草壁皇子と大津皇子…砂川史学⑪
『日本書紀』の持統天皇即位前紀に、草壁皇子の生誕記事がある。
天命開別天皇の元年に、草壁皇子尊を大津宮に生れます。
砂川氏の推論のように、斉明七年の一月には大海人皇子は筑紫におり、三月二十五日以降は大田皇女が筑紫にいたとする。
唐・新羅連合軍との戦いの前線である筑紫に、妃を二人も三人も呼び寄せられるものであろうか?
つまり、鸕野讃良皇女(持統)は、筑紫にいなかったのではないか。
とすれば、天智元年に草壁皇子が生まれたとする記事は、疑ってみる必要がある。
『万葉集』の次の歌は、額田王の秀作として有名である。
0008 熟田津に船乗せむと月待てば潮もかなひぬ今はこぎ出でな
この歌には次のような左注が記されていて、その解釈を巡って論議がある。
右は、山上憶良大夫の類聚歌林を検するに曰く、飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑、九年丁酉十二月朔壬午、天皇と、大后と、伊豫の湯の宮に幸しき。後岡本馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅、御船西に征き、始めて海路に就きたまひき。庚戌、御船伊豫熟田津の石湯の行宮に泊てき。天皇、昔日より猶存れる物を御覧して、當時忽に感憂の情を起したまひき。このゆゑに歌詠を製りて哀傷みたまひきといへり。すなはちこの歌は、天皇の御製なり。但、額田王の歌は別に四首あり。
「額田王の歌は四首あり」とあるが、『万葉集』には、次の0009に額田王の作れる歌が一首と続けて中皇命の歌が三首掲げられている。
つまり、上記の左注の意味が良く分からないのである。
加えて、0009の歌は、未だに訓が定まっていない難解な歌としても有名である。
この歌を、左注の文章を素直に解釈して、斉明天皇の作った歌だとすれば、斉明の一行は、難波を出発した二日後に大田皇女の出産のために、岡山県の邑久に滞在し、その後伊豫の熟田津に立ち寄り、石湯で静養して、筑紫に向けて出発した。
『日本書紀』の斉明七年条に、「三月の丙申の朔庚申に、御船、還りて娜大津に至る」とあるから、大田皇女は大海人皇子と再会を果たしたことになる。
この年の七月に、斉明は崩御する。
そして、翌年が天智(称制)元年である。
つまり、大田皇女は、早ければ天智元年には娜大津で子供を生む可能性がある。
とすれば、662年の壬戌年に生まれたのは、名前からしても大津皇子ではないのか?
『日本書紀』の天武元年の六月条に、天武が東国に脱出するに際し、皇后(鸕野讃良皇女)を輿に載せた、という記事がある。
皇后は、なぜ輿に載せて運ばなければならなかったのか?
砂川氏は、この時皇后は妊娠していた。そして、「屋一間を焚きて、寒いたる者を熅しむ」とあるのは、皇后が出産したことを意味していると解釈している。
「寒いたる者」とは、お産をすませた皇后・鸕野讃良皇女のことであるというわけである。
さらに、この時生まれたのが、草壁皇子ではないのか、というのが砂川氏の推測である。
つまり、『日本書紀』の記述と異なり、草壁皇子は壬申の年に生まれた。
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