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2008年2月 5日 (火)

天武崩御時の三皇子…砂川史学⑬

『日本書紀』の天武元年六月条に、高市皇子に関して、以下のような記述がある。

(丙戌:26日)
是に、天皇、雄依が務しきことを美めて、既に郡家に到りて、先ず高市皇子を不破に遣して、軍事を監しむ。
(丁亥:27日)
爰(ココ)に天皇誉めて手を携りて背を撫でて曰はく、「慎め、不可怠」とのたまふ。因りて鞍馬を賜ひて、悉くに軍事を授けたまふ。
(己丑:29日)
天皇、和蹔に往でまして、高市皇子に命して、軍衆に号令したまふ。

丁亥の言葉は、大海人皇子が、近江の朝廷には左右の大臣や智略にすぐれた群臣がいるけれど、自分には幼少の者がいるばかりで、事を謀る人間がいない、と高市皇子に嘆いたのに対し、高市皇子が、近江に群臣があろうとも、自分が勅命を受けて戦えば、敵は防ぐことができないでしょう、と答えたことに対する大海人皇子の言葉である。
これらの記述からは、高市皇子が大海人皇子に任された軍の指揮に、十分応えていることが窺われる。
この時、高市皇子は何歳だったか?

坂本太郎他校注のワイド版岩波文庫では、丁亥の日に大海人が自分には幼少の者しかいない、と嘆いたとき、「最年長の高市皇子でさえ、この時十九歳と推定される」と注釈されている。
『日本書紀』では天武の没年が何歳だったのか不明であるが、『一代要記』や『本朝皇胤紹運録』などに記されている65歳を正しいとすると、天武の没年は天武15(西暦686)年の丙戌年だから、誕生年は壬午年で、壬申年には51歳だったことになる。

天武(大海人皇子)が最初の妃を娶ったのが20歳の頃だとする。額田王である。
天武の第一子の十市皇女は、天武21歳の頃の生まれであり、高市皇子は十市皇子とは異母姉弟であるが、天武23歳の頃の子と推定される。
天武の誕生年を壬午年とすれば、23歳は甲辰年で、高市皇子は、壬申年には29歳ということになる。

草壁皇子が壬申年の生まれだとすれば、天武の没年には15歳だった。
大津皇子が壬戌年の生まれたとすれば、天武の没年には25歳だった。
25歳の大津をさしおいて、15歳の草壁を即位させるわけにいかないだろう。
そのために、皇后の鸕野讃良皇女(持統)が、大津皇子を「謀反の廉」で亡き者にした。
しかし、15歳の草壁皇子をそのまま即位させるわけにはいかなかっただろう。
高市皇子は、坂本太郎他校注のように、壬申年に19歳だったとしても、天武没年には33or34歳になっており、壬申の乱においても立派な活躍をしている。
鸕野讃良皇女としては、草壁を天皇にするためには、草壁が成人するまでの期間を、自分が頑張らなければならない事情があったことになる。

草壁皇子の誕生年を、『日本書紀』に記載されている通りに、天智元年の壬戌年とすると、天武没年には25歳であり、翌年の踰年には26歳になるから、皇太子に指名されていたことも含めて考えれば、即位に支障があるとは考えられない。
にもかかわらず、鸕野讃良皇女が称制して実権を握った。
関裕二氏は、『謎の女帝・持統』ベスト新書(0202)で、吉野裕子『持統天皇』人文書院(8712)の、鸕野皇女の大津・草壁殺害説を引用するが、それではやはり異常すぎるのではないか。

草壁皇子が、天武没年には15歳であり、18歳(満年齢で16歳10月)で亡くなったとする砂川氏の推論であれば、鸕野皇女の行動も不自然ではなくなる。
砂川氏は、草壁皇子が亡くなった時、鸕野皇女は、大きな挫折感に見舞われ、生きる意欲すら失うほどだっただろうと推測する。
草壁を即位させるための称制位からも降りてしまったのではないか。
『日本書紀』が、鸕野讃良皇女が天皇に即位したとする庚寅年に、逆に称制位から降りたのではないか。

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