白鳳年号について
長々と、砂川恵伸氏の著作を紹介してきた。
それは、砂川氏の見解によって、謎の多い古代史分野に関して、かなり見通しが良くなるのではないか、と思われたことによる。
そして、それは通説的な理解とはかなり隔たりのあるものだからである。
第一に、砂川氏は、古田武彦氏の九州王朝説を基盤にしている。
現時点では、大勢的には、九州王朝説は学説としての扱いを受けていないのだろう。砂川氏も述べているように、古田武彦氏の九州王朝説は、以下の諸点で大きな説得力を持っている(08年1月18日の項)。
①従来の近畿天皇家一元史観では、誰に比定してもしっくりこない「倭の五王」問題。
②隋書には、七世紀初頭の倭国に君臨した「阿毎足利思比(北)孤」という王者が記載されているが、近畿天皇家による日本側文献にはそのような王者は存在しないこと。
③白鳳・朱雀を初めとする多くの逸年号・九州年号といわれる不思議な年号の存在。
そして、砂川氏は、『古事記』と『日本書紀』における「歳次干支」の用法を検討し、大海人皇子が九州王朝の皇子であった、という視点を導入することによって、天智と天武の関係について、新たな見方を提示した。
①天智と天武は非兄弟である。従って、壬申の乱は、易姓(革命的)である(08年1月23日の項)
②天智は天武に暗殺された可能性が高い。井沢元彦氏の説は首肯できる要素が多い(08年1月27日の項)
③天武は天智の怨霊を恐れていた(08年2月13日の項)
そして、持統と高市の関係について検討して、次のような帰結を示した。
①持統は即位していなかった(08年2月1日の項)
②大津を処刑に追い込み、草壁を攻め滅ぼしたのは高市であり、高市は即位していた可能性が高い(08年2月7日の項)
さらには、大海人皇子が、白村江の大敗後の危機的状況において、筑紫から近畿大和へ多人数で移ったことにより、「上代特殊仮名遣い」が消滅した(08年2月10日の項)。
また、従来曖昧で意味の良く分からなかった「朱鳥改元」についても、合理的な解釈をすることができた(08年1月25日の項)。
上記の知見は、目から鱗が落ちる類のものではないか、と思う。
砂川氏の著作は、歳次干支を厳密に検討する作業においてクリティカルであるし、その結果として得られたものはきわめてクリエイティブなものだと思う。
まさに思考技術(コンセプチュアル・スキル)の好事例だと思う(07年11月22日の項)。
それでは、砂川氏は「白鳳」についてはどう解釈しているのだろうか?
残念ながら、「朱鳥」については触れているが、「白鳳」について直接触れている箇所はない。
しかし、九州王朝説の立場に立っており、朱鳥改元を「九州王朝の太子が即位した年」と推論していることからすれば、「白鳳」についても、九州王朝の年号と考えているものと想定される。
もう一度、「白鳳」の年号が使われたとされる時代(08年1月12日の項)の事象をピックアップしてみよう。
・661年(白鳳元):斉明7、天智即位(称制)
・663年(白鳳03):白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に大敗
・667年(白鳳07):近江国の大津へ遷都
・668年(白鳳08):中大兄皇子が即位し、第38代天智天皇となる
・671年(白鳳11):第39代弘文天皇(大友皇子)が即位
・672年(白鳳12):天智天皇没/壬申の乱/第40代天武天皇即位/飛鳥浄御原宮に遷る
・683年(白鳳23):軽皇子(第42代文武天皇)生誕
砂川氏の言うように、大海人皇子が九州王朝の皇子であり、近畿大和に移って、武力により権力を奪取し天皇位についたとしよう。
文武天皇が、大宝の年号を建てるまでの間、九州王朝は余命を保っており、年号発布の権力も失っていなかったということになる。
しかし、白村江の敗北で大海人皇子が近畿大和に移らざるを得なかったのであるから、九州王朝の実態は火の車だったというべきだろう。
「白鳳」がかくも長期に渡っているのは、九州王朝の余裕のなさの反映なのであろうか。
近畿大和の天皇家による年号が連続するのは、文武天皇の大宝以降(元年=701年)である。
それ以前は、即位していなかった可能性のある持統は別としても、即位した天武や即位していた可能性のある高市といえども、九州王朝とは別に年号を発布することはできなかった、ということなのであろうか。
「白鳳」という時代は、文化史としては著名であるが、その歴史の実像は、未だ霧の中にあるように感じられる。
もっと多面的なアプローチを総合して考えることが必要なのだろうと思う。
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