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2008年2月 7日 (木)

高市即位論(ⅰ)…砂川史学⑮

1988年に、長屋王の邸宅跡から、「長屋親王王宮大鰒十編」と墨書された木簡が出土した。
「親王」という呼称は、「天皇の兄弟か、あるいは天皇の男の子」を指す。
長屋親王と墨書された木簡が出土している以上、長屋王の父親は、天皇だったということになる。
つまり、高市皇子は天皇だったはずである。
しかし、現在の通説では、高市皇子は天皇だったとは認められてない。

砂川氏の論においては、高市皇子は、大海人皇子(天武天皇)が、九州王朝の皇子として、筑紫にいた時に生まれた子供である。
663年(癸亥)の倭・百済連合軍の白村江での大敗後、筑紫から近畿大和に逃れてきた。
九州王朝の筑紫の都は大宰府である可能性が高い。
大宰府都府楼跡には、都城制の遺構が出てくるはずである、というのが砂川氏の仮説である。

高市皇子は、『日本書紀』が持統が即位したとする持統四年に、天皇位に即いた。
そして、筑紫の都を模して、藤原宮の建設を始めたのではないか。
持統四年十月条に以下の文章がある。

壬申に、高市皇子、藤原の宮地を観す。公卿百寮従なり。

「公卿百寮従なり」という言い方は、天皇に対して用いる表現ではないのか?
藤原宮の造営は、天皇・高市によって始められた。

高市皇子が亡くなった持統十年の翌年(十一年)には、次の文章がある。

三月の丁酉の朔甲辰に、無遮大会を春宮に設く。

「無遮大会」とは、「国王が施主となり、僧俗貴賎上下の区別なく供養布施する法会」と考えられている。
天武天皇のために、持統即位前紀十二月、持統二年春正月、持統七年五月、持統七年九月に行われている。
それでは、持統十一年の「無遮大会」は、誰のために行われたのか?
直前の死亡記事から推測すれば、高市皇子のため、という蓋然性が高い。
「無遮大会」が行われるのは、前天皇か皇太后もしくは聖徳太子級の特別な人である。
とすると、やはり、高市皇子は即位していたと考えるべきではないのだろうか。

『日本書紀』は、持統が頻回の吉野行幸を行ったことを記している。
もし、持統が天皇に在位したまま、これらの吉野行幸を行っていたとすると、政治の運営に支障を来たすことになるのではないか、と考えられる。
しかし、持統の度重なる吉野行幸が、何らかの混乱をもたらした雰囲気はない。
持統が天皇でなかったとすれば、それは当然のことである。
「元皇后」の立場であるとするならば、行動を束縛されるような政務などは無かったはずである。

天武の容態が深刻化した時、高市皇子はどういう気持ちでいただろうか?
倭国の支配者である九州王朝の後継者は自分である、ということではなかったか?
天武は、皇位継承権の順位を、持統皇后の子供の草壁皇子を第一に、大田皇女の子供の大津皇子を第二位とした。
それは、近畿大和においては、九州王朝の皇子といえどもよそ者であって、在地勢力との融和が必要だったからであろう。
天武が天智の娘を四人も妃に迎えたのも、近畿大和の勢力と結びつき、天智系を標榜する反天武勢力が復活するのを防ぐためだったのではないか。

高市皇子からすれば、大津皇子や草壁皇子の母親は、片田舎の近畿大和の卑しい女(天智の娘)に過ぎない。
倭国の支配者の正統な血筋を有する自分が、なぜ後塵を拝さなければならないのか?

天武の崩御直後に、成人していた大津皇子を「謀反を企んでいる廉」で亡き者にしたのは高市皇子であろう。
そして、しばらく時間をおいてから、草壁皇子を攻め滅ぼした。
砂川氏の推論では、天武崩御の年には、草壁はまだ一五歳で、大津はニ五歳だった。
大津の排除は、高市にとっては喫緊の命題だったはずである。
天武が亡くなって動揺している鸕野讃良皇女に、高市皇子は、「大津皇子が謀反を企んでいる」と讒言し、鸕野讃良皇女は大津皇子を自殺に追い込んだのだろう。
大津皇子を亡き者にした三年後の持統三年(称制四年)、高市皇子は草壁皇子を攻め滅ぼした。
そして、持統から称制位を剥奪して、天皇位に即いた。

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