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2008年2月 2日 (土)

高市皇子…砂川史学⑩

砂川氏は、「持統が天皇ではなかった」ことを示す史料として、『懐風藻』を挙げる。751年に成立した日本最古の漢詩集である。
その『懐風藻』の中の葛野王の項に、次のような記述がある。

高市皇子薨りて後に、皇太后王公卿士を禁中に引きて、日嗣を立てむことを謀らす。時に群臣各私好を挟みて、衆議紛紜なり。
……
王子叱び、乃ち止みぬ。皇太后其の一言の国を定めしことを嘉みしたまふ。特閲して正四位を授け、式部卿に拝したまふ。

『日本書紀』において、高市皇子が亡くなったのは持統十年七月十日であり、持統が譲位したのは持統十一年の八月一日であるから、高市皇子が亡くなったとき、持統は天皇だったはずである。
しかし、『懐風藻』は、持統を皇太后と記していて、持統は天皇ではないとしていることになる。
関裕二氏も、『謎の女帝・持統』において、この一節に触れている。
そして、「皇太后」とは、「当代天皇の母、または先帝の皇后におくられた称号。女御などで、生んだ親王が即位した場合にもいう」という定義を引用し、この時持統は天皇ではなかった、とする。
『日本書紀』の持統十年の時点で、持統が即位していなかったとすれば、それ以前に即位していたという可能性も著しく低いと考えるべきであろう。
つまり、持統は天皇になったことはなかった。

08年1月17日の項で、『日本書紀』天武二年正月条に記されている天武の系譜を紹介した。

天皇、初め鏡王の女額田姫王を娶して、十市皇女を生しませり。次に胸形君徳善が女尼子娘を納して、高市皇子命を生しませり。

この記述からすれば、天武の最初の妃は額田王であり、次が尼子娘である。
砂川氏は、大海人皇子は九州王朝の皇子であり、近畿大和の天皇家との接点は、斉明六年に九州王朝の大使として近畿大和に赴いたときだとし、そのとき大田皇女を妃とした。
額田王と尼子娘は、大海人皇子が筑紫にいた時の妃である。
額田王は、万葉歌人として有名であるが、その系譜については未詳とされている。
近畿大和の範囲には、額田王の父・鏡王にうまくフィットする人物が存在しないということである。
また、尼子娘の父は、胸形君徳善とあるから、福岡県宗像市と関係のある人物と推定される。
鏡王、胸形君徳善は、いずれも筑紫に関連する人物であり、その娘たちも筑紫に居たことになるわけである。

上掲文章に続いて、次の文がある。、

次に宍人臣大麻呂が女カヂ<木偏+穀旁>媛娘、ニの男・二の女を生めり。

この、次に宍戸臣大麻呂と続く文章は、素直に解釈すれば、「尼子娘の次は……」であるから、そうだとすれば、大田皇女は、天武の四番目の妃ということになる。

ところで、上記の持統十年七月十日の高市皇子の薨去は、『日本書紀』の以下の文章によっている。

庚戌に、後皇子尊薨せましぬ。

この後皇子尊が高市皇子だとされているわけであり、高市皇子という固有名詞が明示されているわけではない。
持統紀には、二人の尊がいる。
一人は、草壁皇子尊である。
とすれば、後皇子尊は、草壁皇子の後を継いだ皇子と考えられる。つまり持統朝で太政大臣を務めた高市皇子のことだとするのが通説である。
07年9月11日の項で触れたように、「後皇子」や「尊」の表記は謎めいている。
さらに、『日本書紀』に軽皇子(文武天皇)の立太子の記事がないことも大きな不審点である。
『続日本紀』には、持統十一年に立太子記事があるので、壬申の乱以来大きな存在感を持っていた高市皇子の薨去によって、立太子できる状況になったのだろうと推測されている。

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