

中臣鎌子連議りて曰さく、「大きなる事を謀るには、輔有るには如かず、請ふ、蘇我倉山田麻呂の長女を納れて妃として、婚姻の眤を成さむ。然して後に陳べ説きて、与に事を計らむと欲ふ。功を成す路、玆より近きは莫し」とまうす。中大兄、聞きて大きに悦びたまふ。曲に議る所に従ひたまふ。中臣鎌子連、即ち自ら往きて媒ち要訖りぬ。而るに長女、期りし夜、族に偸まれぬ。族は身挟臣を謂う。是に由りて、倉山田臣、憂へ惶り、仰ぎ臥して所為知らず。少女、父の憂ふる色を怪びて、就きて曰はく、「憂へ悔ゆること何ぞ」といふ。父其の由を陳ぶ。少女曰はく、「願はくはな憂へたまひそ。我を以て奉進りたまふとも、亦復晩からじ」といふ。父、便ち大きに悦びて、遂に其の女を進る。奉るに赤心を以てして、更に忌む所無し。

つまり、最初に中大兄の妃となるはずだった長女が、一族の身挟臣にさらわれてしまったので、少女(遠智娘)が代わりに妃になった、ということである。
この身挟臣は、大化5年3月条に、蘇我臣日向(字は身刺)とあることから、日向のことであると考えられる。
とすると、中大兄は、憎むべき日向の讒言を信じて、乙巳の変の盟友ともいうべき無実の石川麻呂を排除してしまったことになる。
この経緯からすれば、中大兄はまことに愚かな存在だった、ということになる。

石川麻呂の死を知った遠智娘は、発狂して死んだとされるが、そのありさまが、幼かった大田皇女や鸕野皇女の人生にも影響を与えたはずである。

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コメント

初めまして
この程「白村江敗戦と上代特殊仮名遣い」という本を上梓致しました藤井游惟と申します。
ネットサーフィンをしていて貴ブログを拝見し、興味深く読ませて頂きました。

貴兄がここで論じておられる奈良時代前史は、つまるところ『記紀万葉』に依拠して語るしかないのですが、その『記紀万葉』を書いた書記官達が実は663年の白村江敗戦によって大量亡命してきた朝鮮語を母語とする百済人達であったことは、当の『記紀万葉』から発見された「上代特殊仮名遣い」という現象から言語学的に証明できます。

『記紀万葉』を書いた書記官が日本人でないとしても、その内容がウソであるとは限りませんが、白村江敗戦・壬申の乱後に成立し、帰化人書記官を用いてこれらを書かせた天武・持統朝が自らの覇権の正統性にとって都合の悪い事実を書くはずがなく、その分大きく割り引いて考えなければならないと思います。

ともあれ、ご興味がおありであれば、拙著をご一読・ご高評下されば幸いです。
http://www.ops.dti.ne.jp/~kanpon/HAKUSUKINOE.htm

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投稿: 藤井游惟 | 2008年3月 6日 (木) 04時12分

まったくの素人ながら、やはり自分の国の歴史の真実を知りたいと思って、手探りで(指導者もいないまま)目に入った史料等を乱読しております。
深い霧の中に包まれているような時代ですが、それだけ好奇心を刺激されるような気もします。
大変興味深い視点のように思いますので、是非一読させて頂きたいと思います。

投稿: 管理人 | 2008年3月 6日 (木) 10時34分

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