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2008年2月 4日 (月)

持統天皇…(ⅴ)砂川史学⑫

持統・鸕野讃良皇女の誕生年は何時か?
通説では、大化元年つまり645年の乙巳の年とされている。
関裕二『謎の女帝・持統』ベスト新書(0202)でも、645年生まれとした上で、「そこに、この時代の業を背負わなければならなかった宿命」を感じるとしている。
しかし、砂川氏は、『日本書紀』には、持統・鸕野讃良皇女の誕生年に関する記述はなく、645年誕生説は誤りである、としている。

大化元(645)年に、鸕野皇女の父の中大兄皇子は20歳である。
鸕野皇女は第二子とされているから、姉の大田皇女が生まれたのは、中大兄皇子が18歳の頃となるから、いささか若いと思われる。
大田皇女と鸕野皇女の母親の遠智娘は、蘇我倉山田石川麻呂の娘であり、中大兄皇子が17歳で遠智娘を妃に迎えたとする。
とすると、中臣鎌足が蘇我入鹿誅滅のために中大兄皇子にアプローチしたのが16歳の時とすれば、舒明が亡くなった年ということになり、蘇我入鹿が専横を極めて鎌足が動き出したとするには、時間が短すぎる。
つまり、645年の乙巳の年に鸕野皇女が生まれたとすることについては、否定的にならざるを得ない。

大化元(645)年の乙巳年に生まれたのは、大田皇女ではなかったのか。
天智七年二月条に、鸕野皇女の弟として、建皇子がいて、唖であったと書かれている。
斉明四年五月条に「皇孫建王、年八歳にして薨せましぬ」という記述がある。
斉明四年は、戊午年で、その年に八歳だったとすると、生まれたのは辛亥年であり、鸕野皇女の誕生年は、その前年(庚戌年)以前ということになる。
つまり、庚戌年が鸕野皇女の誕生年の下限ということになる。

大田皇女が、大化元(乙巳)年だとすると、鸕野皇女の誕生年の上限は、乙巳の翌年の丙午年ということになる。
中大兄皇子は、舒明の殯で16歳で誄をしたとされれる。
この年は辛午年で、中大兄皇子は、丙戌年の生まれである。乙巳の大化元年には20歳であり、遠智娘を妃に迎えたのは、その1年前辺りと推測される。
大田皇女が生まれ、婿舅として親密性が高まった頃、中大兄皇子は、蘇我倉山田石川麻呂に入鹿暗殺計画を持ちかけたのではないか。

「乙巳-丙午-丁未-戊申-己酉-庚戌-辛亥」であるから、乙巳年に大田皇女が、辛亥年に建王(皇子)が生まれたとすれば、鸕野皇女は、丁未・戊申・己酉あたりが妥当ということになる。
しかし、乙巳の変という大事件を想定すれば、後半の戊申か己酉の方が蓋然性が高いと考えられる。
己酉とすれば、大田皇女より4歳下ということになる。

『日本書紀』の下記の記事は疑わしい、とした。

天命開別天皇の元年に、草壁皇子尊を大津宮に生れます。

しかし、鸕野皇女が大海人皇子に嫁いでから(斉明3年)、草壁皇子が生まれるまで(天智元年)の期間は正しいと考えることもできる。
大田皇女は、斉明6年に大海人皇子の妃となった。大田皇女は乙巳年の生まれであり、鸕野皇女は大田皇女の4歳下と想定したから、天智4年に17歳で大海人皇子の妃になり、その5年後に草壁皇子を生んだ。
とすると、天智4年は乙丑であり、丙寅-丁卯-戊辰-己巳-庚午-辛未-壬申だから、草壁皇子の誕生は庚午年となって、壬申の乱の時に生まれたとする推測と齟齬を来たす。

しかし、天智七年の建皇子の記述には、「或本に云はく」として、「遠智娘、一の男・二の女を生めり。其の一を建皇子と曰す。其のニを大田皇女と曰す。其の三を鸕野皇女と曰すといふ」という文がある。
或本という形で真実を述べるというのが『日本書紀』の一つの手法のようでもある。
或本の表現を正しいとすると、鸕野皇女の誕生年は、建皇子の誕生年(辛亥)は鸕野皇女の誕生年ということになって、大田皇女より6歳下ということになる。
鸕野皇女が17歳になるのは天智6年であり、その年に大海人皇子の妃となったとすれば、その5年後の壬申年に草壁皇子が生まれたということになる。

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