薬師寺論争…①「白鳳」か「天平」か
小学館版「古寺を巡る」シリーズの第8巻が『薬師寺』(0803)である。
その表紙には、「白鳳の光輝を放つ癒しの世界」という言葉が添えられている。本文にも、全景の写真(写真は、いずれも薬師寺公式サイトから。構図と雲の形から、「古寺を巡る」の全景の写真と公式サイトの写真は同一のものであることがわかる)に添えて、以下の文が載っている。
白鳳伽藍の佇まい
右手前から東塔、金堂、西塔、金堂の後に大講堂が並び、それらを回廊と中門がとりまく。右奥は東僧坊。平城京に移転した当時の建築は東塔のみで、1976(昭和51)年の金堂再建をはじめとし、現在まで白鳳伽藍の再建が進められている。金堂の前に東西ふたつの塔が建ち、金堂の後ろに講堂が建つ伽藍形式は「薬師寺式伽藍」とよばれる。薬師寺は1998(平成10)年に「古都奈良の文化財」として、ユネスコの世界遺産に登録された。
この解説文のタイトルが示すように、飛鳥の法隆寺、天平の東大寺と対比され、白鳳を代表する寺が薬師寺であるとされてきた。明治期に、平城期築造の現存する東塔の「水煙」を、お雇い外国人の東洋美術史家・アーネスト・フェノロサが「凍れる音楽」と評したという話が有名である。
もっとも、「凍れる音楽」の解釈を巡り、あるいはフェノロサが言った言葉なのかどうか、などについては議論があるらしいが……。
薬師寺は、天武8(680)年に、鸕(ウ)野皇后(のちの持統天皇)の病気が治癒することを祈願して、天武天皇によりその造営が決意された。
皇后の病気は間もなく回復したが、天武天皇は、寺の完成をみないで亡くなった。
この薬師寺は、現在の奈良の西の京ではなく、藤原宮にほど近い飛鳥川西岸だった。現在の橿原市木殿である。
現在の薬師寺と区別して、「本薬師寺」と呼ばれる。
本薬師寺跡には、金堂と東西の塔の礎石が残されている。
文武天皇の死後、母の元明天皇が即位し、3年後の710(和銅3)年に、都が平城京に移された。
それに伴って、旧都にあった諸大寺は新京に移された。
『縁起』によれば、薬師寺も、718(養老2)年に、いまの地に移された。
諸寺は、もとの寺を旧都に残して、新都で新しく造営されたと考えられる。
しかし、薬師寺は、本薬師寺の礎石の状況からして、新旧の平面の形式や規模がまったく同じであることから、すべての建物から仏像まで、新しい薬師寺に移されたのだろう、とする説が生まれた。
つまり、「移建」「移坐」説である。
そして、『薬師寺縁起』には、金堂の本尊を、「持統天皇の奉造」とある。
しかし、天平の末ごろまで、本薬師寺が寺として残されていたという記録、東塔が730(天平2)年に建てられたという記録があり、金堂三尊の様式を天平様式する見方がある。
東塔や金堂三尊はもとの寺から移されたものではない、とする「非移建」「非移坐」説である。
「移建・移坐」ならば、東塔は、文武天皇の時に建てられたものの移建であり、金堂三尊は、持統天皇の時に造られたものの移坐である。
非移建ならば、両者とも平城京遷都後のものということになる。
文化史・美術史では、平城京遷都までを「白鳳」、遷都後を「天平」といっているので、「移建・移坐」か「非移建・非移坐」の問題は、「白鳳」か「天平」か、という問題であり、美術史の様式をどう捉えるかという問題になる。
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