高市即位論(ⅱ)…関裕二説
『万葉集』に、柿本人麻呂が高市皇子を悼む歌がある。
149句に及ぶ異例の長さであり、『万葉集』中の最長の歌として知られる。
前半は、壬申の乱での活躍ぶりを讃え、後半は死を悼む挽歌である。
高市皇子尊の城上の殯宮の時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首並に短歌
0199 かけまくも ゆゆしきかも……しかれども わが大王の 萬代と 思ほしめして作らしし 香具山の宮 萬代に 過ぎむと思へや 天のごと ふり放さけ見つつ 玉だすき かけて偲ばむ 恐かれども
<参考訳>
言葉にするのも慎みたく、言うこともまことに恐れ多い。……しかしながら、わが高市皇子が、万代までもと念(おも)って作られた香具山の宮殿が、永久に朽ち果てることがあると思うか。天を仰ぐようにふりかえり仰いで見ながら、心にかけてお偲びしよう。恐れ多いことだが。(http://sylphid.exblog.jp/2892484/#2892484_1)
「香具山の宮」とは、藤原宮のことである。
人麻呂は、「わが大王」=高市皇子は、永遠の都と考えて藤原宮を作らせた、と歌っている。
しかし、藤原宮を作らせたのは、持統天皇だったのではないのか?
また、「わが大王」という表現は、天皇に対しても、皇子に対しても使うが、この場合は天皇の意味として使われているのではないか?
というのは、上記の引用の前に、天武のことを表現した次の句がある。
神さぶと 岩隠ります やすみしし わが大君の
<参考訳>
神々しくお鎮まりになっている天皇(天武)の
つまり、天武についても同じように「大王」と表現されていて、差がない。
平城京の長屋王の邸宅跡から、「長屋親王王宮大鰒十編」と墨書された木簡が出土したことは前記したが、関氏によれば、『日本霊異記』にも「長屋親王」とある(『謎の女帝・持統』)。
長屋王が、なぜ長屋親王と呼ばれたのか?
一つの考え方は、長屋王が特別扱いをされた、ということである。
霊亀元(715)年2月に、長屋王の室・吉備内親王所生の男女は皇孫の列に入れるという勅が出されている。
その父の長屋王は、子が皇孫に入れられたことから、「親王」の称号を与えられたのではないか。
しかし、関氏は、『続日本紀』はそのことを記していない。
『続日本紀』は、長屋王が冤罪で殺されたことを認めていながら、「親王」の「親」の字を消しているのである。
『続日本紀』は、長屋王が謀反の廉で密告されるのを次のように記す(宇治谷孟現代語訳)。
(天平元年)
二月十日 左京の住人である従七位下の漆部造君足と、無位の中臣宮処連東人らが「左大臣・正ニ位の長屋王は秘に左道(邪道。ここでは妖術)を学び国家(天皇)を倒そうとしています」と密告した。天皇はその夜、使いを遣わして三関(鈴鹿・不破・愛発)を固く守らせた。またこのため式部卿・従三位の藤原朝臣宇合・衛門佐の従五位下の佐味朝臣虫麻呂・左衛士佐の外従五位下の津嶋朝臣家道・右衛門士佐の外従五位下の紀朝臣佐比物らを遣わして、六衛府の兵士を引率して長屋王の邸を包囲させた。
「左道を学び」というのは、ほとんど言いがかりに過ぎない。
一方で、長屋王の邸を包囲する行動は、迅速である。
やはり、長屋王は親王であって、藤原氏の謀略の犠牲者だったと考える方が自然だろう。
高市皇子が亡くなったとき、持統天皇は群臣を集めて皇太子の問題を論議させたが、「衆議粉紜」でなかなか決まらなかった。
そのとき葛野王が次のように発言したと『懐風藻』に記されている(07年9月11日の項)。
我が国家の法たるや、神代より以来、子孫相承けて天位(皇位)を襲(ツ)げり。もし兄弟相及ぼさば則ち乱これより興らん。……然して人事を以ちて推さば、聖嗣自然に定まれり。この外に誰か敢えて間然せんや。
日本では古来から直系相続が行われており、兄弟相続は争いのもとになる、というような意味である。
葛野王は天武の皇子が立太子することを非難しているのであるが、持統にとっては義理の息子たちが立太子することは兄弟相続ということにはならない。
しかし、(持統は皇太后で)高市皇子が天皇だったとすれば、葛野王が兄弟相続を非難したことの意味が理解できる。
『日本書紀』は、持統十年七月の条に、「庚戌に、後皇子尊薨せましぬ」と書くだけであるが、『万葉集』や『懐風藻』からは、高市が即位していたニュアンスが覗われることは否定できない。
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