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2008年2月

2008年2月29日 (金)

薬師寺論争…⑧様式論(ⅱ)

そもそも「様式」とはどのように捉えられるものであろうか?
朝田氏は、「造型感覚」という言葉で、時代様式を規定している。
つまり、同じ時代様式に属するものは、いろいろな形式で作られたとしても、根底の造型感覚が共通していると考えるのである。

飛鳥白鳳期についてみれば、大陸からめまぐるしくさまざまな様式が流入してきた。
北魏様、斉周様、隋様、唐様等々である。
この大陸から流入してくる様式と、わが国の彫刻様式の間にどういう関係があるか?
朝田氏は、大陸からの様式流入が、わが国の様式展開に大きな刺激を与えたことは肯定するが、造型感覚を創造したとは考えない、としている。
様式流入が造型感覚を創造するとすると、その流入してきた様式も何処かから流入してきた様式によって創造された造型感覚ということになる。
その系譜を辿っていけば、最初の様式あるいは造型感覚は何処から学んだと考えるのか?

そして、朝田氏は、様式と形式とを区分すべきだとする。
美術史において時代を区切り、その時代に「○○様式」という名を冠して呼ぶならば、その様式には共通の造型感覚が溢出していなければならない。
つまり、多様式が併存する時代様式という概念は成立し得ないものであり、多様式が併存しているとすれば、それは時代様式を形成することができなかった時代、ということになる。
飛鳥白鳳期のように、大陸から多様な様式が短期間に流入した時代においては、多形式一様式という概念で考えるべきである。
飛鳥様式は、前期は北魏式、後期は斉隋式という二つの形式の流入によって成立しているが、静的造型感覚によって、一時代一様式を形成している。

それでは、白鳳という時代を画する様式はどのように考えられるのか?
朝田氏は、水野氏の説は、斉隋様の形式が行われていた時期を示しているに過ぎず、安藤氏の説も、斉隋様と隋唐様の行われた時期を示しているだけであるとし、久野氏の説も、斉・隋・唐式が重なり合って展開するとしているが、白鳳様式がどういう概念で規定すべきかを示していない、とする。

その上で、白鳳様式の始まりを野中寺弥勒像(666年)とする。
その理由は、この像が、飛鳥的な静的造型感覚を抜け出しているからである。
そして白鳳様式の完成を興福寺仏頭にみる。
つまり、朝田氏は、白鳳様式を。野中寺弥勒像に始まり、興福寺仏頭を頂点とするものとする。

白鳳様式とは、朝田氏の要約によれば以下のような特徴を備えた様式である。
飛鳥の静的把握に対して動的であり、写実的意図によって肉身を概念的・感覚的に把握するものである。
つまり、静的な総計感覚は脱したが、天平の写実的造型に達していず、肉身のモデリングは、写実というよりも観念による造型である。

白鳳様式の典型とされてきた薬師寺東院堂聖観音像は、肉身のモデリングは白鳳の特徴を備えているが、瓔珞を実物のように克明に刻出するところなどは、金堂薬師三尊像に近い。
朝田氏は、金堂薬師三尊像は天平像であり、東院堂聖観音像の白鳳像との違いは、眼の形であるとする。
白鳳様式の像は、下瞼を直線であらわし、上瞼を弧状に表現する。
これに対し、天平的な像は、下瞼を鋭く抑揚のある弧線で変化させて眼の型を表す。
東院堂聖観音像の眼は金堂薬師三尊像に近く、天平的なものを指向して作られたものと位置づけられる。

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2008年2月28日 (木)

薬師寺論争…⑦様式論

薬師寺金堂の薬師三尊について、これを白鳳様式と見る見方(移坐説)と、天平様式と見る見方(非移坐説)とがある(08年2月23日の項)。
「白鳳」という時代呼称は、美術史以外の分野では余り使われていない。
年号の一種であるのだろうが、何時の年号を指しているのか議論があるという不思議な存在である。
神奈川仏教文化研究所」のサイトに掲載されている朝田純一氏の『飛鳥白鳳彫刻の問題点』において、白鳳様式と呼ばれているものの実態について、さまざまな見解が整理されている。
それを参照しつつ、白鳳を中心とする様式論を眺めてみよう。

朝田氏によれば、「白鳳」という言葉は、元来弘文朝もしくは天武朝の年号のことだとされていたが、坂本太郎や喜田貞吉らが、孝徳朝の年号の白雉の別称であるという説を立てて、それが有力になっている。
これを美術史において、飛鳥時代の次にくる時代の名称としたのは、以下のような経緯による。
①明治の中頃、岡倉天心は、推古、天智、天平という時代区分を設定した。これは、伊東忠太、フェノロサ、高山樗牛らに承継された。
②明治の末年になると、関野貞が、推古、寧楽前期、寧楽後期という時代区分を行った。
③明治43(1910)年に、日英博覧会が開催されたときに、日本美術の国宝帖をつくることになり、中川忠順が、はじめて白鳳という言葉を使って、飛鳥、白鳳、奈良、貞観という時代呼称を用いた。この白鳳という時代呼称が、飛鳥に対して語感が良く、他に余り使われていなかったので、大正頃から盛んに使われるようになった。
④その後、飛鳥と奈良に分けて、白鳳は飛鳥後期と奈良前期に含ませてしまおうという傾向が強くなり、白鳳を認める論は劣勢になった。
⑤戦後になると、また白鳳時代を認めようとする動きが現れ、現在は、認める論と否定する論に分かれている。

一般に、白鳳時代は、大化改新(645年)から平城遷都(710年)の頃までとされている。
大化から平城遷都までの期間を示す場合と、飛鳥・天平の間の一つの独立した芸術様式を示す場合の二つの使われ方がある。
この期間は、政治的大事件に挟まれているが、政治上の変革は、必ずしも芸術様式の変革の起因にはならない。すなわち、政治的事件をもって美術様式の区分とすべきではない。
つまり、白鳳という呼称は、美術様式を論ずる時にのみ用いるべきであって、政治的時代区分の呼称として用いるべきではない。
白鳳という呼称は、飛鳥と天平の間に、独立した美術様式を認める場合にのみ用いるべきなのである。

と考えた場合、白鳳と呼ばれるべき美術様式は、本当に存在したのか?
これについては、白鳳様式が存在したと考える論と、白鳳様式が存在しなかったとする論とに分かれている。

①白鳳様式が存在したとする論
(ⅰ)水野清一『飛鳥白鳳仏の系譜』
白鳳時代を大化改新から文武期末(707年)とし、大陸の斉隋様式に応ずる時代。

(ⅱ)久野健『古代彫刻論』『法隆寺の彫刻』
白鳳時代を大化改新から平城遷都までとし、斉周様、隋様、唐様が重なり合って展開する時代。

(ⅲ)野間清六『飛鳥白鳳天平の美術』
白鳳時代を大化改新から700年前後までとみて、その主体を、百済観音像、夢殿観音像、中宮時弥勒菩薩などにおく。

(ⅳ)町田甲一『上代彫刻史における様式区分の問題』
白鳳時代を天智朝ころ(663年)から和銅前後(708年)までとみて、その典型を興福寺仏頭に求める。

②白鳳様式は存在しなかったとする論
(ⅰ)金森遵『白鳳彫刻試論』『白鳳彫刻私考』『白鳳彫刻の可能性』
「白鳳」彫刻とされている多くの彫刻は、その大部分が根拠のないもので、「白鳳」という美称によって、先入的に作られた様式である。
白鳳の前半期は、造像が少なく、かつ飛鳥彫刻の延長に過ぎない。
白鳳彫刻とされる主な作例は後半期の作品であり、隋様式の上に唐様式が加味され、奈良彫刻へ展開していく時期である。その最初の基準作例は興福寺仏頭(685年)であるが、それらは奈良彫刻の先行形に過ぎず、様式的に独立したものと考える必要性はない。

(ⅱ)安藤更生『白鳳時代は存在しない』
一般に白鳳時代の作例は、斉隋様式のものと隋末唐初の様式のものに分けられ、これらを同一時代の同一様式と一括することは不合理かつ不可能なことである。
興福寺仏頭の作り始められた678年は、斉隋様と隋唐様の重大な分かれ目を示している。

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2008年2月27日 (水)

薬師寺論争…⑥発掘調査との関係

「鋪金未遂」を、造営未了と解する説では、薬師寺の造営過程は以下のようになる。
①天武天皇在世中に、寺地は決まっていた。
②造営工事もある程度進捗していたが、それが未完了のうちに天武天皇は崩じた
③造営未了の状態を、「布金買地」の故事になぞらえて、「鋪金未遂」と表現した。
しかし、「布金買地」の原義は「占地」のことであるから、「鋪金」を「布金」としながら、③のように「造営」と解釈するのは、状況証拠に基づく拡大解釈である。
この拡大解釈の妥当性は、①、②が他の史料により明確に主張できるか否かに依存する。

「鋪金未遂」を、占地未了と解する解釈は、原義に忠実な解釈といえる。
ところが、藤原京の発掘によって、天武天皇在世中に既に薬師寺の寺地が決定していたと考えるべきであることが明らかになった。
昭和51(1976)年に、藤原京右京八条三坊の本薬師寺の西南隅の発掘で、条坊の大路遺構より下層で、薬師寺式の軒丸瓦・平瓦を出土する溝が検出された。
この溝は、藤原京の条坊地割の施工の時点で既に埋められていたと解釈される。
つまり、条坊の大路が造営される前に薬師寺の造営が進んでいたことになる。
昭和52(1977)年には、藤原京大極殿北方の大溝から、「壬午」「癸未」「甲申」の紀年銘を記す木簡が出土した。
これらの干支は、それぞれ天武11、12、13年に相当するものであり、藤原京の造営が天武在世中に始まっていたことを示していると考えられる。
とすれば、薬師寺の造営着工も天武在世中のことであるから、占地未了という解釈は不都合になる。

ところが、さらに平成5(1993)年の中門跡の発掘調査で、新たに重大な所見が示された。
それは、中門基壇の下層で、藤原京西三坊坊間路を検出し、その延長部分が中門と金堂をつなぐ石敷きの参道の下層で確認されたのだった。
西三坊坊間路とは、西ニ坊大路と西三坊大路の中間部を南北に通る路で、その真上に中門と金堂を結ぶ参道が作られている。
ということは、本薬師寺の伽藍は、藤原京の造成後に造営されたことを示すことになる。

つまり、占地未了という解釈も可能性を残すということになる。
藤原京の造成が天武在世中に始まったとして、薬師寺の造営はいつから始まったのか?
出土した瓦からして、発掘担当者の花谷浩氏から、以下のような所見が示されている(大橋一章『法隆寺・薬師寺・東大寺 論争の歩み 』グラフ社(0604)。

本薬師寺金堂の軒瓦が藤原宮の古い様式の軒瓦と深い関連をもち、それは両者の造営が密接に関連しつつほぼ同時進行していたことの現れだろう。現状では、藤原宮の造営開始を天武末年ころ以前としか確定できないので、本薬師寺の建設は天武朝には着手され、天武薨去時には金堂の造営が少なくとも瓦の調達までは進んでいたことは、発掘成果によって推定して差し支えないだろう。

ところで、「鋪金」に関して、「鍍金」と解釈する説についてはどう考えられるか?
この説では、天武は本尊の鍍金を完成させないうちに亡くなったということであり、「鋳作」は完了していたと考えるのが自然だろう。
また、寺の造営と本尊の制作は並行して進められたと考えるのが自然であり、本尊も天武の薬師寺建立の発願から、さほど時間を置かないで制作に着手されたと考えられる。

また、藤原京の本薬師寺の瓦と平城京薬師寺の軒瓦を比較すると、文様の差異から、本薬師寺の方が一段階古いと考えられる(上掲書)。
藤原京薬師寺から平城京薬師寺への移転は、瓦の移動を伴うものと考えられるので、瓦の違いは移建論に不利に働く。
また、中門と回廊の構造と規模が、本薬師寺と平城京薬師寺で異なることも判明した。
とすると、本薬師寺の発掘調査は、本薬師寺の平城京への移転を否定するものと考えられる。

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2008年2月26日 (火)

薬師寺論争…⑤東塔檫銘(ⅱ)

東塔檫銘の文脈は不自然であるという(松山鉄夫『薬師寺金堂薬師三尊像の制作年代について』(『薬師寺』小学館(8303)所収)。
この檫銘は、本薬師寺にあった銘文を転写したものと考えられ、その転写に際して一部脱落したのではないか、とされる。
問題は、その脱落の中身もしくは程度であるが、それは誰にも分からない。

松山氏は、上記論文の中で、次のように推測する。

少なくとも、「以中宮不悆」のつぎに本尊薬師仏を鋳造するという意味をもった一句が、たとえば「奉鋳薬師仏」とか「奉造薬師銅像」とかいう言葉が、原銘にはあったのではないかと想像する。「不悆」に対応して「薬師」が記されるならば、文章はいっそう自然となろう。檫銘の後半(主文)において「薬師」が華やかに讃えられるとともに、それが「冥助」を仰ぎ延う直接の対象であることを思うと、銘序においても「薬師」が言及されるのが自然ではなかろうか。こうした推定句を文中に挿入して、「以中宮不悆、奉鋳薬師仏後、創此伽藍、而鋪金未遂、竜駕騰仙」とするとき、文脈上の不自然は解消され、「鋪金」は、鍍金として文章になじむように思われるが。どうであろうか。あるいはまた、『薬師寺縁起』のごとく「已鋳金銅之像」といったような一句が、「而鋪金未遂」の直前にあったとみることもできよう。

とした上で、松山氏は、「鋪金未遂」を「鍍金未了」とする。
つまり、本薬師寺本尊は、朱鳥元(686)年9月の天武天皇崩御の時点では鋳作を終えていた。
そして、この像に研磨が加えられ、さらに鍍金がほどこされ、持統元(687)年の末ごろには完成した。
落成したばかりの金堂に奉安され、翌2年正月8日の無遮大会を迎える。開眼供養を兼ねた大会であった可能性も大きいだろう。

大橋一章氏は、「布金」の語の用例の変遷を辿り、次のように述べる(『法隆寺・薬師寺・東大寺 論争の歩み 』グラフ社(0604))。

「布金」はもともと寺地取得の手段として大地に金貨を布く意であったが、やがて祇園精舎の建立や完成した祇園精舎の伽藍を意味する語となり、また祇園精舎の建立物語を示す代名詞のごときものとなり、さらには一般寺院の建立にも祇園精舎の建立に仮託して使われるようになったのではあるまいか。

大橋氏は、檫銘の撰文者は、天武発願の薬師寺の建立を祇園精舎の建立物語に仮託して、そのキーワードともいうべき「鋪金」の語を使用したのであろう、とする。
つまり、「鋪金未遂、龍駕騰仙」は、薬師寺の建立がまだ完了しないうちに天武天皇は崩御されたことを示している。
大橋氏によれば、「鋪金未遂」を原義から離れていることは、語の使い方の変化を想定すれば、不自然ではなくなる、ということになる。

大橋氏のように、「鋪金未遂」の語義の変遷を想定するとしても、松山氏の指摘する文脈上の不自然は残ると考えられる。
とすれば、その部分をどう解釈するか、については論議が残されていると思われる。

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2008年2月25日 (月)

薬師寺論争…④東塔檫銘

薬師寺東塔の擦管(屋上に出た心柱を被覆する銅管)の基部に、次のような銘文が刻入されている(大橋一章『法隆寺・薬師寺・東大寺 論争の歩み 』グラフ社(0604))。

維清原宮馭宇
天皇即位八年庚辰之歳建子之月以
中宮不悆創此伽藍而鋪金未遂龍駕
騰仙大上天皇奉遵前緒遂成斯業
照先皇之弘誓光後帝之玄功道済郡
生業傳劫式於高躅敢勒貞金
其銘曰
巍巍蕩蕩薬師如来大発誓願廣
運慈哀猗<嶼の偏が犭>聖王仰延冥助爰
餝靈宇荘厳御亭亭寶刹
寂寂法城福崇億劫慶溢萬

この檫銘の中の、「天皇即位八年庚辰」は、『日本書紀』の天武九年と表記が異なるが、『日本書紀』では、天武の即位年を天武二年としているから、即位八年庚辰は、『日本書紀』の表記に換算すれば、天武九年庚辰である。
つまり、両史料共に、西暦680年の庚辰年の発願したということを示している。

問題は、「鋪金未遂龍駕騰仙」という句をどう理解するかである。
「鋪金」が未完了の状態で、天武天皇が亡くなられた、ということであるが、「鋪金」とは何か?
以下の3説がある。
①薬師寺本尊像の鍍金説
②薬師寺の寺地確定(占地)説
③薬師寺の造営説

①薬師寺本尊像の鍍金
長和4(1015)年の『薬師寺縁起』の冒頭部分に、次のようにある。

天武天王即位八年庚辰十一月、皇后不悆、巫医少験、因之為除病延命、発奉鋳丈六薬師仏像之願、爰
霊験有感、皇后病愈、天皇大感、已鋳金銅之像、補金未畢、以十四年戊丙秋九月九日、天皇崩於明香清御原

ここでいう補金は、鍍金のことであり、『薬師寺縁起』は、鋪金を鍍金として理解している。
薬師像の鋳造は天武天皇在世中のこととなり、その鍍金が果たされないうちに、天武は亡くなったことになる。

②薬師寺の寺地確定(占地)説
寛政6(1794)年に撰述された日下部(奈佐)勝皐の『薬師寺擦銘釈』は、鋪金=鍍金説を退け、祇園精舎の故事に基づいた「布金買地」の解釈を示した。
給孤独長者(ぎつこどくちょうじゃ:須達長者)が祇太太子の園地を購うにあたり、地面に金貨を布きつめたという「布金買地」の故事から、「鋪金」を「布金」と同義として、寺地を決定するの意味、「占地」として理解するものである。
言い換えれば、「鋪金未遂」は、天武天皇崩御の時点では薬師寺の寺地もまだ確定していなかった、ということになる。
会津八一、福山敏男、久野健などの諸氏がこの説である。

③薬師寺の造営説
「占地」説に対して、「布金買地」の故事を踏まえながら、、「鋪金未遂」は「造営未了」のことであると解する。
薬師寺の造営は既に行われていたが、未だ完了していないうちに、天武天皇が亡くなった、とする解釈である。
薮田嘉一郎、田中重久、高田十郎、町田甲一、今城甚造などの諸氏がこの説である。

「鋪金」に対する解釈によって、薬師寺の造営工事が、天武天皇在世中に行われたのか否か判断が変わってくる。
「鋪金」の判読に差異はないが、解読になると解釈が分かれる好例であろう(08年2月17日の項

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2008年2月24日 (日)

薬師寺論争…③略年表

白鳳時代における薬師寺関係の略年表を見てみよう(出典:『薬師寺/名宝日本の美術6』小学館(8303))。

天武09(680)年 庚辰  11・12天武天皇、薬師寺建立を発願する(書紀、東塔檫銘、扶桑略記、縁起)
天武11(682)年 壬午  天武天皇、皇后のために薬師寺をつくる(僧綱補任抄出、七大寺年表)
朱鳥01(686)年 丙戌  9・9天武天皇崩ずる(書紀)。この頃本尊の薬師金銅像の鍍金未だ畢らずという(東塔檫銘)
朱鳥01(686)年 丙戌  12・19天武天皇のために、無遮大会を大官・飛鳥・川原・小懇田豊浦・坂田に設く(書紀)
持統02(689)年 戊子  1・8薬師寺に無遮大会を設く(書紀)
持統06(692)年 壬申  4・10持統天皇、故天武天皇のために薬師寺講堂の阿弥陀仏繍帳を造る(縁起)
持統11(697)年 丁酉  6・26持統天皇の病気平癒のため公卿百寮所願の仏像を造り、7・29薬師寺において開眼供養(書紀)
文武02(698)年 戊戌  10・4薬師寺の構作はほぼ畢り、衆僧を住せしむ(縁起)
                 11・15薬師寺講堂阿弥陀仏繍帳の開眼講師賞として僧道昭を大僧都に任ず(僧綱補任抄出、七大寺年表)
大宝01(701)年 辛丑  6・11波多朝臣牟胡閇と許曾倍朝臣陽麻呂とを造薬師寺司に任ず(続紀)
                7・27太政官処分により造大安・薬師ニ寺官を寮に准じ、造塔丈六ニ官を司に准ず(続紀)
大宝02(702)年 壬寅  12・22持統太上天皇没(続紀)
大宝03(703)年 癸卯  1・5故持統上皇のために大官・薬師・元興・川原の四大寺に設斎し、2・17その七七忌に大般若経を読ましむ(続紀)

上記の年表をもとに、薬師寺金堂の本尊像の造立年代について考えてみよう。
持統11年6月と7月の、造仏と開眼に関する記事は、従来、金堂本尊に関するものとして解釈するのが一般的であった。
7月記事の2日後に、持統は孫の軽皇子(文武天皇)に譲位していることを併せ考えれば、「所願の仏像」とは、持統にとって最も大事な薬師寺本尊像を指しているに違いない、と考えられてきたわけである。
つまり、天武発願の薬師像を開眼することができたので、それを機に譲位した、とするのである。

ここで問題は、二つある。
①薬師寺の本尊の発願者は、天武天皇であって、「公卿百寮」ではない。
②丈六の金銅三尊像をひと月余りで完成させることは不可能である。
とすれば、持統11年の条に出てくる「仏像」は、薬師寺の仏像であるにしても、金堂本草像ではないのではないか。

とすると、金堂本尊像は、いつ完成したのか?
持統2年の「無遮大会」の記事をどう理解するか?
無遮大会とは、国王が施主となり、僧俗貴賎上下の区別なく供養布施する大規模な法会のことである。
当時においても、特例的な仏教法事であったと考えられる。
このような大法会が行われたとすれば、この時点で、既に薬師寺の根幹部分、つまり金堂とその本尊は出来上がっていたと考えるのが自然である。

一方、朱鳥元年には無遮大会を、5寺で行ったとするが、その中に薬師寺は入っていない。
つまり、この時点(天武の百日忌)では、薬師寺は、無遮大会を行えるような状態ではなかった、ということである。
それから13ヶ月後の持統2年正月には、無遮大会を行えるように造営が進んだ、と考えることができる。

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2008年2月23日 (土)

薬師寺論争…②金堂薬師三尊

薬師寺の金堂は、1528(享禄1)年に戦火によって消失した。
その後、仮金堂のままであったが、写経勧進による再建が図られ、1971(昭和46)年4月3日に起工し、1976(昭和51)年に落慶式が行われた。
白鳳時代の建築様式の研究を踏まえて設計され、西岡常一氏を棟梁として建設された。
つまり白鳳伽藍再興の第一歩である。

本尊は薬師如来で、病に苦しむ者を救う仏であるとされる。
両脇侍は、日光菩薩と月光菩薩である。
薬師如来は座像で、立った姿が丈六(1丈6尺≒4.85m)である。
豊満な体躯に薄い衣をまとっており、端正な面相、頭部と胴体の比率が整った造型で、唐代最盛期の様式を継承したものとされる。

2_2和辻哲郎は、『古寺巡礼』岩波文庫(7903)(元版は、1919(大正8)年出版)において、薬師如来像について、次のように書いている。

この本尊の雄大で豊麗な、柔らかさと強さとの抱擁し合った、円満そのもののような美しい姿は、自分の目で見て感ずるほかに、何とも言いあらわしようのないものである。胸の前に開いた右手の指の、とろっとした柔らかな光だけでも、われわれの心を動かすに十分であるが、あの豊麗な体躯は、蒼空のごとく清らかに深い胸といい、力強い肩から胸と腕を伝って下腹部へ流れる微妙に柔らかな衣といい、この上体を静寂な調和のうちに安置する大らかな結跏の形といい、すべての面と線とから滾々としてつきない美の泉を湧き出させているように思われる。
(中略)
この作に現れた偉大性と柔婉性との内には、唐の石仏やインドの銅像に見られないなにか微妙な特質が存しているように思われるが、それをはっきりと捉える方法はないものであろうか。この問題の解決は、日本という国が明確に成立した時代--すなわち美術史上にいわゆる白鳳時代--を理解する鍵となるであろう。

2_4この金堂三尊の様式は、白鳳様式なのか、あるいは天平様式なのか?
以下、松山鉄夫『薬師寺金堂薬師三尊像の制作年代について』(『薬師寺/名宝日本の美術6』小学館(8303)所収)によって、論争を概観してみよう。

金堂薬師三尊像の制作年代をめぐる論争は、明治時代の関野貞、喜田貞吉の論争以来のものであるが、いまだ最終的な決着をみたとはいえない。これを白鳳時代の制作とみる立場と、天平時代初期の造立とする立場があるが、具体的な造立年次については、次の4説を挙げることができる。
①持統2(688)年説
②持統11(697)年説
③大宝年中(701~702年)説
④養老・神亀年中(718~726年)説

①~③は、現本尊を、藤原京の本薬師寺から「移坐」したとするものであり、白鳳時代の作品と見る。
④は、平城京の薬師寺で新鋳したものとするものであり、天平様式として理解する。
白鳳説を「移坐」説とすれば、天平説は「非移坐」説ということになる。
年代的には、高々20~30年程度の差異である。
しかし、白鳳と天平の様式をどう理解するかという問題であるから、この論争の意味は大きい。
薬師寺論争は、わが国の美術史上でも重要な位置を占めるものである。

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2008年2月22日 (金)

薬師寺論争…①「白鳳」か「天平」か

小学館版「古寺を巡る」シリーズの第8巻が『薬師寺』(0803)である。
その表紙には、「白鳳の光輝を放つ癒しの世界」という言葉が添えられている。
2本文にも、全景の写真(写真は、いずれも薬師寺公式サイトから。構図と雲の形から、「古寺を巡る」の全景の写真と公式サイトの写真は同一のものであることがわかる)に添えて、以下の文が載っている。

白鳳伽藍の佇まい
右手前から東塔、金堂、西塔、金堂の後に大講堂が並び、それらを
回廊と中門がとりまく。右奥は東僧坊。平城京に移転した当時の建築は東塔のみで、1976(昭和51)年の金堂再建をはじめとし、現在まで白鳳伽藍の再建が進められている。金堂の前に東西ふたつの塔が建ち、金堂の後ろに講堂が建つ伽藍形式は「薬師寺式伽藍」とよばれる。薬師寺は1998(平成10)年に「古都奈良の文化財」として、ユネスコの世界遺産に登録された。

この解説文のタイトルが示すように、飛鳥の法隆寺、天平の東大寺と対比され、白鳳を代表する寺が薬師寺であるとされてきた。
2_2明治期に、平城期築造の現存する東塔の「水煙」を、お雇い外国人の東洋美術史家・アーネスト・フェノロサが「凍れる音楽」と評したという話が有名である。
もっとも、「凍れる音楽」の解釈を巡り、あるいはフェノロサが言った言葉なのかどうか、などについては議論があるらしいが……。

薬師寺は、天武8(680)年に、鸕(ウ)野皇后(のちの持統天皇)の病気が治癒することを祈願して、天武天皇によりその造営が決意された。
皇后の病気は間もなく回復したが、天武天皇は、寺の完成をみないで亡くなった。
この薬師寺は、現在の奈良の西の京ではなく、藤原宮にほど近い飛鳥川西岸だった。現在の橿原市木殿である。
現在の薬師寺と区別して、「本薬師寺」と呼ばれる。
本薬師寺跡には、金堂と東西の塔の礎石が残されている。

文武天皇の死後、母の元明天皇が即位し、3年後の710(和銅3)年に、都が平城京に移された。
それに伴って、旧都にあった諸大寺は新京に移された。
『縁起』によれば、薬師寺も、718(養老2)年に、いまの地に移された。
諸寺は、もとの寺を旧都に残して、新都で新しく造営されたと考えられる。
しかし、薬師寺は、本薬師寺の礎石の状況からして、新旧の平面の形式や規模がまったく同じであることから、すべての建物から仏像まで、新しい薬師寺に移されたのだろう、とする説が生まれた。
つまり、「移建」「移坐」説である。

そして、『薬師寺縁起』には、金堂の本尊を、「持統天皇の奉造」とある。
しかし、天平の末ごろまで、本薬師寺が寺として残されていたという記録、東塔が730(天平2)年に建てられたという記録があり、金堂三尊の様式を天平様式する見方がある。
東塔や金堂三尊はもとの寺から移されたものではない、とする「非移建」「非移坐」説である。

「移建・移坐」ならば、東塔は、文武天皇の時に建てられたものの移建であり、金堂三尊は、持統天皇の時に造られたものの移坐である。
非移建ならば、両者とも平城京遷都後のものということになる。
文化史・美術史では、平城京遷都までを「白鳳」、遷都後を「天平」といっているので、「移建・移坐」か「非移建・非移坐」の問題は、「白鳳」か「天平」か、という問題であり、美術史の様式をどう捉えるかという問題になる。

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2008年2月21日 (木)

白鳳伽藍再興

近鉄橿原線の西ノ京駅を降りると、薬師寺は目の前である。
西ノ京とは、平城京の西の部分、つまり右京のことであり、薬師寺は右京を代表する寺である。
平城京の時代に建立されたが、創建時の伽藍は東塔だけで、その他の伽藍は、昭和46(1971)年以来の再建になるものである。
その再建プロジェクトを称して、白鳳伽藍再興と言っている。

ところで、美術史における白鳳時代は、645(大化元)年から710(和銅3)年の平城京遷都までの間だったはずである(08年1月5日の項)。
さらに狭く壬申の乱(672年)以降のことを指すこともあるが、いずれにしろ平城京遷都までの間であり、飛鳥と天平とを結ぶ期間という位置づけである。
その中心期間は、天武と持統の時代ということになる。
問題は、平城遷都以降が白鳳に含まれないとすれば、平城京で建てられた薬師寺の再建をなぜ白鳳伽藍再興と称するのか、ということである。

それは、薬師寺がもともと藤原京に建立された寺だという事情がある。
『日本書紀』の天武九年十一月条に、次の文章がある。

癸未(十二日)に、皇后、体不予したまふ。則ち皇后の為に誓願ひて、初めて薬師寺を興つ。伋りて一百僧を度せしむ。是に由りて、安平ゆること得たまへり。是の日に、罪を赦す。

つまり、皇后が病気になったので誓願をたて、皇后のために薬師寺を建立した、ということである。
『日本書紀』の記述からすれば、この皇后とは、当然鸕野讃良皇女(後の持統天皇)のことで、発願の主は天武天皇ということになる。

藤原京の計画と造営については、長い間持統朝のものとする説がなされてきたが、岸俊男氏などの所説によって、現在は天武の時代に計画された、とするのが多数説になっている(08年1月4日の項)。
岸説の論拠の一つとなっているのが、持統二年の正月の丁卯(八日)に、「無遮大会を薬師寺に設く」という記事である。
藤原京に建てられた薬師寺(本薬師寺)は、藤原京の条坊に則って建てられている。
持統二年の時点で、本薬師寺で法会が行われたとすれば、本薬師寺は既にある程度建立されていたはずである。
本薬師寺の建立にどの程度の期間を要したかは不明であるが、天武の時代に発願され、それが藤原京の条坊に一致していることは、藤原京自体が天武の時代に計画されたことを示していると考えられることになる。

天武によって本薬師寺の建立が発願され、藤原京が計画・造成されている間、本薬師寺伽藍も並行して造営されていたということになる。
藤原京は、持統、文武の時代を経て、元明の即位の半年後に遷都の詔が発せられ、平城京に遷ることになる。
つまり、わずか16年で廃都となってしまったのであり、長い年月の間に土に埋もれてしまった。まさに夢幻の都である。

平城京への遷都によって、薬師寺も平城京に移された。
そこで、藤原京の薬師寺(本薬師寺)と平城京の薬師寺(現薬師寺)との関係が問題になる。
つまり、現薬師寺の建物と仏像は、本薬師寺から移されたものか、平城京で新たに作られたものか。
美術史の区分では、藤原京の時代(本薬師寺)は白鳳であり、平城京の時代(現薬師寺)は天平である。
現薬師寺の復興伽藍を、白鳳伽藍と称するのは、平城京の薬師寺が、藤原京の薬師寺と様式的に同一であったという前提に立っていることになる。

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2008年2月20日 (水)

白鳳年号について

長々と、砂川恵伸氏の著作を紹介してきた。
それは、砂川氏の見解によって、謎の多い古代史分野に関して、かなり見通しが良くなるのではないか、と思われたことによる。
そして、それは通説的な理解とはかなり隔たりのあるものだからである。

第一に、砂川氏は、古田武彦氏の九州王朝説を基盤にしている。
現時点では、大勢的には、九州王朝説は学説としての扱いを受けていないのだろう。砂川氏も述べているように、古田武彦氏の九州王朝説は、以下の諸点で大きな説得力を持っている(08年1月18日の項)。

①従来の近畿天皇家一元史観では、誰に比定してもしっくりこない「倭の五王」問題。
②隋書には、七世紀初頭の倭国に君臨した「阿毎足利思比(北)孤」という王者が記載されているが、近畿天皇家による日本側文献にはそのような王者は存在しないこと。
③白鳳・朱雀を初めとする多くの逸年号・九州年号といわれる不思議な年号の存在。

そして、砂川氏は、『古事記』と『日本書紀』における「歳次干支」の用法を検討し、大海人皇子が九州王朝の皇子であった、という視点を導入することによって、天智と天武の関係について、新たな見方を提示した。
①天智と天武は非兄弟である。従って、壬申の乱は、易姓(革命的)である(
08年1月23日の項
②天智は天武に暗殺された可能性が高い。井沢元彦氏の説は首肯できる要素が多い(
08年1月27日の項
③天武は天智の怨霊を恐れていた(
08年2月13日の項

そして、持統と高市の関係について検討して、次のような帰結を示した。
①持統は即位していなかった(
08年2月1日の項
②大津を処刑に追い込み、草壁を攻め滅ぼしたのは高市であり、高市は即位していた可能性が高い(
08年2月7日の項

さらには、大海人皇子が、白村江の大敗後の危機的状況において、筑紫から近畿大和へ多人数で移ったことにより、「上代特殊仮名遣い」が消滅した(08年2月10日の項)。
また、従来曖昧で意味の良く分からなかった「朱鳥改元」についても、合理的な解釈をすることができた(08年1月25日の項
)。
上記の知見は、目から鱗が落ちる類のものではないか、と思う。
砂川氏の著作は、歳次干支を厳密に検討する作業においてクリティカルであるし、その結果として得られたものはきわめてクリエイティブなものだと思う。
まさに思考技術(コンセプチュアル・スキル)の好事例だと思う(
07年11月22日の項)。

それでは、砂川氏は「白鳳」についてはどう解釈しているのだろうか?
残念ながら、「朱鳥」については触れているが、「白鳳」について直接触れている箇所はない。
しかし、九州王朝説の立場に立っており、朱鳥改元を「九州王朝の太子が即位した年」と推論していることからすれば、「白鳳」についても、九州王朝の年号と考えているものと想定される。

もう一度、「白鳳」の年号が使われたとされる時代(08年1月12日の項)の事象をピックアップしてみよう。

・661年(白鳳元):斉明7、天智即位(称制)
・663年(白鳳03):白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に大敗
・667年(白鳳07):近江国の大津へ遷都
・668年(白鳳08):中大兄皇子が即位し、第38代天智天皇となる
・671年(白鳳11):第39代弘文天皇(大友皇子)が即位
・672年(白鳳12):天智天皇没/壬申の乱/第40代天武天皇即位/飛鳥浄御原宮に遷る
・683年(白鳳23):軽皇子(第42代文武天皇)生誕

砂川氏の言うように、大海人皇子が九州王朝の皇子であり、近畿大和に移って、武力により権力を奪取し天皇位についたとしよう。
文武天皇が、大宝の年号を建てるまでの間、九州王朝は余命を保っており、年号発布の権力も失っていなかったということになる。
しかし、白村江の敗北で大海人皇子が近畿大和に移らざるを得なかったのであるから、九州王朝の実態は火の車だったというべきだろう。
「白鳳」がかくも長期に渡っているのは、九州王朝の余裕のなさの反映なのであろうか。

近畿大和の天皇家による年号が連続するのは、文武天皇の大宝以降(元年=701年)である。
それ以前は、即位していなかった可能性のある持統は別としても、即位した天武や即位していた可能性のある高市といえども、九州王朝とは別に年号を発布することはできなかった、ということなのであろうか。
「白鳳」という時代は、文化史としては著名であるが、その歴史の実像は、未だ霧の中にあるように感じられる。
もっと多面的なアプローチを総合して考えることが必要なのだろうと思う。

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2008年2月19日 (火)

問題を感知する力

外界からの刺激を受け止め、そこから何らかの判断をする。
その刺激の受け止め方、判断の仕方は人によりそれぞれ異なっている。
例えば、故今西錦司博士を源流とする京都大学の霊長類の研究者たちは、サルを個体識別することによって、サルの群れ(社会)の構造や、その中での個体の行動様式を研究した。
私たちにとっては、サルの顔はみな同じように見える。
しかし、サルの研究者にとっては、一匹づつ異なる存在として見えるようになる、ということである。

つまり、人は関心のあるものに関しては、「見分ける力」が高まってくる。
群衆の中に、自分の恋人や子供がいれば、直ぐに見分けることができる。
それは、対象に対して、強い関心・興味を持っているからである。
陶磁器に関心を持てば、古くさい陶磁器が、「お宝」であるのか「駄作」であるのか、見分けられるようになる。
「違いが分かる」かどうかは、スキルのレベルを計る重要な判断基準である。

他人が見過ごしてしまうようなことに気づくのは、それに対して問題意識を持っているからである。
問題意識というのはやっかいなもので、いくら「問題意識を持て」とか言われても、あるいは「問題意識を持つように努力しよう」などと思っても、それで問題意識が生まれるというものでもない。
例えば、「和歌山のカレー殺人事件」に関して、『毒入りカレー事件 犯人は他にもいる』という評論文で鋭い洞察力を発揮し、文藝春秋読者賞を獲得した三好万季さん(当時中学生)は、それは小さな疑問から始まった、としている。
その小さな疑問とは、「カレーで食中毒なんて……、こんなのあり?」という疑問だった。
この疑問をもとに、当時(1998年)ようやく普及しはじめたインターネットを駆使しながら思考を進めたのが、受賞作だった。
文春に発表された時点で、この評論文をただならぬものと思ったが、読者賞という形で多数の支持を得たことに、我が意を得た思いがしたことを覚えている。

その三好さんが、「カレー事件」の一年前、中学二年生の夏休みの国語の宿題として提出したレポートが、「シめショめ問題」である。

「はじめまして」は、「始めまして」か「初めまして」か?
つまり「始め初め問題」である。
三好さんは、父の「書院」というワープロを使っていて、初対面の人に「はじめまして」と書いて変換したところ、「始めまして」と出てきたのに戸惑う。
もう一度変換すると、「初めまして」が出てくるのだが、「始めまして」が優先して出てくることはおかしくはないか?

それから、各社の辞書や日本語入力ソフトと専用用ワープロの比較、専門家などへのアンケートなどにより、この「始め初め問題」にアプローチする。
その経緯と結果は『四人はなぜ死んだのか―インターネットで追跡する「毒入りカレー事件」』文藝春秋(9907)(文春文庫版(0106))に収載されている『シめショめ問題にハマる』として取りまとめられている。

結論部分を要約してみよう。
・文化庁『「ことば」シリーズ3 言葉に関する問答集』の解説によれば、
・「初」は、「はじめる」という動詞には使わないのが普通である。
・名詞的な用法の場合には、「初」と「始」をある程度書き分ける
・副詞的な用法の場合には、「初めて」と書くのが習慣的に多い。
しかし、三好さんは、「初める」という動詞に、「そめる」の他に「はじめる」があるということを主張する。
文化庁の権威に反旗を翻したわけである。
動詞としての「初(ハジ)める」を認知することにより、「初めまして」が正当性を獲得する。
その論理については、上掲書を読んで頂くとして、興味深いのは、その問題意識が生まれて来る経緯である。

「hajimemasite」を変換すると「始めまして」と変換される。
それに対して、「一瞬驚きました」「書院は、間違っていると思いました」と書いている。
つまり、「何だかヘンだ」という感覚である。そういう違和感を持つことが、すなわち問題意識ということだろう。
それはどうしたら生まれるか?
普通見過ごしてしまうところに気が付くのだから、やはり関心を持つということだろう。
サルの顔の違いを見過ごしてしまうか、その違いを理解するか、と同じことだろうと思う。

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2008年2月18日 (月)

右と左の識別

専門家ですら、「右」と「左」を間違えることがあることを実例で体験したことがある。
私の故郷の裾野市に、深良用水という水利施設がある。
箱根の芦ノ湖の水を、外輪山をくり抜いた隧道を通して、流域変更をして静岡県側に流している。
江戸時代の「プロジェクトX」とも評すべき一大事業であった。
われわれは、子供の頃から、地元の深良村名主の大庭源之丞が、水不足に悩む深良村の農民を救うために思い立ち、江戸の町人の友野与右衛門が私財を投じて協力して完成した、という一種の美談として認識してきた。

また、この隧道 は、幕府が最も警護を固めていた箱根に掘られたこと、あるいはその施工技術の高さなどから、友野与右衛門は幕府によって刑死させられ、大庭源之丞も、甲州で刺殺された、などという説が流布していた。
戦後まだ間もない昭和24(1949)年に、タカクラ・テルという作家が、小説『箱根用水』を著し、それを基に映画『箱根風雲録』(監督:山本薩夫、出演:河原崎長十郎、山田五十鈴、轟夕起子他)が作られ、「闘う農民対非道な権力」という図式が、敗戦後の風潮にマッチしていたこともあって、好評を博したという。
箱根の隧道 開鑿には、美談説や階級闘争説が入り混じってさまざまに語られてはいるが、実態については余り明確なことが分かっていなかった。
その辺りを、地元の小学校の教諭の佐藤隆という人が、旧名主層の土蔵などに残されていた古文書を博捜して、開鑿史の像を構築し直した。
その成果は、『箱根用水史』わかな書房(7907)という労作として刊行されている。

佐藤さんの著書の中に、「金ほり甚右衛門」と呼ばれた者がいたこと、その他に工事に従事した地元の人間の中に、甚左衛門という者がいたことが紹介されている。
この甚右衛門と甚左衛門について、興味深い論考が、裾野市教育委員会市史編さん室『裾野市史研究第二号』(1990)に掲載されている。
秋田工業高専講師の脇野博氏の『深良用水開鑿と鉱山技術--「かねほり甚右衛門」をめぐって』と題する論文である。

脇野氏は、「かねほり甚右衛門」が登場する史料(湖水新川黄瀬川堰々方角改帳)と「甚左衛門」が登場する史料(湯山安右衛門日記覚帳)を比較対照し、次のような共通性を見出す。
・両者ともに、宝永5年の水論に際し、その裁判史料との関わりで登場する
・両者ともに、「甚右衛門口上」「甚左衛門物語」とあるように、用水に関する話をしている
脇野氏は、このような状況から、二人の人物が同一人物ではないかという作業仮説を立て、原文書にあたった。
その結果、次のような事実が判明した。

従来、「かねほり甚右衛門」と読解されてきた文字のうち、「右」に相当する字が、筆写した湯山半七郎の崩し方の特徴から、「左」と読む方が妥当であること。

佐藤氏の著書においては、「別人であると思われる」とされていた「かねほり甚右衛門」と「箱根湖水掘抜之時分かせぎに入込罷有候」人物の「甚左衛門」は、「かねほり甚右衛門」が「かねほり甚左衛門」と読むべきであるとすると、同一人物である可能性が高くなる。
そのことは、深良用水の隧道 開鑿に、鉱山技術者が従事していたことを推認させるものである。

このように専門家ですら、「右」と「左」を取り違えることがある。
そして、「右」と読むか「左」と読むかによって、その史料の意味することは当然に異なってくる。
古文書の文字は、似ているようだけど異なる場合もあれば、異なるように見えるけど同じ、という場合がある。
その判読は、典型的なパターン認識だと思う。
とすれば、書かれている文字がどの文字に相当するのか、それを識別する人工知能(古文書解読ロボット)が出来ないものだろうか、などと思う。

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2008年2月17日 (日)

判読と解読

「KY」というローマ字も、「袖布流」という漢字も、文字である(08年2月14日の項)。
文字は、第二信号を表現し、定着させるための最も重要な記号である。
われわれは、「KY」というローマ字を、「IT」や「JK」というローマ字とは異なる信号として認識する。それは、KやIやJやTという文字を識別できるからである。
同じように、「袖布流」という漢字を、「茜草指」や「野守者」や「不見哉」という漢字とは異なる信号として認識する。
しかし、誰もがこのような識別が可能だ、という訳ではない。
われわれは、学習の結果として、KとYの違い、茜と草の違いを認識できるようになったのであって、三歳児の頃には、KもYも同じように見えただろうし、茜と草も同じように見えたに違いない。

このように、文字の違いを認識する、というのは後天的に獲得した一種のスキルである。
もちろん、文字の違いの認識のスキルには、レベルの差がある。
そして、その文字の意味する内容についての理解にも、レベルの差がある。
漢字検定などは、漢字という文字の違い・その文字の違いの意味する違いを認識するスキルのレベルを判定するものであろう。
われわれは、「KY」と「JK」の文字の違いは、容易に判断することができる。
しかし、KY式日本語に馴染んでいないものには、「KY」と「JK」の意味の違いが分かるとは限らない。

「袖布流」も同じである。
そして、「袖布流」を「袖を振る」という意味だと理解しても、さらにその「袖を振る」という行為の意味が問題になる。
単に、「ここにいるよ」という合図なのか、「求愛」の合図なのか?
ことが、額田王に対しての大海人皇子(天武)の行為と想定されるので、天智天皇との関係も含め、「袖振る」の意味の理解は、歴史解釈としても重要である。
ここでは、「袖振る」が一種の記号として作用しているわけである。

つまり、文字の理解には、文字そのものの識別と、その文字の表している内容の識別の二段階があることになる。
そして、文字の表している内容については、さらにその背景の意味をどう捉えるか、ということが問題になる。
長屋王邸宅跡とされる場所から、「長屋親王王宮大鰒十編」と読むことができる木簡が出土すれば、普通は、長屋王という人物が、長屋親王と呼ばれていたのではないか、と考えるだろう(08年2月7日の項)。
そして、親王と呼ばれた人物の父親の位置づけは、どう考えるべきか、と思考が進展する。
ところが、史学会では、そういう考えが大勢にならないというのだから、不思議である。

印刷してある文字は、文字そのものの識別は比較的容易である。
茜と草は、印刷してあればもちろん、違いがあることは分かる。
しかし、達筆もしくは悪筆の場合は、茜と草の識別が難しくなるかも知れない。
古文書の読解などの場合、先ずは文字の識別に苦戦することになる。

私も、少しだけ古文書を解読する会の仲間に入れてもらったことがある。
その時の体験では、先ず、文字そのものが理解できないのである。
漢字なのか仮名なのか、あるいは一文字なのか二文字なのかが判然としない。
よく、小学校に入学したての頃のことを、「右も左も分からない頃」などと回想することがある。
古文書の読解においては、本当に、右と左の区別がつき難いのである。

2実際の例で示せば図のようなものである。
共に人名であるが、左は神「左」衛門、右は助「右」衛門である。
直接比べて見れば、左と右の違いはかなりあるようにも見える。
しかし、それぞれが独立して出てくる場合には、それが右なのか左なのか、簡単には区別がつかない。
それは、私のような初心者においては特にそうなのだけれど、かなりの専門家でも時に間違うことがあるということもある。

文字の区別がつけば、辞書を引くことが可能なのであるが、文字そのものが分からないのだから、辞書を引くことすらできない。
どういう文字であるのかを識別する段階を「判読」、その文字がどういう意味であるのかを識別する段階を「解読」というとしよう。

「邪馬台国論争」の焦点の1つに「三角縁神獣鏡」をどう理解するか、というテーマがある。
三角縁神獣鏡とは、銅鏡の縁部の断面が三角形状となった大型の神獣鏡で、古墳時代前期の古墳から多数出土している。
『魏志倭人伝』の中に、「卑弥呼が魏の皇帝から銅鏡100枚を貰った」という文章があり、「卑弥呼の鏡」と解すべきか否かが争われている。
鏡が国産ならば、「三角縁神獣鏡=卑弥呼の鏡」という仮説は崩れるだろうし、魏産ならば、「三角縁神獣鏡=卑弥呼の鏡」をサポートする有力な材料になる。

三角縁神獣鏡の中に、魏の年号が銘されたものがある。
魏の年号ならば、魏産の可能性が高くなる、というように考えられる。
中に、「景初四年」というものもあるが、魏の年号は、景初三年までしかない。
この「景初四年」をどう解読するか?
魏には存在しなかった年号なのだから、改元を知らなかった人が作ったのか、作り終えてから改元があったのか?
前者ならば、国産である可能性が高くなるし、後者ならば魏産の可能性も残る。

あるいは、埼玉県行田市の埼玉古墳群にある稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘をどう読むか?
ここでは115文字の漢字が刻まれているが、どう判読し、それをどう解読するのか?
歴史論争の多くは、史料の判読と解読の問題に帰結するといえる。

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2008年2月16日 (土)

外界からの刺激の「意味」

私たちを取り巻いている世界は、さまざまななものから成り立っている。
家があり、道があり、店があり、街がある。家の中を見れば、柱があり、畳があり、机があり、TVがある。
これらのものは、もちろん、物理的なモノとして存在している。
さらに、物理的なモノではない、制度だとか、映像だとか、文化だとか、ソフトウェアなどというようなものもある。
そして、私たちは、これらの多様なものが発する刺激を受けて、それに反応して生活し、行動している。

例えば、道を歩いていて、交通信号に出会う。
信号が赤ならば、止まって待ち、青信号ならば進む。
それは信号機の発する色の刺激を受け止め、その色がどういう意味なのかというルールに基づいて行動しているわけである。
われわれの行動は、外界における事象を、刺激として受け止め、それに対する反応と考えることができる。
刺激の受け止め方、刺激に対する反応の仕方は、行動主体によって異なる。

「手を打てば 下女は茶を汲み 鳥は立つ 鯉は寄り来る 猿沢の池」

という歌がある。
猿沢の池の茶屋の床机にもたれて手を打つと、女中さんはお茶を所望されたと思ってお茶を持ってくる。
同じ音を聞いて、鳥は驚いて飛び立ち、鯉はそれを餌をくれる合図だと思って寄って来る。
三者三様の反応である。
それは、手を打つ音が何を意味しているか、受け止める側で異なっているからである。
手を打つという信号が、女中・鳥・鯉では、意味が異なる、ということである。

有名な「パブロフの犬」という実験がある。
パブロフは、1849年生まれのロシア(旧ソ連)の生理学者で、1936年に亡くなった。
飼育係の足音で犬が唾液を分泌している事を発見し、条件反射の実験を思い立った。
犬に餌を与える時、ベルを鳴らしてから餌を与え続けると、ベルを鳴らしただけで唾液を分泌するようになる。
さらにベルを鳴らし続けると、反応は次第に消えていくが、数日後同様の実験を行うと、やはり犬は唾液を分泌する。
餌に対して唾液を分泌するのは本来備わっていた本能的な反応である。
これに対し、ベルの音に反応して唾液を分泌するのは、後天的に作り出された反応である。
つまり、ベルを鳴らすという条件によって生み出される反応であり、条件反射と呼ばれている。

犬の場合には、ベルの音という直接的な刺激に基づく反応であるが、人間の場合には、言語によって形成される反応もある。
つまり、ベルという言葉だけで同じように反応する場合がある。
この場合、ベルという言葉は、信号の信号として作用していることになる。
外界からの、音・色・形・香りなどの直接的な刺激を第一信号とすれば、言語は信号の信号だから第二信号である。

第ニ信号を持つことによって、人間は、他人あるいは歴史的な体験を、自分の体験のように捉えることができるようになった。
それは、第二信号が、記録され、保存され・再生することができるからである。
典型的な第二信号である言語は、文書として記録され、保存され、他人もしくは後世の人が読んで理解することができる。
第二信号系の発達こそが、人間と他の動物との差異を生み出してきた。

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2008年2月15日 (金)

天武天皇の出自…大芝英雄説

天武天皇(大海人皇子)を、九州王朝の皇子であったとした砂川恵伸氏の説(『天武天皇と九州王朝―古事記・日本書記に使用された暦』 新泉社(0612)は、日本古代史のアポリアに1つの解決の道を示すものと思う。
ところで、「天武天皇は九州王朝の出自である」とする説を、砂川氏よりもずっと早く提唱していた人がいたことを知った。
市民の古代・第11集」新泉社(8910)に収録されている大芝英雄『多元説を以て「天武天皇の出自」を説く』という論文である。

大芝氏は、天武天皇の出自を『日本書紀』の編述者の意志をどう読み取るか、という観点から考察する。

(孝徳紀白雉四年)
是歳、太子、、奏請して曰さく、「冀はくは倭の京に遷らむ」とまうす。天皇、許したまはず。皇太子、乃ち皇祖母尊・間人皇后を奉り、併て皇弟等を率て、往きて倭飛鳥河辺行宮に居します。

(孝徳紀白雉五年)
冬十月の癸卯の朔に、皇太子、天皇病疾したまふと聞きて、乃ち皇祖母尊・間人皇后を奉りて、併て皇弟・公卿等を率て、難波宮に赴く。

上記の孝徳紀における「皇弟」は誰を指すのか?
孝徳には、系譜上弟はいない。皇太子(中大兄)の弟とするには、孝徳紀であるからして無理がある。
皇太子の弟については、『日本書紀』の中に、「弟王」と記述されている例がある。つまり、「皇弟」と「弟王」とが区別されて使用されている。
大海人皇子は、『日本書紀』においては、孝徳の甥とされているから、「皇弟」が大海人であるとすることは容認できない。

大芝氏は、上記の問題を解決するためには、「もう一人の天皇」の存在を想定し、その「皇弟」と考える以外に、『日本書紀』編述者の意志を満足させることはできない、とする。
つまりは多元的な王朝の存在である。
『旧唐書』には、「日本は倭国の地を併す以前は小国であった」と、倭国と日本国とが別の国として記されている。

孝徳紀における「皇弟」は、『旧唐書』の「倭国の天皇の皇弟」に比定する以外に方法がない。
この「皇弟」は、天智紀においては、「大皇弟・東宮太皇弟」と表記されている。
この変化は、孝徳紀と天智紀の間、すなわち斉明の時代に、九州の倭国の天皇が崩御したことを示している。
崩御または退位した天皇を「太上皇・太上天皇・大行天皇」と称号する。先の皇后は「太后」である。
つまり、先の天皇の皇弟は「太皇弟」である。太と大は同義であるから、大皇弟も同じである。

孝徳紀の皇弟、天智紀の大皇弟は、九州倭王朝の人物として想定するのが論理的な道筋である。
そして、文脈上からして、それは大海人皇子のことである。
天武紀下における「后・妃」について、『日本書紀』の編述者は、二つの群に分けている(08年1月17日の項)。
第一群は、天智の皇女四人・鎌足臣の娘二人・蘇我臣の娘一人であり、第二群は、鏡王の姫一人・胸形君の娘一人・宍人臣の娘一人である。
第二群に、「天皇初め……」とあるから、こちらが先で、九州王朝に居たときの妃であると想定される。

天智が四人の娘、鎌足が二人の娘を皇弟に差し出してまで、関係強化を望んだのは異常であるが、それだけ大和朝において、「九州倭国皇弟」が「絶大な評価を得ていた」ことを示している。
この「絶大な評価」は壬申紀における以下の表現と相応している。
①大皇弟が吉野に至る時「虎に翼を着けて放てり」
②近江朝、大皇弟の東国入りを聞きて「群臣悉く愕ぢ京の内さわぐ。或は遁れて東国に入らんとす。或は退きて山沢に匿れむとす」

大皇弟は、全国の豪族が敬仰し従属した九州王朝の皇弟であった。
白村江敗戦後の倭国の衰退を見た天智は、九州倭王の実権を過小評価し、大皇弟を軽視するに至ったが、倭王の権威と信望は、まだ残存していたことを、近江朝の廷臣や『日本書紀』の編述者は熟知していた。
上記①、②は、大皇弟に大軍が糾合し、近江朝が孤立することを予想した表現である。

『万葉集』の次の歌は、藤原京の造営に関わるものと考えられる(08年1月4日の項)。

4260 大君は神にしませば赤駒のはらばふ田居を京師となしつ
4261 
大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を皇都となしつ

新宮都に、飛鳥人は、従来の天皇、従来の宮都とは異なる威光を見た。
それは、大和を九州と同じ倭と称して、「都」とした感慨であり、大皇弟の権威を暗に表現したものである。
大芝氏は、上記の論を「天武九州皇弟説」としている。
砂川氏は、版元からして、大芝氏の上記論文は参照しているのであろうが、独立の推論であって、互いに補強し合うものと考えられる。

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2008年2月14日 (木)

KY語と万葉語

KY語あるいはKY式日本語というものが結構流行っているらしい。
私も、「KY」程度ならば知っている。
昨年、安部前首相を形容する際に用いられていたからだ。

KY=空気が読めない

確かに、参院選で大敗したにも拘わらず居座り続け、内閣改造を行ったものの、国会で所信表明する直前にその職務を放り出してしまった安部氏の行動は(07年9月13日の項)、多くの大衆の感覚からズレていた(空気が読めない)ことは間違いないだろう。

このKYと同じようなローマ字式の略語がKY語だ。
北原保雄編著『KY式日本語―ローマ字略語がなぜ流行るのか 』大修館書店(0802)という解説書も出版された。
よく使われる例としては、以下のようなものがあるらしい。

JK:女子高生
HK:話変わるけど
MK5:マジキレる5秒前
PK:パンツ食い込む
WH:話題変更
YK:やる気満々
IT:アイス食べたい
SKN:そんなの関係ねえ
MHZ:まさかの匍匐前進

また次のようなものもあるらしい。
GHQ:勤務時間が終わるとすぐに帰宅していく人(Go Home Quickly)
AC:場の空気を乱す人(Air Crusher)
WK:白ける(白:White、蹴る:Kick)

携帯メール等においては、確かに便利だろう。
まあ、多用すると「品格」を落とすとは思うが、「日本語の乱れ」などと目くじらを立てることもないのではないか。
古代から、似たようなことはやっているのである。
間宮厚司『万葉集の歌を推理する』文春新書(0308)は、「ひらかな」も「カタカナ」もなく、漢字しかない時代の『万葉集』における表記の工夫を解読する書である。
『万葉集』は、例えば、次のような万葉仮名と呼ばれる漢字で表記されている。

0020 茜草指武良前野逝標野行野守者不見哉君之袖布流

これを次のように解読しているわけである08年2月9日の項)。

0020 あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

上記例は、われわれでも解読できないこともないだろう。
しかし、次のような例は、思わず「ウ~ム」と唸りたくなる感じである。
あらなくに」:ニクク:ニ八十一:ククは八十一だ
「恋ひ渡りなむ」:ナム:味試:味見をするにはナメる必要がある
「なほやなりな」:ム:牛鳴:牛の鳴き声はムと聞こえた
「色にば」:イデ:山上復有山:山の字を重ねれば出の字になる

KY語も顔負けの工夫ではないか。
こういう万葉仮名も、平安時代には既に難解なものになって、村上天皇の時代(951年)には、解読のプロジェクト・チームが発足したという。
そして、現在に至るも、訓が振れない歌が残っており、次の額田王の歌の例のように、それが「謎解き」的な好奇心の対象にもなっている。

009 莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣吾瀬子之射為兼五可新何本

後半部分は、どうやら「わが背子がい立たせりけむ厳橿がもと」と読むらしいが、前半部分は、専門家でもお手上げなのだという。
KY語もいずれ、どういう意味だったのかが問われる時代が来るのだろうか。

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2008年2月13日 (水)

天武の怨霊思想…砂川史学⑲

天武が怨霊とか祟りを恐れていたことは、「龍田の神・広瀬の神」を特別に祭っていることにも表れている。
『日本書紀』の記述を見てみよう。

(天武四年夏四月)
癸未に、小紫美濃王・小錦下佐伯連広足を遣して、風神を竜田の立野に祠しむ。小錦中間人連大蓋・大山中曾禰連韓犬を遣わして、大忌神を広瀬の河曲に祭らしむ。

2_4以下、表のように、頻回の両神社を祭る記事が記載されている。
天武は誰の怨霊に怯えていたのか?
大友皇子は、武力闘争によって打ち倒した相手であって、怨霊化するものではない。
ここで考えなければならないのが、「天智暗殺説」である。

天智の没年は、671(辛未)年である。
舒明崩御の641(辛丑)年に、16歳だったから天智の没年齢は46歳ということになる。
2_3古代といえども、いささか若過ぎる。老衰という年齢ではない。疫病が流行していたという状況でもない。
天智が天武に暗殺されたことが事実だとすれば、天智は怨霊化する可能性は非常に高い。
龍田神社と広瀬神社の立地は図の通りである。

天智が山科で暗殺されたとすれば、その怨霊が大和へ侵入してくるのを大和の北方で防ぐかのように、道を挟んで東西に位置している。
龍田大社・広瀬神社の社伝でっは、両社は、崇神天皇の時に創建されたとされる。
しかし、天武以前の天皇で、「龍田の風神・広瀬の大忌神を祭らせた」という記載はない。

龍田神社・広瀬神社が天智の怨霊鎮めの神社だとすると、持統が、異常なほど龍田大社と広瀬神社を祭ったことも説明できる。
天智の娘の持統は、我が子草壁を殺した高市(天皇)を呪うために、両神社を祈り祭ったのであろう。

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2008年2月12日 (火)

天武の即位年…砂川史学⑱

天武天皇の即位年については、どうだろうか?
『日本書紀』は、天武天皇の即位について、次のように記す。

(二年)
二月の丁巳の朔癸未に、天皇、有司に命せて壇場を設けて、飛鳥浄御原宮に即帝位す。

そして、その前年の壬申年を、元年として、巻二十八の大部分を、壬申の乱の記述に費やしている。
ここでも、なぜ、即位の前年を元年として記述しているのか、という疑問が湧く。
壬申の乱が勃発したのは、壬申年の六月二十二日で、大友皇子が縊死したのは七月二十三日である。
天武即位の記事は、翌・癸酉年の二月二十七日である。

大友皇子が死んでから、即位までに七ヶ月ある。
この間、天皇は空位であったのか?
『日本書紀』は、大友即位を記していない。
しかし、大友は天智の崩御の後、即位していたのではないか、とする説は多い。
実際に、明治政府は即位を認め、弘文天皇と追諡している。
大友が即位していることを認めると、壬申の乱は、天皇へ反逆した大逆罪に相当することになる。
それは、『日本書紀』の編纂方針にとって、具合が悪かったため、大友即位とは書かなかったと考えるのが妥当だと思われる。

天武の方も、戦勝してから七ヶ月後というのは、いささか間を置き過ぎているように思われる。
武力で権力を奪取した場合、争乱が収束したらすぐに即位するのが基本だろう。
天武紀の記述が、元年を壬申年としていることからしても、壬申年には即位していたと考えた方がだろうではないか?
『日本書紀』の天武元年条に、以下の記述がある。

(夏五月)
是の月に、朴井連雄君、天皇に奏して曰さく、「臣、私の事有るを以て、独り美濃に至る……」
……
是に、詔して曰はく、「朕、位を譲り世を遁るる所以は、独り病を治め身を全くして、……」

これらの文章は、天武元(壬申)年には、既に天武が天皇であったことを窺わせる。
森博達『日本書紀の謎を解く―述作者は誰か 』中公新書(9910)では、『日本書紀』の成立年代を、α群(持統時代)とβ群(文武時代)に分け、α群の述作者は中国人、β群の述作者h日本人としている。
天武紀は、β群に区分され、β群では即位後でないと天皇と表記されないことを考えれば、天武紀で天皇として扱われている上記の記述は、天武が既に即位していたことを示している。
とすれば、二月二十七日の天武即位記事は、壬申年の二月二十七日のことではないのか。
つまり、壬申年の二月二十七日から大友の縊死する七月二十三日までは、大友(弘文)天皇と天武天皇の二重政権(近江朝と吉野朝の南北朝)の時代だった可能性がある。

大海人皇子は壬申年の二月に即位していた。
『日本書紀』はこれに基づき、天武元年を壬申年として記述している。
しかし、即位日については、『日本書紀』は翌年の癸酉年としている。その理由は何か?
砂川氏は、それを怨霊思想によるものではないか、としている。
怨霊思想については、井沢元彦『逆説の日本史〈2〉古代怨霊編 』小学館文庫(9803)に詳しい。
井沢氏の説明を引用する。

一九九三年の皇太子御成婚パレードの時、パレードの直前になって雨があがった。昔の人なら、このことを天皇の「御稜威(ミイツ)」によるものだと言っただろう。御稜威とは、「霊力、御威光」のことだが、必要な時は雨を降らし、あるいは晴天を招くのも、「ミカドの霊力」なのである。
ところが、こういう「神国」でも、災害や飢饉は起こる。それはどうしてかと言えば、本来天皇の霊力で安泰なるべき国を、別の霊力で邪魔するヤツがいるからだ、と考える他はない。
それが怨霊である。
しあがって、日本の政治とは、つきつめると怨霊を鎮魂すること、になる。

唯物論的に考えれば、非科学的な思想だと言わざるを得ないだろうが、人間が他の動物と異なるの観念によって行動する、というところにある。
人間の存在の仕方をどう考えるかは人によりけりだろうが、現代ですら、例えば昭和41(1966)年の出生率が極端に低かったことに示されるように、丙午の迷信が、事実として社会的な影響力を持っているのである。
科学の未発達な古代において、怨霊の影響力を信じていたことは不思議ではない。
天武が大友の没年に即位したにもかかわらず、翌年に即位したように記述しているのは、大友の死穢を避けるとか、大友の霊の怨霊化を避けるというような、怨霊思想によるものと考えられる。

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2008年2月11日 (月)

天智の即位年…砂川史学⑰

天智天皇の即位について、『日本書紀』は以下のように記述する。

七年の春正月の丙戌の朔戊子に、皇太子即天皇位す。(或本に云はく、六年の歳次丁卯の三月に、位に即きたまふ。)

天智天皇は、斉明天皇が崩御した後に、称制という形で執権した。
即位前紀には、次のようにある。

七年の七月の丁巳に、崩りましぬ。皇太子、素服たてまつりて称制す。

この七年は、斉明七年の辛酉年(661)である。この年が、天智称制の一年目ということになる。
『日本書紀』は、その翌年の記事を次のように始める。

元年の春正月の辛卯の朔丁巳に、百済の佐平鬼室福信に、矢十万隻・糸五百斤・綿一千斤・布一千端・韋一千張・稲種三千斛賜ふ。

この時、天智はまだ即位していず、皇太子のまま称制していたはずである。
それがなぜ元年か?
天智が天皇位に即つくのは、上記のように、七年(668年)の正月になってからである。
『日本書紀』は、なぜ称制二年目・壬戌を元年としたのか?
そこで、或本にある「歳次干支」の記述が重要になってくる。

「六年歳次丁卯の三月」は、「称制六年、歳次丁卯」であろう。
そして、この場合の歳次は丁卯を次ぐ歳(前年)であり、それは丙寅年ということになる。
つまり、丙寅が称制六年ならば、丙寅(6)←乙丑(5)←甲子(4)←癸亥(3)←壬戊(2)←辛酉(1)だから、辛酉が一年ということになる。
『日本書紀』は、元年を前天皇の没年の翌年にする踰年元年の編述方針をとっている。
天智の称制が、称制元年は斉明没年と重なっているが、称制は即位とは異なるという扱いで、踰年とはしなかったのであろう。
とすれば、編述の大方針に抵触するものではない。

『日本書紀』は、天智の即位を戊辰年としている。普通は、この即位年の戊辰年が元年とされるべきだろう。
2_2しかし、斉明崩御の踰年の称制二年目の壬戌年を元年とし、即位年を天智7年とする書き方をしている。
或本のいう即位年は、『日本書紀』が天智五年としている丙寅年であり、これが真実の天智の即位年である可能性が高い。
つまり、『日本書紀』と或本の記述の関係は、図のようになっているのではないか。
天智元年が、斉明没年の踰年にされているのは、天智の在位年数を長く表現することによって、天智の怨霊を鎮めようとする意図があったのかも知れない。

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2008年2月10日 (日)

上代特殊仮名遣いの消滅…砂川史学⑯

奈良時代には、清音60音と濁音27音の計87音が存在した。
さらに、『古事記』においては、「も」も二種類に書き分けられており、『古事記』が撰録された712年頃までは、88音の区別が存在したと考えられる。
そして平安時代の文献・資料等について検討すると、甲・乙の別が失われ、68音へと20音が消滅した。
奈良時代の84年の間に、20音が消滅するという音韻上の大変化が起きたことになる。
この事実をどう解釈するか?

砂川恵伸氏は、それを「大海人皇子が九州王朝の皇子だった」という視点から説明する。
砂川氏は、古田武彦氏の論証に基づき、7世紀末まで、倭国を代表する権力は、九州王朝だったとする。
その九州王朝の言葉は、早くから中国語あるいは朝鮮語の影響を受け、倭人語の中で、早い時期から音韻変化を生じていた。
これに対し、近畿地方は、7世紀後半までは倭国の一地方に過ぎず、中国語・朝鮮語にさらされる機会は少なかった。
つまり、近畿地方の言葉は、7世紀末葉まで、倭人語の古型を保持し、それが『古事記』にみられる88の音韻であった。

白村江の戦いにおいて、倭・百済連合軍は、唐・新羅連合軍に、壊滅的な大敗北を喫した。
その倭国の本体は九州王朝であり、筑紫に留まっていた大海人皇子は、唐・新羅連合軍が、一挙に攻め寄せてくるかも知れない、と想定せざるを得なかった。
そこで、大海人皇子は、残存していた部隊をまとめて、近畿大和に移動した。
唐・新羅連合軍を、筑紫でなく、近畿大和でなら迎え撃つこともできるだろう。

大海人皇子は、かなりの人数を率いて筑紫から近畿大和へ移ったと考えられる。
それが、近畿地方の音韻を大きく変える原因となった。
大海人皇子が連れてきた人たちは、天武朝において、さまざまな部署の主要な位置についたと考えられる。
倭人語としての古型を留めていた大和語は、天武朝の頃から変化しだし、奈良時代に変化がはっきりした。
大海人皇子は、音韻を変える程の勢力を率いて近畿入りしたから、壬申の乱に勝利することができたとも見ることができる。

『古事記』に見られる「も」の書き分けが、8年後の『日本書紀』において失われているのは何故か?
『古事記』の撰録者である太安万侶は、1979(昭和54)年に発見された墓誌によれば、癸亥年が没年齢であるが、この癸亥は723年である。
没年齢すなわち生年は不明であるが、没年齢を60歳と仮定すれば、壬申の乱の年には9歳だったことになり、近畿大和の出身であるならば、88音の音韻を聞き分けて育ったことになる。
一方、『日本書紀』の編纂の主宰者である舎人親王は、天武天皇の皇子である。
九州筑後出身の天武には、「も」の使い分けができなかっただろう。子供の舎人親王も同様であり、それが『古事記』と『日本書紀』のわずか8年の間に、「も」の使い分けが消失した理由だと考えられる。

奈良時代を通じて、支配者である天武一族の筑紫なまり、甲・乙の区別のない言葉が、優位を占めるようになった。
その結果、平安朝に入る頃には、甲・乙の音韻は統合されて、一音になった。
つまり、九州王朝の皇子だった大海人皇子が、白村江の大敗後に近畿大和に移動したことが、「上代特殊仮名遣い」を消滅させたのである。

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2008年2月 9日 (土)

上代特殊仮名遣い

日本語の音韻については、奈良時代初期までは88音であったものが、平安朝初期には68音に減じてしまったことが知られている。
奈良時代には、漢字の音を借りて日本語を表記した。
例えば、「阿」という漢字の音「あ」を借りて、日本語を記述した。
その場合、「阿」という漢字の持つ意味、「おか」とか「くま(山や川が曲がって入りこんだ所)」とか「おもねる」というような要素は無視している。

同じ「あ」の音を表記するのに、「阿」だけでなく、「安」「吾」「我」なども用いられた。
「い」などその他の音にも、漢字が当てられ、例えば「君=きみ」を表記するのに、「岐美」「伎弥」「吉民」などと書かれた。
つまり、漢字を仮名と同じように使っているわけである。
『万葉集』などに数多く用いられていることから、万葉仮名と呼ばれている。
例えば、額田王の次の歌には、数多くのファンがいると思う。

0020 あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

この歌の表記は、以下のように漢字だけによって書かれている。

0020 茜草指武良前野逝標野行野守者不見哉君之袖布流

2そして、例えば、「こ」という音を表記する場合、「古」とか「許」の漢字が使用されているのだが、「古」と「許」は、使い方が厳密に分けられている。
例えば「彦」という言葉を記す時には、「古」が用いられるが、「許」は決して用いられない。
江戸時代の本居宣長によって発見され、弟子の石塚龍磨によって奈良時代の文献が精査され、『仮字遣奥山路』として取りまとめられた。
石塚の調査結果をさらに精緻化したのが、東京大学の橋本進吉博士で、「い」「え」「お」段には、甲・乙二種類の書き分けがあるという結論を得た。

2_2 この奈良時代における書き分けを、「上代特殊仮名遣い」といい、書き分けを、橋本博士の命名に従い、甲類乙類と呼んで区分している。
私たちは、甲類・乙類というと、何やら焼酎の区分のように思うが、この使い分けの発見と整理は、古代史の研究において、非常に重要な位置を占めている。
例えば、邪馬台国論争で、九州説の有力候補地とされた筑後山門の「門」は甲類の「と」であり、近畿大和を示す「夜麻登」の「登」は乙類の「と」である。
「魏志倭人伝」の「邪馬台国」の「台」は、乙類の「と」に分類される文字であるから、筑後山門説は否定され、邪馬台国近畿大和説にとっては有利な根拠の一つになる。

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2008年2月 8日 (金)

高市即位論(ⅱ)…関裕二説

『万葉集』に、柿本人麻呂が高市皇子を悼む歌がある。
149句に及ぶ異例の長さであり、『万葉集』中の最長の歌として知られる。
前半は、壬申の乱での活躍ぶりを讃え、後半は死を悼む挽歌である。

  高市皇子尊の城上の殯宮の時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首並に短歌
0199 かけまくも ゆゆしきかも……しかれども わが大王の 萬代と 思ほしめして作らしし 香具山の宮 萬代に 過ぎむと思へや 天のごと ふり放さけ見つつ 玉だすき かけて偲ばむ 恐かれども

<参考訳>
言葉にするのも慎みたく、言うこともまことに恐れ多い。……しかしながら、わが高市皇子が、万代までもと念(おも)って作られた香具山の宮殿が、永久に朽ち果てることがあると思うか。天を仰ぐようにふりかえり仰いで見ながら、心にかけてお偲びしよう。恐れ多いことだが。
http://sylphid.exblog.jp/2892484/#2892484_1

「香具山の宮」とは、藤原宮のことである。
人麻呂は、「わが大王」=高市皇子は、永遠の都と考えて藤原宮を作らせた、と歌っている。
しかし、藤原宮を作らせたのは、持統天皇だったのではないのか? 
また、「わが大王」という表現は、天皇に対しても、皇子に対しても使うが、この場合は天皇の意味として使われているのではないか?
というのは、上記の引用の前に、天武のことを表現した次の句がある。

神さぶと 岩隠ります やすみしし わが大君の

<参考訳>
神々しくお鎮まりになっている天皇(天武)の

つまり、天武についても同じように「大王」と表現されていて、差がない。
平城京の長屋王の邸宅跡から、「長屋親王王宮大鰒十編」と墨書された木簡が出土したことは前記したが、関氏によれば、『日本霊異記』にも「長屋親王」とある(『謎の女帝・持統』)。
長屋王が、なぜ長屋親王と呼ばれたのか?

一つの考え方は、長屋王が特別扱いをされた、ということである。
霊亀元(715)年2月に、長屋王の室・吉備内親王所生の男女は皇孫の列に入れるという勅が出されている。
その父の長屋王は、子が皇孫に入れられたことから、「親王」の称号を与えられたのではないか。
しかし、関氏は、『続日本紀』はそのことを記していない。
『続日本紀』は、長屋王が冤罪で殺されたことを認めていながら、「親王」の「親」の字を消しているのである。

『続日本紀』は、長屋王が謀反の廉で密告されるのを次のように記す(宇治谷孟現代語訳)。

(天平元年)
二月十日 左京の住人である従七位下の漆部造君足と、無位の中臣宮処連東人らが「左大臣・正ニ位の長屋王は秘に左道(邪道。ここでは妖術)を学び国家(天皇)を倒そうとしています」と密告した。天皇はその夜、使いを遣わして三関(鈴鹿・不破・愛発)を固く守らせた。またこのため式部卿・従三位の藤原朝臣宇合・衛門佐の従五位下の佐味朝臣虫麻呂・左衛士佐の外従五位下の津嶋朝臣家道・右衛門士佐の外従五位下の紀朝臣佐比物らを遣わして、六衛府の兵士を引率して長屋王の邸を包囲させた。

「左道を学び」というのは、ほとんど言いがかりに過ぎない。
一方で、長屋王の邸を包囲する行動は、迅速である。
やはり、長屋王は親王であって、藤原氏の謀略の犠牲者だったと考える方が自然だろう。
高市皇子が亡くなったとき、持統天皇は群臣を集めて皇太子の問題を論議させたが、「衆議粉紜」でなかなか決まらなかった。
そのとき葛野王が次のように発言したと『懐風藻』に記されている(07年9月11日の項)。

我が国家の法たるや、神代より以来、子孫相承けて天位(皇位)を襲(ツ)げり。もし兄弟相及ぼさば則ち乱これより興らん。……然して人事を以ちて推さば、聖嗣自然に定まれり。この外に誰か敢えて間然せんや。

日本では古来から直系相続が行われており、兄弟相続は争いのもとになる、というような意味である。
葛野王は天武の皇子が立太子することを非難しているのであるが、持統にとっては義理の息子たちが立太子することは兄弟相続ということにはならない。
しかし、(持統は皇太后で)高市皇子が天皇だったとすれば、葛野王が兄弟相続を非難したことの意味が理解できる。
『日本書紀』は、持統十年七月の条に、「庚戌に、後皇子尊薨せましぬ」と書くだけであるが、『万葉集』や『懐風藻』からは、高市が即位していたニュアンスが覗われることは否定できない。

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2008年2月 7日 (木)

高市即位論(ⅰ)…砂川史学⑮

1988年に、長屋王の邸宅跡から、「長屋親王王宮大鰒十編」と墨書された木簡が出土した。
「親王」という呼称は、「天皇の兄弟か、あるいは天皇の男の子」を指す。
長屋親王と墨書された木簡が出土している以上、長屋王の父親は、天皇だったということになる。
つまり、高市皇子は天皇だったはずである。
しかし、現在の通説では、高市皇子は天皇だったとは認められてない。

砂川氏の論においては、高市皇子は、大海人皇子(天武天皇)が、九州王朝の皇子として、筑紫にいた時に生まれた子供である。
663年(癸亥)の倭・百済連合軍の白村江での大敗後、筑紫から近畿大和に逃れてきた。
九州王朝の筑紫の都は大宰府である可能性が高い。
大宰府都府楼跡には、都城制の遺構が出てくるはずである、というのが砂川氏の仮説である。

高市皇子は、『日本書紀』が持統が即位したとする持統四年に、天皇位に即いた。
そして、筑紫の都を模して、藤原宮の建設を始めたのではないか。
持統四年十月条に以下の文章がある。

壬申に、高市皇子、藤原の宮地を観す。公卿百寮従なり。

「公卿百寮従なり」という言い方は、天皇に対して用いる表現ではないのか?
藤原宮の造営は、天皇・高市によって始められた。

高市皇子が亡くなった持統十年の翌年(十一年)には、次の文章がある。

三月の丁酉の朔甲辰に、無遮大会を春宮に設く。

「無遮大会」とは、「国王が施主となり、僧俗貴賎上下の区別なく供養布施する法会」と考えられている。
天武天皇のために、持統即位前紀十二月、持統二年春正月、持統七年五月、持統七年九月に行われている。
それでは、持統十一年の「無遮大会」は、誰のために行われたのか?
直前の死亡記事から推測すれば、高市皇子のため、という蓋然性が高い。
「無遮大会」が行われるのは、前天皇か皇太后もしくは聖徳太子級の特別な人である。
とすると、やはり、高市皇子は即位していたと考えるべきではないのだろうか。

『日本書紀』は、持統が頻回の吉野行幸を行ったことを記している。
もし、持統が天皇に在位したまま、これらの吉野行幸を行っていたとすると、政治の運営に支障を来たすことになるのではないか、と考えられる。
しかし、持統の度重なる吉野行幸が、何らかの混乱をもたらした雰囲気はない。
持統が天皇でなかったとすれば、それは当然のことである。
「元皇后」の立場であるとするならば、行動を束縛されるような政務などは無かったはずである。

天武の容態が深刻化した時、高市皇子はどういう気持ちでいただろうか?
倭国の支配者である九州王朝の後継者は自分である、ということではなかったか?
天武は、皇位継承権の順位を、持統皇后の子供の草壁皇子を第一に、大田皇女の子供の大津皇子を第二位とした。
それは、近畿大和においては、九州王朝の皇子といえどもよそ者であって、在地勢力との融和が必要だったからであろう。
天武が天智の娘を四人も妃に迎えたのも、近畿大和の勢力と結びつき、天智系を標榜する反天武勢力が復活するのを防ぐためだったのではないか。

高市皇子からすれば、大津皇子や草壁皇子の母親は、片田舎の近畿大和の卑しい女(天智の娘)に過ぎない。
倭国の支配者の正統な血筋を有する自分が、なぜ後塵を拝さなければならないのか?

天武の崩御直後に、成人していた大津皇子を「謀反を企んでいる廉」で亡き者にしたのは高市皇子であろう。
そして、しばらく時間をおいてから、草壁皇子を攻め滅ぼした。
砂川氏の推論では、天武崩御の年には、草壁はまだ一五歳で、大津はニ五歳だった。
大津の排除は、高市にとっては喫緊の命題だったはずである。
天武が亡くなって動揺している鸕野讃良皇女に、高市皇子は、「大津皇子が謀反を企んでいる」と讒言し、鸕野讃良皇女は大津皇子を自殺に追い込んだのだろう。
大津皇子を亡き者にした三年後の持統三年(称制四年)、高市皇子は草壁皇子を攻め滅ぼした。
そして、持統から称制位を剥奪して、天皇位に即いた。

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2008年2月 6日 (水)

文武の父は?…砂川史学⑭

砂川氏の推論のように、草壁皇子が18歳(満年齢で16歳10月)で亡くなったとすると、文武の父は誰だったのか?

宇治谷孟現代語訳『続日本紀〈上〉』講談社学術文庫(9206)の元明即位前紀に以下の記述がある。

元明天皇は、幼名阿閉皇女、天智天皇の第四皇女である。母は宗我嬪といい、蘇我山田石川麻呂大臣の娘である。日並知皇子(天武天皇の子、草壁)にとつぎ文武天皇を産まれた。慶雲三年十一月、文武天皇は病に陥り、始めて母に位を譲る気になられたが、天皇(元明)は謙譲の心で固辞して、受けられなかった。慶雲四年六月、文武天皇は崩御された。

この記述に従う限り、文武の父が草壁であることは疑う余地がない。
しかし、草壁は妃を迎えるような年齢に達する前に亡くなった。
砂川氏は、元明の誕生年を以下のように推測する。
『続日本紀』における元正紀・養老五年十二月条に、以下の記載がある(上掲書)。

十二月六日、太上天皇が重体となられ、天下に大赦を行ない、京中の諸寺で経典の転読を行わせた。
十二月七日、平城宮の中安殿で太上天皇は崩御された。時に御年六十一歳であった。

養老五年は、721年の辛酉であり、元明天皇は、661年の辛酉年(斉明7年)に生まれたことになる。
2_2鸕野讃良皇女(持統)は辛亥年の生まれだから、元明は持統の10歳下の妹ということになる。
草壁皇子は壬申年の生まれだと推測されるから、元明は草壁の11歳年上となる。
16歳の草壁との間に、27歳の元明(阿閉皇女)が、子供を設けていたというのは考え難いだろう。
元明天皇が亡くなって葬られる時に、草壁皇子の墓に合葬されていない。それを不審とする説がある。
しかし、元明(阿閉皇女)が草壁の妃でなかったとすれば、合葬されないのは当然である。

とすると、阿閉皇女の夫は誰だったのか?
軽皇子(文武天皇)の父は誰なのか?
つまり、図の「?」が誰であるのか、である。
子供が天皇になるのに不自然ではないのは誰か?

天武の皇子の中の誰か、という可能性が最も高い。
草壁と大津ではない誰かである。
壬申の乱の時に、文武の母の元明(阿閉皇女)は12歳であった。
高市皇子は29歳で、図の「?」として相応しいのは、高市皇子ではないのか?

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2008年2月 5日 (火)

天武崩御時の三皇子…砂川史学⑬

『日本書紀』の天武元年六月条に、高市皇子に関して、以下のような記述がある。

(丙戌:26日)
是に、天皇、雄依が務しきことを美めて、既に郡家に到りて、先ず高市皇子を不破に遣して、軍事を監しむ。
(丁亥:27日)
爰(ココ)に天皇誉めて手を携りて背を撫でて曰はく、「慎め、不可怠」とのたまふ。因りて鞍馬を賜ひて、悉くに軍事を授けたまふ。
(己丑:29日)
天皇、和蹔に往でまして、高市皇子に命して、軍衆に号令したまふ。

丁亥の言葉は、大海人皇子が、近江の朝廷には左右の大臣や智略にすぐれた群臣がいるけれど、自分には幼少の者がいるばかりで、事を謀る人間がいない、と高市皇子に嘆いたのに対し、高市皇子が、近江に群臣があろうとも、自分が勅命を受けて戦えば、敵は防ぐことができないでしょう、と答えたことに対する大海人皇子の言葉である。
これらの記述からは、高市皇子が大海人皇子に任された軍の指揮に、十分応えていることが窺われる。
この時、高市皇子は何歳だったか?

坂本太郎他校注のワイド版岩波文庫では、丁亥の日に大海人が自分には幼少の者しかいない、と嘆いたとき、「最年長の高市皇子でさえ、この時十九歳と推定される」と注釈されている。
『日本書紀』では天武の没年が何歳だったのか不明であるが、『一代要記』や『本朝皇胤紹運録』などに記されている65歳を正しいとすると、天武の没年は天武15(西暦686)年の丙戌年だから、誕生年は壬午年で、壬申年には51歳だったことになる。

天武(大海人皇子)が最初の妃を娶ったのが20歳の頃だとする。額田王である。
天武の第一子の十市皇女は、天武21歳の頃の生まれであり、高市皇子は十市皇子とは異母姉弟であるが、天武23歳の頃の子と推定される。
天武の誕生年を壬午年とすれば、23歳は甲辰年で、高市皇子は、壬申年には29歳ということになる。

草壁皇子が壬申年の生まれだとすれば、天武の没年には15歳だった。
大津皇子が壬戌年の生まれたとすれば、天武の没年には25歳だった。
25歳の大津をさしおいて、15歳の草壁を即位させるわけにいかないだろう。
そのために、皇后の鸕野讃良皇女(持統)が、大津皇子を「謀反の廉」で亡き者にした。
しかし、15歳の草壁皇子をそのまま即位させるわけにはいかなかっただろう。
高市皇子は、坂本太郎他校注のように、壬申年に19歳だったとしても、天武没年には33or34歳になっており、壬申の乱においても立派な活躍をしている。
鸕野讃良皇女としては、草壁を天皇にするためには、草壁が成人するまでの期間を、自分が頑張らなければならない事情があったことになる。

草壁皇子の誕生年を、『日本書紀』に記載されている通りに、天智元年の壬戌年とすると、天武没年には25歳であり、翌年の踰年には26歳になるから、皇太子に指名されていたことも含めて考えれば、即位に支障があるとは考えられない。
にもかかわらず、鸕野讃良皇女が称制して実権を握った。
関裕二氏は、『謎の女帝・持統』ベスト新書(0202)で、吉野裕子『持統天皇』人文書院(8712)の、鸕野皇女の大津・草壁殺害説を引用するが、それではやはり異常すぎるのではないか。

草壁皇子が、天武没年には15歳であり、18歳(満年齢で16歳10月)で亡くなったとする砂川氏の推論であれば、鸕野皇女の行動も不自然ではなくなる。
砂川氏は、草壁皇子が亡くなった時、鸕野皇女は、大きな挫折感に見舞われ、生きる意欲すら失うほどだっただろうと推測する。
草壁を即位させるための称制位からも降りてしまったのではないか。
『日本書紀』が、鸕野讃良皇女が天皇に即位したとする庚寅年に、逆に称制位から降りたのではないか。

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2008年2月 4日 (月)

持統天皇…(ⅴ)砂川史学⑫

持統・鸕野讃良皇女の誕生年は何時か?
通説では、大化元年つまり645年の乙巳の年とされている。
関裕二『謎の女帝・持統』ベスト新書(0202)でも、645年生まれとした上で、「そこに、この時代の業を背負わなければならなかった宿命」を感じるとしている。
しかし、砂川氏は、『日本書紀』には、持統・鸕野讃良皇女の誕生年に関する記述はなく、645年誕生説は誤りである、としている。

大化元(645)年に、鸕野皇女の父の中大兄皇子は20歳である。
鸕野皇女は第二子とされているから、姉の大田皇女が生まれたのは、中大兄皇子が18歳の頃となるから、いささか若いと思われる。
大田皇女と鸕野皇女の母親の遠智娘は、蘇我倉山田石川麻呂の娘であり、中大兄皇子が17歳で遠智娘を妃に迎えたとする。
とすると、中臣鎌足が蘇我入鹿誅滅のために中大兄皇子にアプローチしたのが16歳の時とすれば、舒明が亡くなった年ということになり、蘇我入鹿が専横を極めて鎌足が動き出したとするには、時間が短すぎる。
つまり、645年の乙巳の年に鸕野皇女が生まれたとすることについては、否定的にならざるを得ない。

大化元(645)年の乙巳年に生まれたのは、大田皇女ではなかったのか。
天智七年二月条に、鸕野皇女の弟として、建皇子がいて、唖であったと書かれている。
斉明四年五月条に「皇孫建王、年八歳にして薨せましぬ」という記述がある。
斉明四年は、戊午年で、その年に八歳だったとすると、生まれたのは辛亥年であり、鸕野皇女の誕生年は、その前年(庚戌年)以前ということになる。
つまり、庚戌年が鸕野皇女の誕生年の下限ということになる。

大田皇女が、大化元(乙巳)年だとすると、鸕野皇女の誕生年の上限は、乙巳の翌年の丙午年ということになる。
中大兄皇子は、舒明の殯で16歳で誄をしたとされれる。
この年は辛午年で、中大兄皇子は、丙戌年の生まれである。乙巳の大化元年には20歳であり、遠智娘を妃に迎えたのは、その1年前辺りと推測される。
大田皇女が生まれ、婿舅として親密性が高まった頃、中大兄皇子は、蘇我倉山田石川麻呂に入鹿暗殺計画を持ちかけたのではないか。

「乙巳-丙午-丁未-戊申-己酉-庚戌-辛亥」であるから、乙巳年に大田皇女が、辛亥年に建王(皇子)が生まれたとすれば、鸕野皇女は、丁未・戊申・己酉あたりが妥当ということになる。
しかし、乙巳の変という大事件を想定すれば、後半の戊申か己酉の方が蓋然性が高いと考えられる。
己酉とすれば、大田皇女より4歳下ということになる。

『日本書紀』の下記の記事は疑わしい、とした。

天命開別天皇の元年に、草壁皇子尊を大津宮に生れます。

しかし、鸕野皇女が大海人皇子に嫁いでから(斉明3年)、草壁皇子が生まれるまで(天智元年)の期間は正しいと考えることもできる。
大田皇女は、斉明6年に大海人皇子の妃となった。大田皇女は乙巳年の生まれであり、鸕野皇女は大田皇女の4歳下と想定したから、天智4年に17歳で大海人皇子の妃になり、その5年後に草壁皇子を生んだ。
とすると、天智4年は乙丑であり、丙寅-丁卯-戊辰-己巳-庚午-辛未-壬申だから、草壁皇子の誕生は庚午年となって、壬申の乱の時に生まれたとする推測と齟齬を来たす。

しかし、天智七年の建皇子の記述には、「或本に云はく」として、「遠智娘、一の男・二の女を生めり。其の一を建皇子と曰す。其のニを大田皇女と曰す。其の三を鸕野皇女と曰すといふ」という文がある。
或本という形で真実を述べるというのが『日本書紀』の一つの手法のようでもある。
或本の表現を正しいとすると、鸕野皇女の誕生年は、建皇子の誕生年(辛亥)は鸕野皇女の誕生年ということになって、大田皇女より6歳下ということになる。
鸕野皇女が17歳になるのは天智6年であり、その年に大海人皇子の妃となったとすれば、その5年後の壬申年に草壁皇子が生まれたということになる。

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2008年2月 3日 (日)

草壁皇子と大津皇子…砂川史学⑪

『日本書紀』の持統天皇即位前紀に、草壁皇子の生誕記事がある。

天命開別天皇の元年に、草壁皇子尊を大津宮に生れます。

砂川氏の推論のように、斉明七年の一月には大海人皇子は筑紫におり、三月二十五日以降は大田皇女が筑紫にいたとする。
唐・新羅連合軍との戦いの前線である筑紫に、妃を二人も三人も呼び寄せられるものであろうか? 
つまり、鸕野讃良皇女(持統)は、筑紫にいなかったのではないか。
とすれば、天智元年に草壁皇子が生まれたとする記事は、疑ってみる必要がある。

『万葉集』の次の歌は、額田王の秀作として有名である。

0008 熟田津に船乗せむと月待てば潮もかなひぬ今はこぎ出でな

この歌には次のような左注が記されていて、その解釈を巡って論議がある。

右は、山上憶良大夫の類聚歌林を検するに曰く、飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑、九年丁酉十二月朔壬午、天皇と、大后と、伊豫の湯の宮に幸しき。後岡本馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅、御船西に征き、始めて海路に就きたまひき。庚戌、御船伊豫熟田津の石湯の行宮に泊てき。天皇、昔日より猶存れる物を御覧して、當時忽に感憂の情を起したまひき。このゆゑに歌詠を製りて哀傷みたまひきといへり。すなはちこの歌は、天皇の御製なり。但、額田王の歌は別に四首あり。

「額田王の歌は四首あり」とあるが、『万葉集』には、次の0009に額田王の作れる歌が一首と続けて中皇命の歌が三首掲げられている。
つまり、上記の左注の意味が良く分からないのである。
加えて、0009の歌は、未だに訓が定まっていない難解な歌としても有名である。

この歌を、左注の文章を素直に解釈して、斉明天皇の作った歌だとすれば、斉明の一行は、難波を出発した二日後に大田皇女の出産のために、岡山県の邑久に滞在し、その後伊豫の熟田津に立ち寄り、石湯で静養して、筑紫に向けて出発した。
『日本書紀』の斉明七年条に、「三月の丙申の朔庚申に、御船、還りて娜大津に至る」とあるから、大田皇女は大海人皇子と再会を果たしたことになる。

この年の七月に、斉明は崩御する。
そして、翌年が天智(称制)元年である。
つまり、大田皇女は、早ければ天智元年には娜大津で子供を生む可能性がある。
とすれば、662年の壬戌年に生まれたのは、名前からしても大津皇子ではないのか?

『日本書紀』の天武元年の六月条に、天武が東国に脱出するに際し、皇后(鸕野讃良皇女)を輿に載せた、という記事がある。
皇后は、なぜ輿に載せて運ばなければならなかったのか?
砂川氏は、この時皇后は妊娠していた。そして、「屋一間を焚きて、寒いたる者を熅しむ」とあるのは、皇后が出産したことを意味していると解釈している。
「寒いたる者」とは、お産をすませた皇后・鸕野讃良皇女のことであるというわけである。
さらに、この時生まれたのが、草壁皇子ではないのか、というのが砂川氏の推測である。
つまり、『日本書紀』の記述と異なり、草壁皇子は壬申の年に生まれた。

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2008年2月 2日 (土)

高市皇子…砂川史学⑩

砂川氏は、「持統が天皇ではなかった」ことを示す史料として、『懐風藻』を挙げる。751年に成立した日本最古の漢詩集である。
その『懐風藻』の中の葛野王の項に、次のような記述がある。

高市皇子薨りて後に、皇太后王公卿士を禁中に引きて、日嗣を立てむことを謀らす。時に群臣各私好を挟みて、衆議紛紜なり。
……
王子叱び、乃ち止みぬ。皇太后其の一言の国を定めしことを嘉みしたまふ。特閲して正四位を授け、式部卿に拝したまふ。

『日本書紀』において、高市皇子が亡くなったのは持統十年七月十日であり、持統が譲位したのは持統十一年の八月一日であるから、高市皇子が亡くなったとき、持統は天皇だったはずである。
しかし、『懐風藻』は、持統を皇太后と記していて、持統は天皇ではないとしていることになる。
関裕二氏も、『謎の女帝・持統』において、この一節に触れている。
そして、「皇太后」とは、「当代天皇の母、または先帝の皇后におくられた称号。女御などで、生んだ親王が即位した場合にもいう」という定義を引用し、この時持統は天皇ではなかった、とする。
『日本書紀』の持統十年の時点で、持統が即位していなかったとすれば、それ以前に即位していたという可能性も著しく低いと考えるべきであろう。
つまり、持統は天皇になったことはなかった。

08年1月17日の項で、『日本書紀』天武二年正月条に記されている天武の系譜を紹介した。

天皇、初め鏡王の女額田姫王を娶して、十市皇女を生しませり。次に胸形君徳善が女尼子娘を納して、高市皇子命を生しませり。

この記述からすれば、天武の最初の妃は額田王であり、次が尼子娘である。
砂川氏は、大海人皇子は九州王朝の皇子であり、近畿大和の天皇家との接点は、斉明六年に九州王朝の大使として近畿大和に赴いたときだとし、そのとき大田皇女を妃とした。
額田王と尼子娘は、大海人皇子が筑紫にいた時の妃である。
額田王は、万葉歌人として有名であるが、その系譜については未詳とされている。
近畿大和の範囲には、額田王の父・鏡王にうまくフィットする人物が存在しないということである。
また、尼子娘の父は、胸形君徳善とあるから、福岡県宗像市と関係のある人物と推定される。
鏡王、胸形君徳善は、いずれも筑紫に関連する人物であり、その娘たちも筑紫に居たことになるわけである。

上掲文章に続いて、次の文がある。、

次に宍人臣大麻呂が女カヂ<木偏+穀旁>媛娘、ニの男・二の女を生めり。

この、次に宍戸臣大麻呂と続く文章は、素直に解釈すれば、「尼子娘の次は……」であるから、そうだとすれば、大田皇女は、天武の四番目の妃ということになる。

ところで、上記の持統十年七月十日の高市皇子の薨去は、『日本書紀』の以下の文章によっている。

庚戌に、後皇子尊薨せましぬ。

この後皇子尊が高市皇子だとされているわけであり、高市皇子という固有名詞が明示されているわけではない。
持統紀には、二人の尊がいる。
一人は、草壁皇子尊である。
とすれば、後皇子尊は、草壁皇子の後を継いだ皇子と考えられる。つまり持統朝で太政大臣を務めた高市皇子のことだとするのが通説である。
07年9月11日の項で触れたように、「後皇子」や「尊」の表記は謎めいている。
さらに、『日本書紀』に軽皇子(文武天皇)の立太子の記事がないことも大きな不審点である。
『続日本紀』には、持統十一年に立太子記事があるので、壬申の乱以来大きな存在感を持っていた高市皇子の薨去によって、立太子できる状況になったのだろうと推測されている。

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2008年2月 1日 (金)

持統天皇…(ⅳ)砂川史学⑨

「持統は即位していなかったのではないか?」
関裕二氏の大胆な仮説であるが、砂川恵伸氏もまったく別の視点から、同じ推論結果を得ている。
天武天皇と九州王朝』新泉社(0612)の第二章は「天皇ではなかった持統と抹殺された高市天皇」と題されている。
砂川氏の推論は、干支をベースとしている。

先ず、『日本書紀』持統八年三月条に出てくる「(持統)七年、歳次癸巳」が、「持統七年、歳は癸巳に次(ヤド)る年=持統七年は癸巳年」の意味ではないことを証明する。

(持統八年)夏四月の甲寅の朔戊午に……。庚申に、吉野宮に幸す。丙寅に……。丁亥に、天皇、吉野宮より至(カヘリオハ)します。庚午に律師道光に贈物贈ふ。
五月の癸未の朔戊子に……

この記載において、持統が吉野宮から戻ったという丁亥の日は、四月朔日が甲寅ならば四月三四日になってしまうが、その後の「五月の癸未の朔……」とあることを併せれば、丁亥が四月の日の干支であることは明らかである。
つまり、四月の丁亥はあり得ない日ということになる。
ということは、直前の持統八年三月条の「持統七年、歳次癸巳」は、「持統七年は癸巳の年」の意味ではなく、「歳は癸巳を次ぐ=癸巳の前年=壬辰年」か、「歳は癸巳に次ぐ=癸巳の翌年=甲午年」のいずれか、ということになる。

天智紀における歳次の用法は、歳次干支を、「干支の前年」の意味で使用しており、持統紀の歳次干支も干支の前年の意味で使用されていると考えられる。
2とすれば、持統八年三月条の「七年、歳次癸巳」は、「持統七年、歳は癸巳を次ぐ=癸巳の前年=壬辰年」であり、持統元年は丙戌年ということになる。
持統の癸巳年(左表)の四月朔日は、庚申であり、とすれば丁亥は二八日となって、持統が吉野宮から戻った日に関する矛盾は解消する。
つまり、『日本書紀』の持統八年三月条の「七年、歳次癸巳」は、持統元年を丙戌としている記述ということになる。
一方で、丙戌年は、天武没年である。天武没年と持統元年が重なることは、『日本書紀』の編述方針の大原則(踰年元年)とに抵触する。

持統即位前紀に次の記述がある。

朱鳥元年(丙戌年)の九月戊戌の朔丙午に、天淳中原瀛真人天皇(天武天皇)崩ましぬ。皇后、臨朝称制す。

つまり、天武没年は、持統称制の一年目ということになる。
とすれば、「七年、歳次癸巳」は、持統称制七年、癸巳の前年=壬辰年ということになって、つじつまが合うことになる。
つまり、「七年、歳次癸巳」は持統七年ではなく、持統称制七年なのである。

ということになると、持統四年正月条の次の記述が問題になる。

四年の春正月の戊寅の朔に、物部麻呂朝臣、大盾を樹つ。神祇伯中臣大嶋朝臣、天神寿詞読む。畢りて忌部宿禰色夫知、神爾の剣・鏡を皇后に奏上る。皇后、即天皇位す。

つまり、持統は、持統四年(庚寅年)に即位した、ということである。
とすれば、持統称制は、四年までで終わったということになる。
とすると、、「七年、歳次癸巳」が、持統称制七年ということが矛盾になる。
砂川氏は、これを教授就任三年目の教授の助教授歴が十年あった場合、その三年目を助教授十三年目と記述するようなものであって、あり得ない書き方だとする。
その通りだろうし、持統が持統四年の庚寅年に即位したことは事実でなく、もし即位したのならば、称制八年目以降ということにならざるを得ない。
つまり、癸巳、甲午、乙未、丙申のいずれか、もしくはいずれでもないか、であって、いずれでもない可能性、つまり持統は即位しなかった可能性が最も高いのではないか、としている。

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