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2008年3月

2008年3月31日 (月)

大化改新…④否定論

私は、「大化改新は645年」というように学んだ記憶があるが、645年に飛鳥で起きた蘇我入鹿暗殺事件と、難波に遷都してからの政治改革過程とは区別して考える必要がある。
難波での政治改革過程に関して、「大化改新否定説」が唱えられている。
以下、代表的な否定論者の原秀三郎氏の『大化改新』(『日本史の謎と発見4女帝の世紀』毎日新聞社(8811)所収)を参考に、「大化改新否定説」について見てみよう。

原秀三郎氏は、1934年に静岡県下田市に生まれ、静岡大学文理学部を卒業後、京都大学大学院文学研究科国史学専攻の博士課程を修了した。
奈良国立文化財研究所員、静岡大学人文学部教授、千葉大学文学部教授などを歴任後、2000年に、出身地の下田市長選挙に出馬したが、落選した。

上掲書によれば、原氏が、大化改新の存在に疑いを持ったのは、京都大学の大学院生であった頃のことである。 
1963年9月下旬の残暑の厳しい頃であったという。師事していた岸俊男教授を中心に、『延喜式』の輪読会をひらいていた。
そのころ、大化改新の詔の史料としての信頼性について、議論が盛んになりつつあった。輪読会の後の議論の中で、岸俊男教授が、「ほんとうに改新詔はあったのか?」と発言したのだという。
原氏自身は、その時点では、改新詔の肯定論者というか、詔文の存在を疑う発想などはなく、必死で反論を試みた、と回顧している。

改新詔は、『日本書紀』の孝徳紀に、以下のように書き始められている(坂本太郎他校注『日本書紀 (4) (ワイド版岩波文庫 』(0310))。

二年の春正月の甲子の朔に、賀正礼畢りて、即ち改新之詔を宣ひて曰はく、「其の一に曰はく……

しかし、この記事以外に、詔の存在を示す根拠はあるのか?
改新詔が、本来、『日本書紀』に書かれているような漢文体のものではなかったであろうことは、津田左右吉以来の通説だった。
また、詔文の細部が、近江令や浄御原令、大宝令などの後世の法令の文章を使って修飾されていて、当時の詔勅の内容そのものでないとしたら、そもそも改新詔が存在したのかどうかを疑うことは、当然必要なことであったのであろう。

岸俊男教授は、戸籍制度の研究を長年続けていた。
「ほんとうに改新詔はあったのか?」という発言は、単なる思い付きということでなく、その研究の背景を踏まえてのものであった。
改新詔第三条は、以下のようである。

其の三に曰はく、初めて戸籍・計帳・班田収授之法を造れ。凡て五十戸を里とす。里毎に長一人を置く。……

岸氏は、この改新詔第三詔を、6年後の白雉3(652)に、戸籍がつくられ、班田が行われるようになった、という『日本書紀』の記事との関連で詳しく検討し、以下のような結論を導き出した。
1.白雉3年の造籍、班田の記事は、「戸籍は六年に一造、班田は六年に一班」という浄御原令以降の考え方によって造作されたものであること。
2.改新詔第三詔凡条は、『日本書紀』の編纂された時点での現行法であった大宝令(701年成立)のよって造作された可能性が高いこと。
3.主文についても、計帳の存在が、庚寅年籍(690年)以前には考えられないことから、きわめて疑わしいものであるとせざるを得ないこと。

そして、以下のように述べた(上掲書)。

改新詔は、凡条が『大宝令』を基礎に潤色造作されている上に、その主文に示された内容のなかにもかなり疑わしいものが多いとすれば、改新詔が果してどれだけ原詔の面影を遺しているかに甚だ不安を感じる。勿論私はその内容のすべてを疑うものではなく、改新の趨勢がその中に集約表現されているとは思うが、大胆に極論をすれば最初に述べたように原詔の存否を改めて考慮する必要があると思うのである。

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2008年3月30日 (日)

大化改新…③朝鮮半島の動向

大化改新は、東アジア諸国との関係を視野に入れて理解すべきである、ということは現時点では当然の前提とされている。
とくに、朝鮮半島諸国との関係は、中国との関係を背景に置きつつ、より直接的な相互影響関係にあったものと考えられる。
武田幸男「朝鮮三国から統一新羅へ」(『大化改新と東アジア』山川出版社(8102)所収)により、朝鮮半島の動向を概観してみよう。
6朝鮮半島では、高句麗・百済・新羅の三国鼎立状態が、7世紀を通じて新羅に統一されていく。その過程は、おおよそ次の4つのフェーズに分けて考えることができる。(図は、田辺昭三『藤原鎌足とその時代』(青木和夫、田辺昭三編著『藤原鎌足とその時代―大化改新をめぐって 』吉川弘文館(9703)所収))。

①第一期
562年からの40年間。
新羅が高霊加羅を併合した結果、朝鮮半島南部にあった加羅(任那)諸国が滅亡し、三国鼎立状態となる。

②第二期
三国の緊張状態が高まり、戦争期となる。
602年に百済と新羅の戦争が勃発し、以後高句麗VS新羅の戦いを交えつつ、百済VS新羅の間の戦争が頻発した。
戦争は小規模で慢性的なものであったが、新羅が孤立する状態が多かった。

③第三期
642年の百済による新羅四十余城の奪取によって、戦争が大規模した。
戦争の大規模化は、国家間の係争という性格を強め、百済と高句麗の和親、百済・高句麗と新羅の対立関係が明確になり、唐の親新羅の立場での軍事介入を招くことになった。
その結果、660年に百済、668年に高句麗が滅亡した。

④第四期
百済・高句麗の滅亡により、朝鮮半島では、新羅と唐との抗争が主軸となった。
唐は676年に朝鮮半島から撤退し、684年に新羅は高句麗・百済遺民を掌握した。

朝鮮半島の動向は、中国との関係により大きく規定され、また日本列島に影響を及ぼすものであった。
598年以来、隋は高句麗征討を試みるが、軍事力による強引な威圧が無理を生じ、隋滅亡の一因となった。
隋の失敗を踏まえ、唐は三国への軍事介入を避ける方針をとった。
新羅は、三国鼎立状態の中で、親唐路線を追求した。それは、三国の関係の中での孤立の必然的な結果でもあった。

乙巳のクーデターとその後の大化改新は、上記の第三期の時期であり、それは朝鮮半島の情勢が最も熾烈な対立的だった期間ということになる。
この期間に、唐は朝鮮半島への介入を強め、高句麗・百済を屈服させた。
倭は百済との関係から、朝鮮半島の争乱に係わり、663年に白村江で唐・新羅連合軍に大敗する。
その後の敗戦期の様相については、われわれが生きてきた時代でもある東亜・太平洋戦争の敗戦期との対比という視点からも、大いに関心を抱かざるを得ない。

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2008年3月29日 (土)

大化改新…②研究史

大化改新については、江戸時代の新井白石等も論考を残しているが、特に明治時代になって、近代的な史学の出発とナショナリズムの高揚が同期し、明治維新との関係を意識しつつ、議論の盛り上がりを見せた。
ここでは、井上光貞の整理(『大化改新と東アジア』山川出版社(8102)に従い、第二次大戦後の研究史をレビューしておこう。

井上氏は、それまでの戦後の研究史を4つの段階に分ける。
第一段階は、1940~50年代にかけてである。
当時の重要テーマは、大化改新の詔の信憑性の問題であった。
『日本書紀』に載っている詔をみると、改新政権がどういう改革をしようかという大綱が掲げられている。
この、『日本書紀』に記載されている詔は、果たして当時(646年)のままであるのか。あるいは、『日本書紀』の編纂された8世紀もしくはそれまでの間のいずかの時期に作られたものなのか。
井上氏は、津田左右吉の線を概ね肯定している。
つまり、大化改新の詔は原詔があったが、それに『日本書紀』編纂者の手が加わっている、という判断である。

『日本書紀』には、「郡司」とか「郡」という言葉が出てくるし、郡の役所の長官・次官を大領・少領と書いてある。
しかし、金石文には、「郡」ではなくて「評」という字が使われている。
井上氏は、「郡」は、701年の大宝令が発布されてから使われるようになったものと判断し、646年段階では「郡」という字は使われていないはずだから、『日本書紀』の詔は、『日本書紀』編纂時の現行法である大宝令によって書き改められている、とした(1951年)。
それをきっかけに、先輩東大史学科教授の坂本太郎氏との間に有名な「郡評論争」が行われた(07年9月12日の項)。
藤原宮出土の木簡によって、大宝律令までは「郡」が使われていなかったことが判明し、『日本書紀』の詔には修飾が加わっていることが明確になった。

第二段階は、大化改新を国際的な視野で捉えようという動きが出てきた時期で、60年代以降である。
それまでの大化改新の捉え方は、天皇家が統治すべきところを、蘇我氏が権力を掌握して政治を壟断していた。それに対し、中大兄や中臣鎌足が決起して天皇の権威を回復した。
つまり、明治維新と同じような、一種の王政復古である、というような把握の仕方が中心であった。
私なども、100%いわゆる戦後民主主義の教育を受けてきたのであるが、学校で教えられた大化改新のイメージは、これに近い。
あるいは、土地所有制度のあり方が、貧富の差を拡大し、それが改新の原動力として機能した、というような国内的要因に焦点を絞った議論が行われていた。

1962年に西嶋定生氏が、『六~八世紀の東アジア』という論文を、岩波講座「日本歴史」に書いて、中国の冊封体制との関係で、七世紀の日本の政治過程を捉えるべきだ、と主張した。
つまり、大化改新に王政復古などの国内的要因はあるにしても、隋・唐定刻の出現とその周辺諸民族へのインパクトによって、日本も、律令制という中国制度を受容しながら、国家体制を固めていったのが七世紀の動きだった、とするものである。

第三段階は、同じく60年代のことであるが、関西の日本史研究会を中心として、「大化改新否定論」が出てきたフェーズである。
明確な否定論は、静岡大学の原秀三郎氏が、「日本史研究」に載せた『大化改新論批判序説』という論文による。
原氏の主張は、大化に政治改革が行われたというのは、『日本書紀』編纂者の作り上げたフィクションである、とするものである。
『日本書紀』編纂時の権力者は藤原不比等で、不比等のミッションは、律令政治を進展させることであった。その作業は、不比等の父の鎌足が始めたということを強調せんがために。、律令政治の出発点を、645年のクーデターに置いた。
つまり、大化の時点では、政治改革は行われなかった、ということになる。

第四段階は、考古学の発掘成果との照合を考える段階である。
一昨日発表された入鹿邸の倉庫跡と見られる遺構などもそうであるが、歴史的な認識が物証によって検証されつつある。
飛鳥や藤原京を中心に、宮や寺院の址、木簡、仏像、高松塚などの古墳、富本銭などの銭貨、地鎮具など用具など多様な発掘物が示され、それが歴史像との関係で解釈される。
近年の発掘の成果は目覚しいものではあるが、しかし発掘されたものが未だごく一部分に過ぎないことも事実である。「郡評論争」における木簡の例に見られるように、考古学の成果が、歴史認識に及ぼす影響は大きい。
第四段階は、現在進行形のフェーズである。

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2008年3月28日 (金)

入鹿邸跡の発掘

今朝(08年3月28日)の各紙新聞に、「入鹿邸跡の発掘」に関する記事が載っている(写真は、静岡新聞)。
Photo_2静岡新聞の記事では、大化の改新(乙巳=いっし=の変、645年)で中大兄皇子らに暗殺された飛鳥時代の大豪族、蘇我入鹿(そがのいるか)の邸宅のあったとされる奈良県明日香村の甘樫丘東麓(あまかしのおかとうろく)遺跡で、七世紀中ごろに取り壊された倉庫や堀の跡が新たに見つかり、奈良文化財研究所が二十七日、発表した、とある。

同紙は、蘇我氏の滅亡と時期が一致し、日本書紀が「谷(はざま)の宮門(みかど)」と記す入鹿邸の一部だった可能性が一層高まった、と報じている。
正殿などの中枢部は見つかっていないが、調査中の谷の中央にあるのではないか、とされる。
倉庫の柱穴を壊す形で別の穴を掘り、650年ごろの土Photo_3 器を捨ててあったため、この時期に蘇我氏の建物群が廃絶したと判断されるいうことである。

『日本書紀』の皇極紀三年条に次のような記載がある(日本書紀〈下〉 (講談社学術文庫) )。

冬十一月、蘇我大臣蝦夷と子の入鹿は、家を甘橿岡に並べて建てた。大臣の家を上の宮門(ミカド)と呼び、入鹿の家を谷(ハザマ)の宮門といった。男女の子たちを王子(ミコ)といった。家の外にとりでの柵を囲い、門のわきに武器庫を設けた。家ごとに用水桶を配置し、木の先にかぎをつけたもの数十を置き、火災に備えた。力のある者に武器をもたせ常に家を守らせた。大臣は長直に命じて、大丹穂山にホコ<木偏に牟旁>削寺(ホコヌキノテラ)を建てさせた。また家を畝傍山の東に建て、池を掘ってとりでとし、武器庫をたてて矢を貯えた。常に五十人の兵士を率いて護衛させ家を出入りした。これらを力人として東方の従者といった。諸氏の人達がその門に侍り、これらを名づけて祖子孺者(オヤコノワラワ)といった。漢直(アヤノアタイ)らは専ら両家の宮門を警護した。

甘樫丘は、飛鳥板蓋宮を見下ろす位置にあり、そのような場所に邸宅を構え、それを宮門(ミカド)と呼んだり、子どもを王子と呼んだことなどが、蘇我父子の専横ぶりを示している、とされている箇所である。
しかし、遠山美都男『蘇我氏四代―臣、罪を知らず』ミネルヴァ書房(0601)は、山背大兄一族と斑鳩殲滅の褒章として、皇極が甘樫丘に邸宅を営むことを許可し、それを宮門と呼んだり子どもを王子と呼んだりするのも、皇極が認めた可能性がある、とする。
つまり、王族に準ずる待遇ということである。

そして、皇極四年六月十二日条のクーデターの日に、入鹿が斬殺された後の文章である。

蓆蔀(ムシロシトミ)で、鞍作の屍を覆った。古人大兄は私宅に走り入って人々に、「韓人が鞍作臣を殺した。われも心痛む」といい、寝所に入ってとざして出ようとしなかった。中大兄は法興寺に入られ、とりでとして備えられた。諸の皇子、諸王・諸卿大夫・臣・連・伴造・国造などみながお供についた。人を遣わし鞍作の屍を蝦夷大臣に賜わった。漢直らは族党を総集し、甲(ヨロイ)をつけ武器を持って、蝦夷を助けて軍(イクサ)をしようとした。中大兄は将軍巨瀬徳陀臣を遣わして、天地開闢以来君臣の区別が始めからあることを説いて、進むべき道を知らしめられた。

中大兄(天智天皇)の颯爽とした指揮ぶりが描かれているが、その立場について諸説があることは既に見たとおりである。
この時代の発掘調査は、歴史学と考古学とが交じり合うので、発掘結果の見方にも史観が反映してくる。

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2008年3月27日 (木)

大化改新…①概観

いわゆる「大化改新」は、日本古代史において最も有名な政治過程であろう。
子供の頃、歴史というものを学び始めた最初の段階に、最重要な事象として刷り込まれたように思う。一方で、その実像をめぐって、さまざまな議論が行われてきており、一筋縄では捉えられないものでもある。
最初に、通説の代表選手として、笹山晴生『日本古代史講義 』東京大学出版会(7703)の記述を見てみよう。

同書では、「第7章 大化改新と古代国家の成立」と章立てされ、重要なエポックとして位置づけられている。
小見出しに「大化改新の政治改革」がある。

蘇我氏の滅亡後、皇極天皇の弟の軽皇子が即位して孝徳天皇となり、中大兄皇子が皇太子となって新政府の組織が開始された。政府の機構としては……
中略
皇太子中大兄は政務執行と政策立案の双方の機関を統轄し、権力の中枢に立つという体制であった。同年、大化の年号が定められ、難波(大阪市)への遷都が行われ、改革のための諸事業が着手された。
中略
翌六四六(大化ニ)年正月、いわゆる改新の詔が発布された。『日本書紀』によれば、それは、(一)旧来の子代・屯倉、部曲・田荘をやめ、かわりに大夫以上に食封、以下の官人・百姓には布帛を賜う。(ニ)京師・畿内・国司・郡司などの中央集権的な地方行政機構と、それを支える駅馬・伝馬などの制を整える。(三)戸籍・計帳、班田収受の法を定める。(四)旧来の賦役の制をやめ、田の調をはじめとする新しい税制を施行する、という四ヵ条からなる内容のものである。

笹山氏は、厳密な史料批判を必要とするが、という留保をしつつも、皇族や中央豪族層の持つ土地人民に対する個別的な専有権を一元化し、中央集権的な地方支配体制、統一的な税制の形成をめざすという政治改革の方針がこの時点で宣布されたことは、事実として承認してよいと思われる、としている。

この「改新の詔」の評価が問題である。
上掲書から、論点を抜粋してみる。
①改新詔を基本的の当時のものとして承認する立場
関晃「改新の詔の研究」(『論集日本歴史2 律令国家』所収
-改新詔の規定は将来にわたっての改革の方針を示したものであり、必ずしもそのすべてがすぐに実施されたとは限らない

②名称に書き換えがなされているとする立場
井上光貞「大化改新の詔の研究」(『日本古代国家の研究』所収)
-原詔の枠組みは現在の詔と同じだが、名称には現代風の書き換えがあり、ことに副文の多くは大宝令・浄御原令文を簡略化して転載した

③改新時における改革を否定する立場
原秀三郎「大化改新論批判序説」(『日本史研究』86・88)
-公民支配の体制は、664(天智3)年の民部の設定をへて675(天武4)年にいたって創出された

笹山氏自身の見解は、「皇族や中央豪族層のもつ個別的領有権を一元化する、公地公民への方針を宣示したものとみ、それにともなう中央集権的な地方支配体制、統一的な税制の施行を発表したものとみるが、律令制的な戸籍・計帳・班田収受法の細目はまだこの時点では明確に決定していなかった」というものである。
東アジア情勢が緊迫する中で、急速な権力集中化を意図して行った政治改革であり、世襲職制を廃して官僚制的体制を整え、国力を最高度に発揮させる体制の樹立を企図したものとみる。

かつては、大化前代の氏を血縁団体とみて、改新に氏族社会の崩壊、国家の成立をみる考え方があった。
しかし、氏が一つの政治組織であるとする考え方が有力になり、当時の支配層が、土地人民に対する支配をより確実にするためにおこなった政治改革であって、皇族・諸豪族から政府による一元的支配へという人民の所属関係の変更を意味するものとの見方が有力になってきている。

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2008年3月26日 (水)

天智天皇…⑰即位遅延の理由

天智天皇が『日本書紀』に登場するのは、舒明崩御のときの次の記事である(宇治谷孟現代語訳『日本書紀〈下〉』講談社学術文庫(8808))。

十三年冬十月九日、天皇は百済宮で崩御された。十八日、宮の北に殯宮を設けた。これを百済の大殯という。この時、東宮の開別皇子(のちの天智天皇)は十六歳で誄をよまれた。
 開別皇子(ヒラカスワケノミコ)
 誄(シノビゴト)

舒明13年は641年であるが、4年後の645年には中臣鎌足らと謀り、クーデターによって蘇我入鹿を暗殺し(乙巳の変)、叔父の孝徳天皇を擁立して、皇太子となった。
大化の元号を制定し、「大化の改新」と呼ばれる改革政治のリーダーだったとされる。
正妻は異母兄弟の古人大兄皇子の娘の倭姫王であるが、その古人大兄は、謀反を企てたかどで中大兄(開別)皇子の命により討たれてしまう。

天智天皇が天皇として即位するのは、668年に近江大津宮に遷都してからであり、645年に皇太子に就いてから、23年を経ている。
この間、即位の機会がなかったわけではないだろうから、天智天皇が長く即位しなかったことの理由づけは、7世紀中葉の政治史を説明するキーの一つである。
このことについて、どのような説明がなされてきたであろうか。 

1.天武天皇を推す勢力への配慮とする説。
通説・定説の天武天皇は天智天皇の弟であるというのは誤りで、皇極天皇が舒明天皇と結婚する前に生んだ漢皇子であり、彼は天智天皇の異父兄であるとする説に基づくもの。
確かに、『日本書紀』の天智天皇と一部の歴史書に掲載される天武天皇の享年をもとに生年を逆算すれば、天武が年長となってしまう。
しかし、同一史料間には矛盾は見られず、8~9歳程度の年齢差を設けている史料が多い。これに対しては『「父親が違うとはいえ、兄を差し置いて弟が」ということでは体裁が悪いので、意図的に天智の年齢を引き上げたのだ』との主張がある。
『日本書紀』に見える、天智の年齢16歳は父舒明天皇が即位した時の年齢だったのだが、間違えて崩御した時の年齢にしてしまった。だから、本当の生年は『本朝皇胤紹運録』等が採用している614年だ、とする説、古代においては珍しくなかった空位(称制期間が天智と持統にある)の期間のために誤差が生じたのだ、とする説などがある。

2.乙巳の変は軽皇子のクーデターであり、中大兄皇子は地位を追われたという説。
中大兄皇子と蘇我入鹿の関係が比較的良好で、基本政策も似ていて、中大兄皇子が入鹿を殺害する動機がなくなる、とする。
皇極退位の理由や、入鹿以外の蘇我氏がクーデター後も追放されていない理由なども説明できる。

3.天智の女性関係に対しての反発から即位が遅れたとする説。
『日本書紀』に記載されている孝徳から妻の間人皇女(天智の同母妹)に当てた歌に、彼女と天智との不倫関係を示唆するものがあるとするものである(08年3月17日の項)。
異母兄弟姉妹間での恋愛・婚姻は許されるが、同母兄弟姉妹間でのそれは許されなかったのが当時の人々の恋愛事情だった。

4.斉明天皇の死後に間人皇女が先々代の天皇の妃として皇位を継いでいたのであるが、何らかの事情で記録が抹消されたという説。
『万葉集』に出てくる「中皇命」なる人物を間人皇女とする説から来るもので、「中皇命」とは天智即位までの中継ぎの天皇ではないか、と解釈できるという主張である。

天智の即位が遅れた理由については、上記のようにさまざまに考えられているが、そもそも、乙巳のクーデターの直後に皇太子の地位についたのかどうかも疑問である。というのは、当時は未だ皇太子制が確立されていなかったはずであり、『日本書紀』が、「中大兄を立てて皇太子とされた」と記述すること自体に修飾があるからである。

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2008年3月25日 (火)

天智天皇…⑯乙巳のクーデター(ⅵ)

もう少し砂川説を追ってみよう。
『日本書紀』の孝徳2年3月20日条である。
皇太子(中大兄)が使いを遣わして、以下のような内容の奏上をする(宇治谷孟現代語訳)。

昔の天皇たちの御世には、天下は混然と一つに纏まり治められましたが、当今は分かれ離れすぎて、国の仕事が行ない難くなっています。わが天皇が万民を統べられるに当り、天も人も相応じ、その政が新たになっています。つつしんでお慶び申し上げます。現つ神として八嶋国を治らす天皇が、私にお問いになりました。「群臣・連・及び伴造・国造の所有する昔の天皇の時代に置かれた子代入部、皇子たち私有の名入りの私民、皇祖大兄(孝徳天皇の祖父)の名入りの部とその屯倉などを、昔のままにしておくべきかどうか」というお尋ねを謹んで承り、「天に二日なく国に二王なしといいます。天下を一つにまとめ、万民をお使いになるのは、ただ天皇のみであります。ことに入部と食封の民(貴族の私民)を国の仕丁にあてることは、先の規程に従ってよいでしょう。これ以外は私用に召し使われることを恐れます。故に入部は五百二十四口、屯倉は百八十一所を献上するのが良いと思います」とお答えします。

この部分について、一般には、陰の実力者の中大兄が率先して私有財産を献上することで、他の有力貴族も従わざるをえないようにした、とされている。
しかし、見方を変えれば、中大兄が孝徳に私有財産を献上せざるを得なかった、もしくは没収された、とも解釈できる。
孝徳が、中大兄の傀儡であったのか、実力で天皇位を得たのかの判断によって変わってくる。
諸皇族および群臣百寮が孝徳から離れていくのはこの私有財産禁止令に端を発しているのではないか。つまり既得権益を失ったことによる離反である。そして、中大兄に権力の重心がシフトしていく。

孝徳の次妃は、蘇我倉山田石川麻呂の娘の乳娘であり、中大兄の場合と同じである。
中臣鎌足は、中大兄と軽の二人に、蘇我倉山田石川麻呂の娘を妃として迎えさせ、石川麻呂をしっかりと抱え込んだ。 
つまり、鎌足の中大兄と軽に対する態度は同等と見ることができる。
しかし、孝徳9年に、中大兄が都を難波から大和に戻すように献策し、孝徳が同意しなかったとき、鎌足は孝徳と共に難波に残っている。
白雉5年春1月1日条である。

夜、鼠が倭の都に向って走った。紫冠を中臣鎌足連に授け、若干の増封をされた

孝徳が崩御するのは、この年の10月10日である。既に難波の都には鼠さえも居つかない有り様の中である。
そういう状況の中で、紫冠を授けている。つまり、臣下として最高位に位置づけているのである。
おそらく、鎌足は、孝徳が亡くなるまで従っていたのであろう。
とすれば、鎌足が心から臣従していたのは、中大兄ではなく軽(孝徳)だった、と考えた方が自然である。
このことも、乙巳のクーデターの主導者が、中大兄ではなく、軽であったことを示している。
皇極が、息子の中大兄ではなく、弟の軽に譲位したのは当然のことであった。

中大兄が難波から飛鳥に移ったとき、皇極上皇や間人皇后だけでなく、公卿大夫・百官の人々がみなつき従って遷った。
砂川氏は、孝徳2年3月20日条の「私有財産禁止令」が、群臣を離反させ、中大兄に期待が集まった、とする。
つまり、孝徳は、改革を急ぎすぎたのではないか、ということである。

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2008年3月24日 (月)

天智天皇…⑮乙巳のクーデター(ⅴ)

砂川恵伸『天武天皇と九州王朝―古事記・日本書記に使用された暦』新泉社(0612)も、蘇我入鹿誅滅事件に言及している。
砂川氏の立場は、基本的に九州王朝説であり、天智・天武非兄弟説であるから、その解釈はもちろん通説とは全く隔たりがある。
砂川氏は、以下のように想定している。

乙巳のクーデターの起きた645年には、九州王朝はまだ健在であり、大海人皇子は九州にいた。従って、このクーデターには、大海人皇子はまったく関係していない。
クーデターの後、天皇位は、皇極から同母弟の軽皇子(孝徳)に移った。
中大兄の異母兄弟の古人大兄皇子は、入鹿暗殺シーンには登場するが、暗殺計画には参画していない。
事件のあと、次のように人に語ったことは既に述べた。

韓人、鞍作臣を殺しつ(韓政に因りて誅せらるるを謂ふ)。吾が心痛し

「吾が心痛し」という言葉から明らかなように、古人大兄皇子と蘇我入鹿は仲間である。『日本書紀』には、入鹿による古人大兄擁立計画があり、そのために山背大兄王を討滅した、という記述がある。
その際の、古人大兄の「鼠は穴に伏れて生き、穴を失ひて死ぬ」という言葉について、砂川氏は、鼠は山背大兄のことを指している、と断定している。
通説・定説では、「鼠は入鹿をたとえたもの」(08年3月19日の項)と解しているのであるが、この解釈は不自然である。
砂川氏は、生駒山に潜んでいた山背大兄王を指して、「穴(本拠の斑鳩)を失ったから放っておいても滅びる」と言っているとしているが、同感である。

砂川氏は、『日本書紀』の、中臣鎌足が軽皇子に接近する部分の説話も、前後の記述からみて、文脈的に不自然だし、不必要ではないか、とする。
それでは、この説話は、どのような意図で置かれているのだろうか?
鎌足の「皇子が天下の王とおなりになることを、誰もはばむ者はないだろう」という言葉は、中臣鎌足が蘇我氏を滅ぼすために行動を共にすることのできる人物は、軽皇子だと考えていた、という砂川氏の指摘にも同感する。

しかし、『日本書紀』の記述は、軽皇子は入鹿誅滅事件に軽皇子が参加していないかのようである。襲撃事件の記述に軽皇子の名前は登場しない。
孝徳即位前紀に、次の記述がある。

天万豊日天皇(孝徳)は、天豊財重日足姫天皇(皇極)の同母弟なり。仏法を尊び、神道を軽りたまふ。(生国魂社の樹を斮りたまふ類、是なり。)人と為り、柔仁ましまして儒を好みたまふ。

この儒は、学者のこととされ、大化改新に学者を多く用いたことを指す、と解されている。しかし、文字通り儒教の意と理解してもいいだろう。
砂川氏は、儒教思想においては、天子の位は徳の結果としてあるのであって、暗殺の結果としてあるのではないから、儒教思想を踏まえた『日本書紀』の記述においては、入鹿暗殺の首謀者として軽皇子の名前を消してあるのだろう、と推測している。
孝徳は即位後、短時日の間に次々と施策を打ち出しており、そのことは、孝徳が即位前から考えていた施策を実行したことを示している。
砂川説においても、乙巳のクーデターは、軽皇子のイニシアティブによって遂行された、ということになる。
中村修也『偽りの大化改新 』講談社現代新書(0606)に掲げられている以下の疑問点は、軽皇子主導説、大海人皇子九州王朝皇子説で、すべて説明できる。

①中大兄は身を危険にさらしてまで入鹿殺害をはかったのに、どうして自分が即位しなかったのか。
②蘇我氏が倒されたのに、どうして皇極女帝は退位しなければならなかったのか。
③軽王子はどのような理由で大王に選ばれたのか。
④中大兄は王族なのに、どうして自ら殺害に加わったのか。
⑤蘇我倉山田石川麻呂は、同じ蘇我氏なのにどうして入鹿殺害に加担したのか。
⑥乙巳の変の際、中大兄の弟の大海人王子はなにをしていたのか。

①~④は、軽皇子が主導者で、中大兄は実行者の一人だったとすれば、問題ない。
⑤も、軽皇子の妃の一人が石川麻呂の娘であることから納得できる。
⑥は、大海人は九州に居たので、登場しないのは当たり前である。

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2008年3月23日 (日)

天智天皇…⑭乙巳のクーデター(ⅳ)

遠山美都男『天智天皇』PHP新書(9902)も、乙巳のクーデターを、軽皇子の支持派の主導によるものとみる。
それは、軽皇子の宮があった和泉国和泉郡を中心とした人間関係で構成されていた(08年3月21日の項)。
遠山氏は、通説が首謀者とみなす中大兄と中臣鎌足の2人が、飛鳥寺の広場の蹴鞠の場で出会い、それをきっかけに主従関係を結んだ、という有名な逸話を、フィクションの域を出ないものとする。
それは、新羅の金春秋(武烈王)と金庾信の主従に同様の物語があることが、『三国史記』や『三国遺事』に記載されているからである。
金春秋と金庾信は、蹴鞠のアクシデントを通じて主従関係を結んだとされており、中大兄と鎌足の場合に良く似ている。

遠山氏は、クーデターの目的は、皇極から軽皇子への譲位が目的であったとし、それは同時に古人大兄皇子の即位を否定することでもあった、とする。
蘇我蝦夷・入鹿父子がターゲットにされたのは、彼らが古人大兄の即位を図っていたからである。クーデター派は、古人大兄も作戦目標にしていたはずであるが、皇子という身分も与って、殺害を免れた。
古人大兄は、出家により、王位継承資格を放棄する道を選ばざるを得なかった。

入鹿の死後、蝦夷が反攻する可能性もあったから、古人大兄と蝦夷の連繋を阻止することが必要だった。
『日本書紀』は、蝦夷が滅亡した翌日、皇極が譲位の表明をした後に、古人大兄は出家して王位継承資格を放棄したと書いている。
しかし、遠山氏は、古人大兄が飛鳥寺の仏殿(金堂)と塔の間で、髯と髪を剃り落とし、袈裟を着たとする記述から、古人大兄の出家の日時は、もっと以前のことであっただろう、と推測している。
なぜならば、飛鳥寺は蝦夷との対決に備えてクーデター派が占拠した施設であり、古人大兄が出家という形で投降の意思表示をするとすれば、クーデター派の居並ぶ面前で行われたはずである。
クーデター派が揃って飛鳥寺に居たということは、蝦夷はまだ尊命していたと考えられる。

飛鳥寺には、東金堂・中金堂・西金堂という3つの金堂があった。
本尊の釈迦如来像は、中金堂にあったとされており、出家をするとすれば、この像の前が相応しい。
中金堂と塔の間とすれば、その場は蝦夷の拠点だった甘檮岡から見ることができる。
つまり、甘檮岡から見えることを前提に、古人大兄の出家の儀式は行われたのであって、蝦夷はその様子を見ていたと考えられる。
その結果、蝦夷は古人大兄と連繋して反攻に出る選択肢が消えたことを知ったのであり、一族滅亡という運命を受諾せざるを得なくなった。
とすれば、古人大兄の出家は、『日本書紀』の記す6月14日ではなく、蝦夷の自決する前の12日か13日であったのではないか、というのが遠山氏の推論である。

乙巳のクーデターは、皇極に譲位を促して軽皇子の即位を実現すべく、軽皇子の周りに結集していた勢力により主導されたものであった。
遠山氏は、中大兄は、一連の軍事行動に、当初は一刺客として、後半は一戦闘指揮官として参加したに過ぎない、とする。
中大兄と中臣鎌足が、隋や唐に倣って、中央集権的な律令国家を建設するため、その障壁となる蘇我氏の本宗家を妥当した、という通説に大きな修正を迫っている。
乙巳のクーデターが、軽皇子の主導によって行われた、と見る点において、遠山美都男氏と中村修也氏は同じである。その方が合理的で、納得し易い。

『日本書紀』の皇極3年1月1日条には、次のような記述がある(日本書紀〈下〉 (講談社学術文庫) )。

中臣鎌子は以前から軽皇子と親しかった。軽皇子は鎌子連の資性が高潔で、容姿に犯しがたい気品のあることを知って、もと寵妃の阿倍氏の女に命じて、別殿をはらい清めさせ、寝具を新たにして懇切に給仕させ鄭重におもてなしになった。中臣鎌子連は知遇に感激して舎人に語り、「このような恩沢を賜ることは思いもかけぬことである。皇子が天下の王とおなりになることを、誰もはばむ者はないだろう」といった。

その後、鎌子連は、蘇我入鹿を打倒すべく、つぎつぎと王家の人々に接触し、企てを成し遂げ得る明主を求め、蹴鞠を機会として中大兄に近づくことに成功する。
しかし、上記の『日本書紀』の記述からすれば、中臣鎌足は、基本的に軽皇子の即位に賛同する立場だったことになる。

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2008年3月22日 (土)

天智天皇…⑬乙巳のクーデター(ⅲ)

中村修也『偽りの大化改新 』講談社現代新書(0606)は、乙巳のクーデターの舞台となった「三韓進調」自身が、『日本書紀』編者の創作ではないか、とする。入鹿殺害が「三韓進調」の儀式の場で行われたというのが、虚偽ではないか。
もしそうなら、入鹿が俳優(ワザオギ)に刀剣を預けたとか、蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げたとか、中大兄王子が斬りかかったなどという記事も疑ってかかる必要がある、と。

中村氏は、仮に「三韓進調」の儀式が行われていたとしても、東アジアの情勢が緊迫している中で、外国使節の眼前でクーデターを起こすだろうかと疑問を呈する。
クーデターは必ず成功するとは限らない。中大兄らの意図が、中央集権化をめざすことにあったのならば、自国の恥をさらすような愚はしなかったのではなかろうか。

「三韓進調」の儀式が中大兄や中臣鎌足らによる偽りの儀式だったとするならば、朝鮮事情に詳しいはずの蘇我氏が、偽の儀式に不審を抱かずに出席するということが想定しにくい。
儀式が実際に催されるとするならば、その儀式は入鹿が携わるものであり、中大兄や鎌足が関与する可能性はない。
とすると、入鹿が「三韓進調」の儀式の場で行われたという『日本書紀』の記述は疑わしいのではないか。

乙巳のクーデーターの設定は、馬子の崇峻殺害のシーンに似ている。崇峻は、東国からの調が届いたために開かれた儀式の場で行われた。
進調の場がクーデターの舞台として設定される、という点において、崇峻殺害と入鹿殺害は同様の構図であるといえる。
『日本書紀』の記述の流れは、入鹿の警護が厳重だったため、入鹿をおびき出すために「三韓進調」の場という場が必要だった、ということになるが、蘇我氏が警護を厳重にする必然性も薄いのではないか。

中村氏は、皇極の退位も不自然であるとする。
蘇我氏の専横を排することが目的であったのならば、入鹿・蝦夷の死で達成されたことになる。とすれば、皇極が退位したのはどうしてか?
皇極が退位し、孝徳が即位する。その孝徳の後に、皇極が重祚する。

皇極退位の理由としては、次の2つが考えられる。
A 皇極と蘇我氏が一体化していたので、イメージを払拭するため
B クーデターの目標に、皇極の退位が含まれていた
皇極が重祚していることを考えれば、「A」は成り立ちにくい、と中村氏は指摘する。ポスト孝徳としては、中大兄も大海人もいるのであるから、皇極が重祚する必然性がない。
「B」も、中大兄がクーデターの主導権を持っていたのならば、母親を排除する理由がない。

上記を考慮すると、クーデターの主役が中大兄である、という従来の通説は成り立たない。
とすれば、主役は誰だったのか?
舒明崩御時点の大王位後継候補者は、山背大兄、古人大兄、中大兄、軽王子であった。この中で、山背大兄はすでに亡くなっている。
古人大兄と軽王子のうちのいずれか?
古人大兄は、蝦夷・入鹿親子の支持を拠り所にしていたのだから、入鹿誅滅の主役たり得ない。
とすると、乙巳のクーデターの主役は、軽王子以外には考えられないことになる。

実際に、軽王子をクーデターの謎の多くが解消する。
皇極の退位は、軽王子による大王位の簒奪と考えれば疑問は消える。
古人大兄の「韓人が、鞍作臣を殺した」という言葉に付されている「謂因韓政而誅」は、東アジア情勢に対するスタンスで対立があり、その結果の凶行だと考えれば、辻褄が合う。
入鹿と軽王子の間に、考え方の大きな差異があった。
孝徳朝で、僧旻が重用されていることからすれば、おそらく軽王子は親唐路線だった。
一方、入鹿は、朝鮮半島を唐の脅威から守ることが重要だと考えており、親高句麗・百済路線だった。

唐は、643年に新羅が唐に援軍を求めたときに、新羅の善徳女王を廃することを忠告していることからも、女帝を認めていない。
軽王子が親唐路線だったとすれば、皇極を廃することも当然のことである。
軽王子が、東アジア情勢に強い関心を持っていたことは、中国や朝鮮との関係を深めるのに好適な難波に遷都したことからも理解できる。
軽王子は、古人大兄の支持者の入鹿を殺害することで古人大兄の即位の可能性を排除し、皇極を退位させることで、中大兄の即位の可能性を排除することによって、自ら大王位に就いた。
つまり、乙巳のクーデターは、軽王子のイニシアティブによって行われたものである。

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2008年3月21日 (金)

天智天皇…⑫乙巳のクーデター(ⅱ)

中大兄は、乙巳の変の後で、なぜ即位しなかったのか。
『日本書紀』は、皇極が中大兄に譲位しようとしたのに対し、中臣鎌子連が、「古人大兄は、殿下の〔異母〕兄です。軽皇子は殿下の叔父です。まさにいま、古人大兄がいます。それなのに殿下が天皇位につけば、弟たるものの謙遜の心にそむきます。しばらく叔父を立てて民の望みに答えるのも、またいいのではないでしょうか」といい、中大兄はそれがいい、と判断したとする。

遠山美都男氏は、『天智天皇』PHP新書(9902)で、乙巳の変の前奏曲ともいうべき山背大兄王の討滅事件について、次のようにみる。
『藤氏家伝』に、以下のような記述がある。
入鹿が山背大兄を滅ぼさなければならない理由として、皇極の在位が不安でり、内乱が起きかねないから、山背大兄を討つ。
つまり、山背大兄を討てば内乱が回避できるというのであって、皇極という女帝からの皇位継承が問題だったということになる。

皇極は推古に次ぐ女帝である。推古からの皇位継承に関して、推古在位が長期化したために有力な皇位継承者がいなくなったことが認識されていた。そのため、皇極が譲位し易い状況を作り出すことが課題であった。
そういう背景の下で、皇位継承順位第二位の軽皇子を推す一派と、同じく第三位の古人大兄皇子を支持する一派(蘇我入鹿が中心)とが共同戦線を組み、第一順位の山背大兄を亡き者にして、皇極の譲位を促す状況を作り出した。
それが山背大兄討滅事件の意味である。

山背大兄の討滅により、軽皇子が第一位に、古人大兄が第二位に昇格した。
皇極は、二人のうちのどちらかに譲位すればいいわけである。
『日本書紀』は、皇極が中大兄に譲位しようとしたのに対し、中大兄が辞退して、軽皇子を推し、軽皇子は古人大兄を推したように記述しているが、、遠山氏は、これは事実とは言えないだろう、としている。
何故ならば、遠山氏は古人大兄の出家を6月14日以前のこととし、すでに皇位継承資格を自ら放棄しているのであって、この譲り合いには参加できないはずであった、としているからである。

皇極から孝徳への譲位は、史上最初の生前譲位である。
それは、大王(天皇)に集中していた権力の譲渡であり、計画なしに行えるものではない。
クーデターの実行によって譲位が可能になったのであると考えれば、クーデターの目的自体が、皇極の譲位を図るためであったともいえる。
クーデターの前夜において、皇位継承候補者の第一と第二が、軽皇子と古人大兄皇子であり、譲位を計画的に実現するための武力行使であったのならば、その主導者は軽皇子とその一派であったと考えた方が自然である。

軽皇子とその一派とは、軽皇子の宮があった和泉国和泉郡やその周辺に何らかの権益を有していたものである。
倉山田石川麻呂は、河内国石川郡を本拠としているが、軽皇子の和泉国和泉郡とも近い。
石川麻呂の娘の乳娘は軽皇子に嫁いでいる。
阿倍内臣麻呂は、クーデターそのものには名前が見えないが、改新政権に左大臣に就任していることを考えれば、事前に何らかの接触があったであろう。
軽皇子は、阿倍内麻呂の娘の小足媛を妻に迎え、有間皇子をもうけている。
巨勢徳太は、大伴長徳と共に、早くから軽皇子に奉仕する立場にあった。
中臣鎌足はクーデターの準主役と目されている。しかし、彼が中心人物であったかどうかは良く分からない。
『日本書紀』では、鎌足が中大兄と相談してクーデターを起こしたように書かれているが、鎌足は軽皇子に仕える立場にあった。
いずれも、軽皇子と地縁や婚姻などを通じて軽皇子と主従関係を形成していた。

中大兄は、クーデターに参加したのではあるが、和泉国和泉郡を中心とした人間関係とは接点がない。
クーデター人脈の中での接点は、軽皇子との叔父・甥関係のみである。
つまり、通説とは異なり、中大兄を乙巳のクーデターの中心人物とみることはできない、というのが遠山氏の結論である。

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2008年3月20日 (木)

天智天皇…⑪乙巳のクーデター

大化改新のきっかけとなった645年の、中大兄や中臣鎌足らによる蘇我入鹿誅滅のクーデターは、『日本書紀』に詳しく記述されている。
山田宗睦訳『日本書紀〈下〉 (原本現代訳) 』教育社新書(9203)によって、その大要を確認してみよう。

(皇極四年)六月八日、中大兄は、ひそかに倉山田石川麻呂に語って、「三韓が調を進(タテマル)る日に、かならず卿にその表を読み唱げさせます」といった。ついに入鹿を斬ろうと欲う謀を陳べた。麻呂臣は許(諾)し奉った。
十二日、天皇が大極殿に〔出〕御した。古人大兄が侍した。中臣鎌子連は、蘇我入鹿臣が、疑い多い性格で、昼夜剣を持っているのを知っていて、俳優をして、たばかって解かせた。
中略
中大兄は、衛門府を戒め、同時に十二の通〔用〕)門を鎖し、往来させなかった。
中略
中大兄は、自分で長槍を執りもって、〔大極〕殿の側に隠れた。
中略
中大兄は、子麻呂らが、入鹿の威にかしこまり、とつおいつ進まないのを見て、「やあ」といいざま、子麻呂と共に、その〔入鹿〕の不意をついて、剣をもって入鹿の頭や肩を傷つけた。入鹿は驚いて立ちあがった。
中略
天皇はたいそう驚いて、中大兄に詔して、「分かりません。〔こんなことを〕するには、なにかあったのですか」といった。中大兄は、地に伏して奏〔言〕し、「鞍作は、皇族を滅し尽して、まさに天皇位を倒そうとしています。どうして天孫を鞍作に代えることができましょうか」といった。
中略
中大兄は、将軍巨勢徳陀臣をして、天地が開闢けた始めから、君臣〔の別〕があったことを、賊党に説かせ、どう赴むかをわからせようとした。
中略
十三日、蘇我臣蝦夷らが誅されるに臨んで、ことごとく天皇記、国記、珍宝を焼いた。船史恵尺は、すばやく焼かれている国記を取って、中大兄に奉献した。
中略
十四日、位を軽皇子〔孝徳〕に譲った。中大兄を立てて皇太子とした。

これらの記述をみれば、乙巳のクーデターが、中大兄主導で行われたと理解せざるを得ない。
『日本書紀』は、そのように記述している。
そして、私たちは、大化改新について、次のような見解を受容してきた。
①大化改新は中央主権国家の樹立を目指した中大兄によって断行された。
②改新後の孝徳政権は中大兄の傀儡政権である。

しかし、『日本書紀』の乙巳の変の記述には不可解なことが多い。
例えば、中村修也『偽りの大化改新 』講談社現代新書(0606)は、次の諸点を指摘している。

①中大兄は身を危険にさらしてまで入鹿殺害をはかったのに、どうして自分が即位しなかったのか。
②蘇我氏が倒されたのに、どうして皇極女帝は退位しなければならなかったのか。
③軽王子はどのような理由で大王に選ばれたのか。
④中大兄は王族なのに、どうして自ら殺害に加わったのか。
⑤蘇我倉山田石川麻呂は、同じ蘇我氏なのにどうして入鹿殺害に加担したのか。
⑥乙巳の変の際、中大兄の弟の大海人王子はなにをしていたのか。

乙巳の変の経過は詳しく記されているものの、その記事内容に多くの疑問や不可解な点があることも事実である。
『日本書紀』の編纂時期と乙巳の変の時期には時間の隔たりがあるから、正確性において問題があることは止むを得ないともいえる。
しかし、それだけ時間の隔たりがあるにしては、個別の出来事に関して、余りに詳しすぎるという気がすることも否定できないだろう。

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2008年3月19日 (水)

天智天皇…⑩系譜(ⅳ)義兄・古人大兄皇子(続)

古人大兄には、解釈に悩むような言葉が多い。
その第一は、蘇我入鹿が、山背大兄王を斑鳩に襲わせたときの言葉である。山背大兄が妃や子弟を連れて生駒山に隠れた際、山背大兄を山中に見たと聞いた入鹿が、高向国押に、「速やかに山に行って王を探し捕らえよ」と言ったのに対し、国押が「私は天皇の宮をお守りすべきですから、外には出られません」と答える。
それを受けて入鹿が自分で出かけようとするのに、古人大兄が「どこへ行くのか」と聞き、入鹿がわけを説いたのに対し、古人大兄は次のように言う(宇治谷孟現代語訳:日本書紀〈下〉 (講談社学術文庫)

「鼠は穴に隠れて生きているが、穴を失ったら死なねばならぬ」と(入鹿を鼠にたとえ、もし本拠を離れたらどんな難にあうかもしれないとの意か)。入鹿はこのために行くことを止めた。

訳者の宇治谷氏は、「鼠」は入鹿の譬えか、とコメントを付している。宇治谷氏が、コメントを加えているのは、そもそも意味がとり難いからであるが、宇治谷氏も断定を避けた表現である。
つまり、鼠=入鹿と決めつけ難いということである。
古人大兄と入鹿は、共に山背大兄という有力な皇族を討とうとする、いわば一心同体的な仲間である。
その仲間のことを、「穴に隠れて生きる鼠」というように譬えるのは、違和感を感じざるを得ない。
確かに、生駒山に隠れた山背大兄は、従ってきた三輪文屋君が、「東国に赴き、軍を起こして戦いましょう」と進言したのに対し、「お前の言うようにしたら勝てるだろう」と答えている。
だから、入鹿が本拠を離れたら危ういという判断はあり得たのだろう。しかし、それでも「鼠は穴に隠れて生きている」というのは、入鹿を指すのに相応しくないと思われる。
この場合、穴に隠れたと譬えられるのは、山背大兄の方であろう。
つまり、古人大兄は入鹿に対し、「もう山背大兄は、手中にあるようなものだから、慌てることはない」というようなニュアンスではないのだろうか。

古人大兄の謎の言葉の第二は、乙巳のクーデターの際の証言である。
入鹿が皇極天皇の眼前で斬殺されるのに立ち会って、古人大兄は次のようにいう(山田宗睦:日本書紀〈下〉 (教育社新書―原本現代訳) )。 

古人大兄は、〔始終を〕見て、私宮[邸]に走り入り、人に語って、「韓人が鞍作臣を殺した。(韓の政〔治〕によって誅〔殺〕されたのをいう。)吾の心は痛む」といった。すぐさま臥[寝]〔室〕内に入り、門を杜して出なかった。

山田氏は、「韓人が、鞍作臣を殺した」について、「この語をめぐって諸説があるが、『謂因韓政而誅』の注がついているのも、この語が難解のせいだろう。古人大兄のおびえはうかがえる」と訳注している。

遠山美都男氏は、『天智天皇』において、次のように言う。

この古人大兄の発言について、実際に朝鮮三国の使者たちが入鹿に斬りかかったことを意味しているとか、入鹿に手を下した中大兄らが当日は朝鮮三国の使者と同じ衣装をまとっていたことを指しているとか、種々の推測がなされているが、いずれも決め手を欠く。
『日本書紀』の『謂因韓政而誅』のコメントは、現場の緊迫感に欠け、後世の人間の解釈の域を出ていない。


遠山氏は、古人大兄の言葉を現場証言として考えると、当日現場に居た人間としては、蘇我倉山田石川麻呂が相当するのではないか、とする。

蘇我倉家は、宮廷のクラ(倉庫)の出納管理にあたる家業に即した独自の祖先系譜を創造しており、朝鮮三国からの貢納にも関与していた。

満智・韓子・高麗といった朝鮮三国と関係深い名前の先祖を系譜の中に嵌め込んでいたのであり、そのような蘇我氏の事情に通じた者であれば、麻呂のことを韓人と称したくなるところで、古人大兄は、母が馬子のむすめの法提郎媛だったから、蘇我氏の内部事情に詳しかった。
つまり、古人大兄は、蘇我倉山田石川麻呂を指して、「韓人」と言ったのだろう、というのが遠山氏の見解である。

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2008年3月18日 (火)

天智天皇…⑨系譜(ⅳ)義兄・古人大兄皇子

中大兄皇子の父・舒明天皇には、蘇我法提郎媛との間に古人大兄王子がいた。中大兄にとっては義兄である。
Photo宝王女(皇極・斉明)との間には、中大兄の弟として、大海人王子がいた。
舒明の兄弟については、詳しいことは分からないが、宝王女の父の茅渟王の存在が知られている。茅渟王は、軽王子(孝徳)の父でもある。
舒明崩御の時点で、図のA~Eの大王後継候補がいたことになる(中村修也『偽りの大化改新 』講談社現代新書(0606))。

この中で、大海人は、兄の中大兄がいるので、直接は候補になり難い。また、軽王子も、舒明の義弟なので、優先順位は低い。
宝王女の目から見ると、自分の子供の中大兄を大王位に就かせることを考えると、山背大兄と古人大兄が邪魔ということになる。
しかし、古人大兄は、蘇我馬子の娘を母としており、蝦夷の後ろ盾の中で即位した舒明のことを考えると、蘇我氏と対立するわけにはいかない。
山背大兄も、上宮家の長であるから、有力である。中大兄はまだ16歳である。

舒明の後継を宝王女とすることは、おそらく舒明の遺志でもあったのだろうが、宝王女自身が望んだことでもあっただろう。
自分が大王位に就けば、中大兄の成長を待って譲位する、というシナリオを実現する確率が高まるからである。
古人大兄の年齢は不詳であるが、中大兄よりは年長であった。しかしまだ20歳未満で、大王位に就くのが自然であるような年齢には達していなかったものと思われる。もし、古人大兄が大王位に就くのに妨げにならない年齢であったのなら、宝王女が即位するのは難しくなっていたであろう。
山背大兄は、年齢的には大王位に就く条件を満たしていた。しかし、宝王女、蘇我入鹿、軽王子の3人の思惑が、山背大兄の排除ということで一致した。
皇極2(643)年11月、山背大兄襲撃事件が起きて、山背大兄は自ら命を絶つ。

『日本書紀』は、山背大兄襲撃事件を、蘇我入鹿によるものとしているが、『藤氏家伝』では、入鹿は「諸王子と共に謀りて」という言葉がある。
この「諸王子」には誰が含まれていたか?
おそらくは、古人大兄、軽は参加していた可能性が高い。中村氏は、皇極女帝も謀議に加わっていたのではないか、というよりも、山背大兄襲撃の首謀者は、皇極ではないかと推測している(上掲書)。
それは、中大兄を大王位に就けたいという思いは当然のこととして、自分が王后としての地位を利用して大王に就いたことの後ろめたさもあったのではないか、ということである。

古人大兄は、乙巳のクーデターの後で、皇極が中大兄に大王位を譲ろうとした際に、中大兄が中臣鎌足に相談したとき、中臣鎌足に「中大兄の兄である古人大兄をさしおいて大王位に就くべきではない。(だから)叔父の軽(孝徳)を立てるべきだ」と言わしめている。
つまり、乙巳のクーデター時点では、古人大兄は、中大兄よりも大王位継承順位が高かったのである。
古人大兄は、クーデターの後、皇極天皇が譲位の意思表示をすると、王位継承資格を放棄するために出家した。
遠山美都男氏は、古人大兄もクーデター派の作戦目標に入っていたので、クーデター派の面前で出家という形で降伏を表明した、とする(前掲書)。

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2008年3月17日 (月)

天智天皇…⑧系譜(ⅲ)妹・間人皇女

『日本書紀』は、大海人皇子と中大兄皇子を同父同母の兄弟とするが、舒明と宝皇女(皇極・斉明)の間には、もう一人子どもがいる。
孝徳の皇后となる間人皇女である。『日本書紀』は、以下のように記している。

皇極天皇の四年を改めて大化元年とした。大化元年秋七月二日、舒明天皇の女(ムスメ)、間人皇女を立てて皇后とした。二人の妃を立てた。第一の妃は阿倍倉梯麻呂大臣の女で小足媛という。有間皇子を生んだ。第二の妃は蘇我山田石川麻呂の女で乳娘といった。

孝徳と間人皇女は、叔父と姪の関係である。中大兄が、「倭の京に遷りたいと思います」と奏上したとき、孝徳天皇はこれを許さなかったが、中大兄は、皇極上皇・間人皇后・大海人皇子らを率いて、倭の飛鳥河辺行宮に遷ってしまった。
間人皇后まで、中大兄に従って飛鳥に遷ってしまったことは、孝徳にとっては大きな打撃であった。
宮を山碕(京都府大山崎)に造らせ、間人皇后に次の歌を送ったという。

カナキツケ、アガカフコマハ、ヒキデセズ、アガカフコマヲ、ヒトミツラムカ
鉗(馬がにげないように首にはめておく木)をつけて、私が飼っている馬は、厩から引出しもせずに、大切に飼っていたのに、どうして他人が親しく見知るようになりつれ去ったのだろう。

この歌の「コマ」は間人を譬喩している。古代において、「見る」は、男女の仲らいの成り立つことを意味する。「人」は、いうまでもなく中大兄である(中西進『天智伝』中央公論社(7506))。
つまり、中大兄と間人皇女とが近親相姦の関係にあった、とする見解が有力である。しかし、実際どうであったか、などは当時ですら分かりようもないだろう。
しかし、孝徳はそう思ったのであり、それが孝徳にとっては衝撃で、皇位を擲つことすら考えたであろう。結果的に、孝徳は翌年に崩御してしまう。
中西進の前掲書は、新政策の施行、古人大兄の謀反平定、新都の造営など課題山積している中大兄が、石川麻呂事件で無実の忠臣を殺してしまったことで心にひび割れが生じ、そのひびを塞ぐ役割を担っていたのが間人皇女だった、と推測している。

それはともかくとして、遠山美都男『天智天皇』PHP新書(9902)は、間人皇女が、中大兄の即位に関して重要な役割を果たした、とする。
中大兄が、なかなか即位の式を挙げなかったことについては、色々な意見があるが、遠山氏は、中大兄は事実上の天皇であったから、即位礼は、それを形式的に完成させる手続きであった、とする。
形式的に完成させる、というのは、女性天皇から譲位をうけて即位する、という形式を踏まえるということである。
中大兄は、斉明から譲位を受ける形を想定していたが、斉明の急逝で叶わなくなった。

そこで、中大兄は妹の間人皇女を斉明の代役に起用しようと考えた。間人皇女は孝徳天皇の大后だから、斉明と同様の立場と考えることができる。
中大兄は間人皇女の葬礼を主宰、2年近くにわたって継続し、667年に終了した。
中大兄が近江の大津宮に遷ったのは、その翌月のことである。
これを、中大兄は、斉明に代わって間人から譲位を受ける、という形式をとって即位したと見るわけである。

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2008年3月16日 (日)

天智天皇…⑦系譜(ⅱ)母・皇極(斉明)天皇(続)

皇極が即位したのは、舒明の大后であったからであるが、それは舒明の遺志であったと考えられる。
推古の次期大王は、田村皇子(舒明)と山背大兄皇子の間で争われ、田村皇子が大王位に就いて、山背大兄は、大兄としてさらに次期大王の最有力候補者として位置づけられた。
とすれば、舒明亡き後は、山背大兄が最有力だったのではなかろうか?

Photoにもかかわらず、大后の宝皇女が皇極天皇として即位したのは、推古死去の際に山背大兄が自分の後継としての地位を強引に主張したことに対する反発もあったと考えられる。
そして、舒明在位の間に世代交代も進んでいた。舒明と山背大兄は、欽明の曾孫世代であるが、次の玄孫世代も成長しつつあった。
舒明崩御の時点では、曾孫世代の山背大兄、舒明の大后・宝皇女の同母弟の軽皇子、玄孫世代の古人大兄らが有力候補者だった。
これらの候補者の間の争いを避けるためには、推古天皇の例に倣って、大后が即位するという方法論が選ばれた(遠山美都男氏『天智天皇』PHP新書(9902))。

推古女帝から舒明天皇を経て皇極女帝に移る間に、蘇我氏は馬子から蝦夷・入鹿に世代交代し、大兄も山背から古人に変わった。
『日本書紀』には次のようにある。

(皇極2年10月)六日、蘇我大臣蝦夷は病のため登朝しなかった。ひそかに紫冠を子の入鹿に授けて大臣の位になぞらえた。またその弟をよんで物部大臣といった。大臣の祖母(馬子の妻)は物部部弓削大連(守屋)の妹である。母方の財力によって、世に勢威を張ったのである。
十二日、蘇我大臣入鹿は独断で上宮(聖徳太子)の王たち(山背大兄王)を廃して、古人大兄(舒明天皇の皇子、母は蘇我馬子の女)を天皇にしようと企てた。

そして、11月1日にはそれを具体化する。

蘇我入鹿は小徳巨勢徳太臣、大仁土師娑婆連を遣わして、山背大兄王らを不意に斑鳩に襲わせた。--ある本には巨勢徳太臣・倭馬飼首を軍の将軍としたとある。

この後、乙巳の変が起き、蘇我本宗家は滅亡し、皇極の弟の軽皇子が即位して孝徳天皇になり、約10年の治世を経て、皇極は重祚して斉明天皇となる。
皇極時代と斉明時代との違いとして、飛鳥岡本宮に、大兄として葛城皇子(中大兄)の存在がある。この皇子が大兄に立てられたのは、『日本書紀』は軽皇子の政権成立時であったとするが、前大兄の古人大兄の滅亡事件(645年11月)のあとか、有間皇子謀殺事件(658年11月)のあととみる可能性もある(『女帝の世紀』毎日新聞社(7811))。

皇極・斉明女帝は、司祭者としてのすぐれた権能を持っていた。皇極元年の夏は日照りが続いた。

八月一日、天皇は南淵(明日香村)の川上においでになり、跪いて四方を拝し、天を仰いで祈られると、雷鳴がして大雨が降った。雨は五日間続いて、天下は等しくうるおった。国中の百姓は皆喜んで、「この上もない徳をお持ちの天皇である」といった。

この女帝の権能は、伊勢大神への斎の皇女の派遣がないことからも裏付けられる。
つまり、女帝は、日の神も水の神も、つまり天の神を司祭し、その神霊を発揚させる権能の体現者であった(上掲書)。
斉明女帝は659年、遣唐使を送った。また、これに先立って、粛慎、蝦夷に軍隊を送っている。つまり単なる巫女敵な伝統や内政ばかりでなく、外交や軍事についても権力を体現していた。
そして、新羅・唐の圧迫に苦しむ百済を救援するために、661年には、みずから軍隊を率いて難波津から筑紫に進んだ。
斉明女帝は、日(太陽=農業)神に加え、軍神、海神の司祭を集中したものであった。政治の根本に存続していた祭祀権を集中した存在だった。

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2008年3月15日 (土)

天智天皇…⑥系譜(ⅱ)母・皇極(斉明)天皇

欽明天皇からみて、推古天皇は子の世代、厩戸皇子らは孫の世代、ということになる(系図は、遠山美都男『天智天皇』PHP新書(9902))。
Photo_3厩戸皇子が亡くなると、孫の世代の大王候補者がいなくなり、大王位にノミネートされる人物は次の曾孫の世代に移る。
田村皇子(舒明天皇)は、そのトップランナーだった。しかし、配偶者に王族出身者がいないことが、田村皇子のネックだった。
大王の后は、単なる妻の座ということでなく、大王と共に執政に関与するポストとして認識されていたから、王族の中から選ばれることになっていた。

舒明が大王(天皇)位に就くためには、王族の妻が必要であった。そこで選ばれたのが、宝皇女であった。
宝皇女は、押坂彦人大兄の子の茅淳王と吉備姫王との間の子であった。同父母の弟が、軽皇子(後の孝徳天皇)である。
宝皇女は、舒明と結ばれる前に、高向王と結婚していた。
高向王は、用明天皇の孫とされる。高向王と宝皇女との間には、漢皇子という子供がいた。
漢皇子の消息はよく分からない。

天智と天武が非兄弟であった、と考える論の中に、漢皇子が大海人皇子(天武)ではないか、とする説がある。
『日本書紀』の記述とは異なって、天武が天智より年長だとする説を採るとすると、天智の異父兄にあたる漢皇子は、魅力的な位置にある。
舒明と宝皇女は押坂彦人大兄の子供(舒明)と子供の子供(宝皇女)であって、舒明からみれば宝皇女は姪にあたる。
高向王がどのような人物であったかにもよるであろうが、舒明が既に結婚していた宝皇女を妻としたことには、政略的な背景があったと考えるのが妥当であろう。

舒明崩御の後は、宝皇女が即位して、皇極天皇になった。
その皇極天皇の面前で、乙巳のクーデターが実行されたのだった。
皇極は軽皇子(孝徳)に譲位するが、孝徳崩御後にもう一度皇位に復帰して斉明天皇となる。初の重祚である。
『日本書紀』は、舒明の殯の様子を次のように記す。

舒明)十三年冬十月九日、天皇は百済宮で崩御された。十八日、宮の北に殯宮を設けた。これを百済の大殯という。この時、東宮の開別皇子(のちの天智天皇)は十六歳で誄をよまれた。

このとき、中大兄は、舒明の子供の中で別格で誄をよんだのか、大勢の中の一人として誄をしたのか?
『日本書紀』は、何となく中大兄が別格だったという雰囲気であるが、遠山氏は、それは後に皇太子に立てられたりしたことを踏まえた造作である、としている。

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