薬師寺論争…⑰東塔檫銘の一解釈
法隆寺については、古田武彦氏が、釈迦三尊像の光背銘に新解釈を施したのを皮切りに、九州王朝論者の間でさまざまな議論が交わされている。
しかし、薬師寺に関してはほとんど論及がない。
その例外が、室伏志畔氏である。
室伏氏は、「古田史学会報第51号」所収の『薬師寺論争の向こう側』と題する論文の中で、次のように論じている。
奈良の西ノ京にある薬師寺(京薬師寺)の伽藍配置が、藤原京の薬師寺(本薬師寺)の伽藍配置に重なることから、「移建・非移建論争」が起きた。
そして、本尊の金堂薬師三尊が、本薬師寺のものであるかどうかを問う「移坐・非移坐論争」が争われている。
この薬師寺の由来について、『日本書紀』は、「皇后が病気になったので誓願をたて、皇后のために薬師寺を建立した」と書いている(08年2月28日の項)。
また、東塔檫銘には次のように書かれている(08年2月25日の項)。
維清原宮馭宇
天皇即位八年庚辰之歳建子之月以
中宮不悆創此伽藍而鋪金未遂龍駕
騰仙太上天皇奉遵前緒遂成斯業
照先皇之弘誓光後帝之玄功道済郡
生業傳劫式於高躅敢勒貞金
其銘曰
巍巍蕩蕩薬師如来大発誓願廣
運慈哀猗<嶼の偏が犭>聖王仰延冥助爰
餝靈宇荘厳御亭亭寶刹
寂寂法城福崇億劫慶溢萬
齢
この檫銘は、長安の西明寺の梵鐘銘に倣ったもので、撰文の主体は文武天皇であるが、本薬師寺のものではなく、書き改められたもので、何行かの欠落が想定されるとされている。
この檫銘の中に、天皇、中宮、太上天皇、先皇、後帝という言葉が出てくる。
これらの言葉を誰に比定するか?
通説的には、天皇=天武、中宮=持統、太上天皇=持統、先皇=天武、後帝=持統とする。
『日本書紀』は、皇后の病気平癒を願って天武が発願したとするのに対し、檫銘は「中宮」とする。
普通、皇后=中宮と考えられているが、そう解釈されるようになったのは、平安時代になってからで、この檫銘の中宮=皇后とは限らないのではないか?
室伏氏は、天武が病気平癒を願って薬師寺の建立を決意したのは皇后のためであり、その皇后は大田皇女であり、現在の檫銘は、それを中宮の鸕野讃良皇女(後の持統天皇)に書き換えたものである、とする。
大田皇女は天智の長女ではなく、天武を近畿大和に招き、立ち上げた物部系の大(多)氏の息女であった。
天武の発願に拘わらず、皇后・大田皇女は不帰の人となり、中宮の鸕野讃良皇女が立后した。
686年に天武が崩御し、天武と物部の申し子の大津は処刑され、持統は称制を引いて天皇制を自らの血統に導いた。
薬師寺が天武と天武と共に持統と大津皇子を祀るのは奇妙であり、大田皇后を斥け持統が割り込んだために起こった矛盾である。
本来は天武─大田皇女─大津皇子であったことを語るものであろう。
天武崩御後、天皇制は持統に流れた天智の血を尊ぶ天皇制に切り替わった。
そのとき薬師寺の縁起が大田皇女のために発願されたままでは困る。
そこで大田皇女を抹消し、持統が初めより皇后であったとするように、『日本書紀』は造作された。
しかし、本薬師寺の東塔に檫銘も、京薬師寺に移るに際し、書き改められた。
室伏氏は、薬師寺の講堂にもうひとつの薬師三尊像があることに着眼する。
鈴木治氏が、「天平仏から白鳳仏へ逆行している背景に日唐関係がある」とする説を支持し、以下のような年表を想定する。
680年 天武は大田皇后の病気平癒を願い、薬師寺建立を発願する
686年 天武崩御と丙戌の変(大津皇子の処刑)
688年 天武天皇の無遮大会を持統が行う
697年 薬師如来の鋳造完成
698年 本薬師寺の完成
ここで、688年の無遮大会をどう考えるか。
次期天皇と目された大津皇子を持統は、薬師寺を天武が大田皇后のために発願したのではなく、持統のためになされたとするために、持統によって薬師寺において無遮大会を取り仕切った。
この時、薬師寺は持統のための寺となった。
しかし、大田皇后の病気平癒を願って天武が鋳造した薬師三尊を拝むことに、どうしても持統は慣れなかった。
持統は、改めて薬師三尊を、持統11年(697)年に鋳造した。
この新たな薬師三尊像の鋳造者は、かつての唐の仏師ではなかった。
持統の要請の下に集められた仏師は、白鳳期の、つまり九州王朝・倭国の仏像彫刻の流れを組む仏師であった。
金堂の豊満優美な作品を、「古拙で生硬な」白鳳技術で模倣した講堂の作品が生まれた理由である。
京薬師寺の金堂には、持統の鋳造した薬師三尊が納められた。
その後、藤原京が荒廃し、平城京が栄えると共に、本尊が移された。
長和4(1015)年の『薬師寺縁起』に「古老云フ、件ノ仏ハ本寺ヨリ七日ニシテ迎エ奉ル」とあるのがそれを示している。
持統が鋳造した薬師三尊像は、土中に廃棄され、後に掘り出された。
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