天武の怨霊思想…砂川史学⑲
天武が怨霊とか祟りを恐れていたことは、「龍田の神・広瀬の神」を特別に祭っていることにも表れている。
『日本書紀』の記述を見てみよう。
(天武四年夏四月)
癸未に、小紫美濃王・小錦下佐伯連広足を遣して、風神を竜田の立野に祠しむ。小錦中間人連大蓋・大山中曾禰連韓犬を遣わして、大忌神を広瀬の河曲に祭らしむ。
以下、表のように、頻回の両神社を祭る記事が記載されている。
天武は誰の怨霊に怯えていたのか?
大友皇子は、武力闘争によって打ち倒した相手であって、怨霊化するものではない。
ここで考えなければならないのが、「天智暗殺説」である。
天智の没年は、671(辛未)年である。
舒明崩御の641(辛丑)年に、16歳だったから天智の没年齢は46歳ということになる。
古代といえども、いささか若過ぎる。老衰という年齢ではない。疫病が流行していたという状況でもない。
天智が天武に暗殺されたことが事実だとすれば、天智は怨霊化する可能性は非常に高い。
龍田神社と広瀬神社の立地は図の通りである。
天智が山科で暗殺されたとすれば、その怨霊が大和へ侵入してくるのを大和の北方で防ぐかのように、道を挟んで東西に位置している。
龍田大社・広瀬神社の社伝でっは、両社は、崇神天皇の時に創建されたとされる。
しかし、天武以前の天皇で、「龍田の風神・広瀬の大忌神を祭らせた」という記載はない。
龍田神社・広瀬神社が天智の怨霊鎮めの神社だとすると、持統が、異常なほど龍田大社と広瀬神社を祭ったことも説明できる。
天智の娘の持統は、我が子草壁を殺した高市(天皇)を呪うために、両神社を祈り祭ったのであろう。
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