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2008年2月21日 (木)

白鳳伽藍再興

近鉄橿原線の西ノ京駅を降りると、薬師寺は目の前である。
西ノ京とは、平城京の西の部分、つまり右京のことであり、薬師寺は右京を代表する寺である。
平城京の時代に建立されたが、創建時の伽藍は東塔だけで、その他の伽藍は、昭和46(1971)年以来の再建になるものである。
その再建プロジェクトを称して、白鳳伽藍再興と言っている。

ところで、美術史における白鳳時代は、645(大化元)年から710(和銅3)年の平城京遷都までの間だったはずである(08年1月5日の項)。
さらに狭く壬申の乱(672年)以降のことを指すこともあるが、いずれにしろ平城京遷都までの間であり、飛鳥と天平とを結ぶ期間という位置づけである。
その中心期間は、天武と持統の時代ということになる。
問題は、平城遷都以降が白鳳に含まれないとすれば、平城京で建てられた薬師寺の再建をなぜ白鳳伽藍再興と称するのか、ということである。

それは、薬師寺がもともと藤原京に建立された寺だという事情がある。
『日本書紀』の天武九年十一月条に、次の文章がある。

癸未(十二日)に、皇后、体不予したまふ。則ち皇后の為に誓願ひて、初めて薬師寺を興つ。伋りて一百僧を度せしむ。是に由りて、安平ゆること得たまへり。是の日に、罪を赦す。

つまり、皇后が病気になったので誓願をたて、皇后のために薬師寺を建立した、ということである。
『日本書紀』の記述からすれば、この皇后とは、当然鸕野讃良皇女(後の持統天皇)のことで、発願の主は天武天皇ということになる。

藤原京の計画と造営については、長い間持統朝のものとする説がなされてきたが、岸俊男氏などの所説によって、現在は天武の時代に計画された、とするのが多数説になっている(08年1月4日の項)。
岸説の論拠の一つとなっているのが、持統二年の正月の丁卯(八日)に、「無遮大会を薬師寺に設く」という記事である。
藤原京に建てられた薬師寺(本薬師寺)は、藤原京の条坊に則って建てられている。
持統二年の時点で、本薬師寺で法会が行われたとすれば、本薬師寺は既にある程度建立されていたはずである。
本薬師寺の建立にどの程度の期間を要したかは不明であるが、天武の時代に発願され、それが藤原京の条坊に一致していることは、藤原京自体が天武の時代に計画されたことを示していると考えられることになる。

天武によって本薬師寺の建立が発願され、藤原京が計画・造成されている間、本薬師寺伽藍も並行して造営されていたということになる。
藤原京は、持統、文武の時代を経て、元明の即位の半年後に遷都の詔が発せられ、平城京に遷ることになる。
つまり、わずか16年で廃都となってしまったのであり、長い年月の間に土に埋もれてしまった。まさに夢幻の都である。

平城京への遷都によって、薬師寺も平城京に移された。
そこで、藤原京の薬師寺(本薬師寺)と平城京の薬師寺(現薬師寺)との関係が問題になる。
つまり、現薬師寺の建物と仏像は、本薬師寺から移されたものか、平城京で新たに作られたものか。
美術史の区分では、藤原京の時代(本薬師寺)は白鳳であり、平城京の時代(現薬師寺)は天平である。
現薬師寺の復興伽藍を、白鳳伽藍と称するのは、平城京の薬師寺が、藤原京の薬師寺と様式的に同一であったという前提に立っていることになる。

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