持統天皇…(ⅳ)砂川史学⑨
「持統は即位していなかったのではないか?」
関裕二氏の大胆な仮説であるが、砂川恵伸氏もまったく別の視点から、同じ推論結果を得ている。
『天武天皇と九州王朝』新泉社(0612)の第二章は「天皇ではなかった持統と抹殺された高市天皇」と題されている。
砂川氏の推論は、干支をベースとしている。
先ず、『日本書紀』持統八年三月条に出てくる「(持統)七年、歳次癸巳」が、「持統七年、歳は癸巳に次(ヤド)る年=持統七年は癸巳年」の意味ではないことを証明する。
(持統八年)夏四月の甲寅の朔戊午に……。庚申に、吉野宮に幸す。丙寅に……。丁亥に、天皇、吉野宮より至(カヘリオハ)します。庚午に律師道光に贈物贈ふ。
五月の癸未の朔戊子に……
この記載において、持統が吉野宮から戻ったという丁亥の日は、四月朔日が甲寅ならば四月三四日になってしまうが、その後の「五月の癸未の朔……」とあることを併せれば、丁亥が四月の日の干支であることは明らかである。
つまり、四月の丁亥はあり得ない日ということになる。
ということは、直前の持統八年三月条の「持統七年、歳次癸巳」は、「持統七年は癸巳の年」の意味ではなく、「歳は癸巳を次ぐ=癸巳の前年=壬辰年」か、「歳は癸巳に次ぐ=癸巳の翌年=甲午年」のいずれか、ということになる。
天智紀における歳次の用法は、歳次干支を、「干支の前年」の意味で使用しており、持統紀の歳次干支も干支の前年の意味で使用されていると考えられる。とすれば、持統八年三月条の「七年、歳次癸巳」は、「持統七年、歳は癸巳を次ぐ=癸巳の前年=壬辰年」であり、持統元年は丙戌年ということになる。
持統の癸巳年(左表)の四月朔日は、庚申であり、とすれば丁亥は二八日となって、持統が吉野宮から戻った日に関する矛盾は解消する。
つまり、『日本書紀』の持統八年三月条の「七年、歳次癸巳」は、持統元年を丙戌としている記述ということになる。
一方で、丙戌年は、天武没年である。天武没年と持統元年が重なることは、『日本書紀』の編述方針の大原則(踰年元年)とに抵触する。
持統即位前紀に次の記述がある。
朱鳥元年(丙戌年)の九月戊戌の朔丙午に、天淳中原瀛真人天皇(天武天皇)崩ましぬ。皇后、臨朝称制す。
つまり、天武没年は、持統称制の一年目ということになる。
とすれば、「七年、歳次癸巳」は、持統称制七年、癸巳の前年=壬辰年ということになって、つじつまが合うことになる。
つまり、「七年、歳次癸巳」は持統七年ではなく、持統称制七年なのである。
ということになると、持統四年正月条の次の記述が問題になる。
四年の春正月の戊寅の朔に、物部麻呂朝臣、大盾を樹つ。神祇伯中臣大嶋朝臣、天神寿詞読む。畢りて忌部宿禰色夫知、神爾の剣・鏡を皇后に奏上る。皇后、即天皇位す。
つまり、持統は、持統四年(庚寅年)に即位した、ということである。
とすれば、持統称制は、四年までで終わったということになる。
とすると、、「七年、歳次癸巳」が、持統称制七年ということが矛盾になる。
砂川氏は、これを教授就任三年目の教授の助教授歴が十年あった場合、その三年目を助教授十三年目と記述するようなものであって、あり得ない書き方だとする。
その通りだろうし、持統が持統四年の庚寅年に即位したことは事実でなく、もし即位したのならば、称制八年目以降ということにならざるを得ない。
つまり、癸巳、甲午、乙未、丙申のいずれか、もしくはいずれでもないか、であって、いずれでもない可能性、つまり持統は即位しなかった可能性が最も高いのではないか、としている。
| 固定リンク
「書籍・雑誌」カテゴリの記事
- 藤井太洋『東京の子』/私撰アンソロジー(56)(2019.04.07)
- 内閣の番犬・横畠内閣法制局長官/人間の理解(24)(2019.03.13)
- 日本文学への深い愛・ドナルドキーン/追悼(138)(2019.02.24)
- 秀才かつクリエイティブ・堺屋太一/追悼(137)(2019.02.11)
- 自然と命の画家・堀文子/追悼(136)(2019.02.09)
「日本古代史」カテゴリの記事
- 沼津市が「高尾山古墳」保存の最終案/やまとの謎(122)(2017.12.24)
- 薬師寺論争と年輪年代法/やまとの謎(117)(2016.12.28)
- 半世紀前に出土木簡からペルシャ人情報/やまとの謎(116)(2016.10.07)
- 天皇制の始まりを告げる儀式の跡か?/天皇の歴史(9)(2016.10.05)
- 国石・ヒスイの古代における流通/やまとの謎(115)(2016.09.28)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント