天智の即位年…砂川史学⑰
天智天皇の即位について、『日本書紀』は以下のように記述する。
七年の春正月の丙戌の朔戊子に、皇太子即天皇位す。(或本に云はく、六年の歳次丁卯の三月に、位に即きたまふ。)
天智天皇は、斉明天皇が崩御した後に、称制という形で執権した。
即位前紀には、次のようにある。
七年の七月の丁巳に、崩りましぬ。皇太子、素服たてまつりて称制す。
この七年は、斉明七年の辛酉年(661)である。この年が、天智称制の一年目ということになる。
『日本書紀』は、その翌年の記事を次のように始める。
元年の春正月の辛卯の朔丁巳に、百済の佐平鬼室福信に、矢十万隻・糸五百斤・綿一千斤・布一千端・韋一千張・稲種三千斛賜ふ。
この時、天智はまだ即位していず、皇太子のまま称制していたはずである。
それがなぜ元年か?
天智が天皇位に即つくのは、上記のように、七年(668年)の正月になってからである。
『日本書紀』は、なぜ称制二年目・壬戌を元年としたのか?
そこで、或本にある「歳次干支」の記述が重要になってくる。
「六年歳次丁卯の三月」は、「称制六年、歳次丁卯」であろう。
そして、この場合の歳次は丁卯を次ぐ歳(前年)であり、それは丙寅年ということになる。
つまり、丙寅が称制六年ならば、丙寅(6)←乙丑(5)←甲子(4)←癸亥(3)←壬戊(2)←辛酉(1)だから、辛酉が一年ということになる。
『日本書紀』は、元年を前天皇の没年の翌年にする踰年元年の編述方針をとっている。
天智の称制が、称制元年は斉明没年と重なっているが、称制は即位とは異なるという扱いで、踰年とはしなかったのであろう。
とすれば、編述の大方針に抵触するものではない。
『日本書紀』は、天智の即位を戊辰年としている。普通は、この即位年の戊辰年が元年とされるべきだろう。
しかし、斉明崩御の踰年の称制二年目の壬戌年を元年とし、即位年を天智7年とする書き方をしている。
或本のいう即位年は、『日本書紀』が天智五年としている丙寅年であり、これが真実の天智の即位年である可能性が高い。
つまり、『日本書紀』と或本の記述の関係は、図のようになっているのではないか。
天智元年が、斉明没年の踰年にされているのは、天智の在位年数を長く表現することによって、天智の怨霊を鎮めようとする意図があったのかも知れない。
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