天智天皇…④その時代(ⅲ)
斉明は朝倉に宮を構えたが、661(斉明7)年7月24日に崩御する。
中大兄は、天皇位に就かず、政務を執った(称制)。
662(天智1)年、阿曇比羅夫らが、軍船170艘を率いて、豊璋を百済に送り、百済王位を継がせた。
豐璋は、百済最後の義慈王(在位641~660年)の王子で、倭国と百済の同盟を担保する人質だった。
人質とはいえ、賓客あつかいで、待遇は悪いものではなかった。
豊璋の来倭時期は、『日本書紀』では、舒明3年3月条に、「百済の王義慈、王子豊璋を入りて質とす」という記述がある。
この通りだとすると、滞倭は30年に及んでいたことになる。『三国史記』には、義慈王13(653)年に「倭国と通交す」という記事があり、この頃ではないかとする説もある。
『日本書紀』には、孝徳紀の白雉元年2月条の白雉献上を賀す儀式の出席者に、豊璋の名がある。
豊璋と倭軍は、百済復興を企てて反乱を起こしていた百済の佐平・鬼室福信と合流し、豊璋は百済王に推戴される。
しかし、鬼室福信との確執が生じ、663年6月、豊璋は福信を殺してしまう。
百済復興軍は著しく弱体になり、その機を捉えて唐・新羅連合軍が侵攻する。
663年8月、倭と百済の連合軍は、白村江で、唐・新羅連合軍と会戦するが、潰滅的な敗北を喫する。
倭国軍は、百済亡命者と共に、倭国に戻らざるを得なかった。
唐と新羅の連合軍が、海を渡って追撃してくる可能性も高く、敗戦によって人心の動揺も大きかった。
これに対処するため、中大兄は、664年2月に冠位を増設し、氏上に「民部・家部」を公認した。
「民部・家部」は、私的に支配する人民である。
一方で、対馬、壱岐、筑紫に防人と烽を置き、唐と新羅の攻撃に備えた。
665(天智4)8月には、長門にも城を築き、667年には大和の高安、讃岐の屋島、対馬の金田にも城を築いた。
これらの城は、朝鮮式山城といわれる様式で築造された。
667(天智6)3月19日に、中大兄は近江の大津宮に都を遷した。
唐と新羅に対する警戒活動の一環であったとされる。唐と新羅の軍勢は、高句麗を攻めて滅ぼすが、新羅は唐に離反し、朝鮮半島から唐を排除した。
朝鮮半島は、三国鼎立時代に終止符を打ち、新羅による統一国家が成立した。
668(天智7)年、中大兄は、大津宮で即位した。
この頃から、天智天皇と大海人皇子との関係が悪化した。
大海人は皇位継承権者だったとされるが、669(天智8)年10月16日に死去すると、対立は顕在化し、671(天智10)年に息子の大友皇子を太政大臣にし、左右の大臣・御史大夫を任じて、新しい官制を敷いた。
12月3日に天智が崩じ(天智の死去には異説がある-08年1月27日の項)、翌年の6月に大海人が決起して「壬申の乱」が始まる(08年1月21日の項)。
「壬申の乱」に勝利した大海人は飛鳥浄御原宮で、672年に即位して天武天皇となった。
天武は、軍事力を強化し、中央官制、地域の支配を強行した。
684年に「八色の姓」を定め、685年には48階の位階を定めて、序列化を進めた。
しかし、天武は、686年に国家建設途上で薨じた。
天武の後は、鸕野讃良皇女が称制し、690年に即位して持統天皇となった。
持統は689年に浄御原令を施行し、690年に浄御原令による官制を実施し、それまでの太政官と大弁官をあわせた新太政官の執政官としての太政大臣に高市皇子を任命した。
694年に、新都藤原京が完成し、持統は新都に遷った。
天智の生きた時代を駆け足で概観してみたが、日本の国家が形成されていく変動の時代だったことが理解できる。
天智の事績を辿ることは、日本という国のアイデンティティの理解に通じることではなかろうか。
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