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2008年2月10日 (日)

上代特殊仮名遣いの消滅…砂川史学⑯

奈良時代には、清音60音と濁音27音の計87音が存在した。
さらに、『古事記』においては、「も」も二種類に書き分けられており、『古事記』が撰録された712年頃までは、88音の区別が存在したと考えられる。
そして平安時代の文献・資料等について検討すると、甲・乙の別が失われ、68音へと20音が消滅した。
奈良時代の84年の間に、20音が消滅するという音韻上の大変化が起きたことになる。
この事実をどう解釈するか?

砂川恵伸氏は、それを「大海人皇子が九州王朝の皇子だった」という視点から説明する。
砂川氏は、古田武彦氏の論証に基づき、7世紀末まで、倭国を代表する権力は、九州王朝だったとする。
その九州王朝の言葉は、早くから中国語あるいは朝鮮語の影響を受け、倭人語の中で、早い時期から音韻変化を生じていた。
これに対し、近畿地方は、7世紀後半までは倭国の一地方に過ぎず、中国語・朝鮮語にさらされる機会は少なかった。
つまり、近畿地方の言葉は、7世紀末葉まで、倭人語の古型を保持し、それが『古事記』にみられる88の音韻であった。

白村江の戦いにおいて、倭・百済連合軍は、唐・新羅連合軍に、壊滅的な大敗北を喫した。
その倭国の本体は九州王朝であり、筑紫に留まっていた大海人皇子は、唐・新羅連合軍が、一挙に攻め寄せてくるかも知れない、と想定せざるを得なかった。
そこで、大海人皇子は、残存していた部隊をまとめて、近畿大和に移動した。
唐・新羅連合軍を、筑紫でなく、近畿大和でなら迎え撃つこともできるだろう。

大海人皇子は、かなりの人数を率いて筑紫から近畿大和へ移ったと考えられる。
それが、近畿地方の音韻を大きく変える原因となった。
大海人皇子が連れてきた人たちは、天武朝において、さまざまな部署の主要な位置についたと考えられる。
倭人語としての古型を留めていた大和語は、天武朝の頃から変化しだし、奈良時代に変化がはっきりした。
大海人皇子は、音韻を変える程の勢力を率いて近畿入りしたから、壬申の乱に勝利することができたとも見ることができる。

『古事記』に見られる「も」の書き分けが、8年後の『日本書紀』において失われているのは何故か?
『古事記』の撰録者である太安万侶は、1979(昭和54)年に発見された墓誌によれば、癸亥年が没年齢であるが、この癸亥は723年である。
没年齢すなわち生年は不明であるが、没年齢を60歳と仮定すれば、壬申の乱の年には9歳だったことになり、近畿大和の出身であるならば、88音の音韻を聞き分けて育ったことになる。
一方、『日本書紀』の編纂の主宰者である舎人親王は、天武天皇の皇子である。
九州筑後出身の天武には、「も」の使い分けができなかっただろう。子供の舎人親王も同様であり、それが『古事記』と『日本書紀』のわずか8年の間に、「も」の使い分けが消失した理由だと考えられる。

奈良時代を通じて、支配者である天武一族の筑紫なまり、甲・乙の区別のない言葉が、優位を占めるようになった。
その結果、平安朝に入る頃には、甲・乙の音韻は統合されて、一音になった。
つまり、九州王朝の皇子だった大海人皇子が、白村江の大敗後に近畿大和に移動したことが、「上代特殊仮名遣い」を消滅させたのである。

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コメント

8年後には変化したというのはあまりにもおかしいでしょう
古事記が712年とするならその歴史記述をする人がそんな短期間で変わるとは思えません。日本紀は続日本紀、万葉集にあるように720年であれば、日本書紀は819年頃形成という考証がありますから音韻変化があるとするならむしろ平安初期とする方に適合するものと思います。山部政権の系譜に都合よく作られていることを初めとして、評制をすっかり忘れていること、大化の改新の内容改竄などからしても遠い昔にあったことだったからと思わせるものです。

投稿: 思路 河辺 | 2019年8月 6日 (火) 19時19分

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