天智天皇…⑥系譜(ⅱ)母・皇極(斉明)天皇
欽明天皇からみて、推古天皇は子の世代、厩戸皇子らは孫の世代、ということになる(系図は、遠山美都男『天智天皇』PHP新書(9902))。厩戸皇子が亡くなると、孫の世代の大王候補者がいなくなり、大王位にノミネートされる人物は次の曾孫の世代に移る。
田村皇子(舒明天皇)は、そのトップランナーだった。しかし、配偶者に王族出身者がいないことが、田村皇子のネックだった。
大王の后は、単なる妻の座ということでなく、大王と共に執政に関与するポストとして認識されていたから、王族の中から選ばれることになっていた。
舒明が大王(天皇)位に就くためには、王族の妻が必要であった。そこで選ばれたのが、宝皇女であった。
宝皇女は、押坂彦人大兄の子の茅淳王と吉備姫王との間の子であった。同父母の弟が、軽皇子(後の孝徳天皇)である。
宝皇女は、舒明と結ばれる前に、高向王と結婚していた。
高向王は、用明天皇の孫とされる。高向王と宝皇女との間には、漢皇子という子供がいた。
漢皇子の消息はよく分からない。
天智と天武が非兄弟であった、と考える論の中に、漢皇子が大海人皇子(天武)ではないか、とする説がある。
『日本書紀』の記述とは異なって、天武が天智より年長だとする説を採るとすると、天智の異父兄にあたる漢皇子は、魅力的な位置にある。
舒明と宝皇女は押坂彦人大兄の子供(舒明)と子供の子供(宝皇女)であって、舒明からみれば宝皇女は姪にあたる。
高向王がどのような人物であったかにもよるであろうが、舒明が既に結婚していた宝皇女を妻としたことには、政略的な背景があったと考えるのが妥当であろう。
舒明崩御の後は、宝皇女が即位して、皇極天皇になった。
その皇極天皇の面前で、乙巳のクーデターが実行されたのだった。
皇極は軽皇子(孝徳)に譲位するが、孝徳崩御後にもう一度皇位に復帰して斉明天皇となる。初の重祚である。
『日本書紀』は、舒明の殯の様子を次のように記す。
(舒明)十三年冬十月九日、天皇は百済宮で崩御された。十八日、宮の北に殯宮を設けた。これを百済の大殯という。この時、東宮の開別皇子(のちの天智天皇)は十六歳で誄をよまれた。
このとき、中大兄は、舒明の子供の中で別格で誄をよんだのか、大勢の中の一人として誄をしたのか?
『日本書紀』は、何となく中大兄が別格だったという雰囲気であるが、遠山氏は、それは後に皇太子に立てられたりしたことを踏まえた造作である、としている。
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