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2008年2月 6日 (水)

文武の父は?…砂川史学⑭

砂川氏の推論のように、草壁皇子が18歳(満年齢で16歳10月)で亡くなったとすると、文武の父は誰だったのか?

宇治谷孟現代語訳『続日本紀〈上〉』講談社学術文庫(9206)の元明即位前紀に以下の記述がある。

元明天皇は、幼名阿閉皇女、天智天皇の第四皇女である。母は宗我嬪といい、蘇我山田石川麻呂大臣の娘である。日並知皇子(天武天皇の子、草壁)にとつぎ文武天皇を産まれた。慶雲三年十一月、文武天皇は病に陥り、始めて母に位を譲る気になられたが、天皇(元明)は謙譲の心で固辞して、受けられなかった。慶雲四年六月、文武天皇は崩御された。

この記述に従う限り、文武の父が草壁であることは疑う余地がない。
しかし、草壁は妃を迎えるような年齢に達する前に亡くなった。
砂川氏は、元明の誕生年を以下のように推測する。
『続日本紀』における元正紀・養老五年十二月条に、以下の記載がある(上掲書)。

十二月六日、太上天皇が重体となられ、天下に大赦を行ない、京中の諸寺で経典の転読を行わせた。
十二月七日、平城宮の中安殿で太上天皇は崩御された。時に御年六十一歳であった。

養老五年は、721年の辛酉であり、元明天皇は、661年の辛酉年(斉明7年)に生まれたことになる。
2_2鸕野讃良皇女(持統)は辛亥年の生まれだから、元明は持統の10歳下の妹ということになる。
草壁皇子は壬申年の生まれだと推測されるから、元明は草壁の11歳年上となる。
16歳の草壁との間に、27歳の元明(阿閉皇女)が、子供を設けていたというのは考え難いだろう。
元明天皇が亡くなって葬られる時に、草壁皇子の墓に合葬されていない。それを不審とする説がある。
しかし、元明(阿閉皇女)が草壁の妃でなかったとすれば、合葬されないのは当然である。

とすると、阿閉皇女の夫は誰だったのか?
軽皇子(文武天皇)の父は誰なのか?
つまり、図の「?」が誰であるのか、である。
子供が天皇になるのに不自然ではないのは誰か?

天武の皇子の中の誰か、という可能性が最も高い。
草壁と大津ではない誰かである。
壬申の乱の時に、文武の母の元明(阿閉皇女)は12歳であった。
高市皇子は29歳で、図の「?」として相応しいのは、高市皇子ではないのか?

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