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2008年1月24日 (木)

壬申の乱…(ⅳ)国体論

万世一系の皇国史観において、「壬申の乱」はどのように捉えられていたのだろうか?
里見岸雄『國體に對する疑惑』里見研究所出版部(1928年4月)という著書がある。
著者の里見岸雄については、今では知る人も少ないのではないか、と思う。
明治30(1897)年に、国柱会創始者の田中智学の三男として生まれ、早稲田大学を卒業後、イギリス、ドイツ、フランスに留学し、昭和11(1936)年に日本国体学会を創設した。
立命館大学法学部国体学科で教鞭を執り、戦後は憲法改正運動と国体護持運動に生涯を捧げた。歴史学、法学、哲学、宗教学に深い造詣を有し、生涯の著作は、英文、独文のものも含め200冊を超えるという(http://shikisima.exblog.jp/2286503/)。

里見の父の田中智学は、「八紘一宇」という造語を創作したことで知られる。
「純正日蓮主義」を掲げ、法華経を国教とした日本が世界を征服し、全世界を天皇を頂点とした1つの国家に統一することを意味していた。
軍部はこの思想を利用し、大東亜共栄圏の名目で、東アジア諸国を侵略した。
現時点で見れば、トンデモな危険思想のように思えるが、石原莞爾や宮沢賢治なども、国柱会の熱心な信者だった。
石原莞爾は、満州事変の立役者という印象が強いが、日中戦争の拡大には反対の立場だった。
宮沢賢治は、軍国主義やナショナリズムとは縁遠いように思われるが、24歳で国柱会に入会し、生涯会員だった。
また、かつて創価学会や公明党の唱えていた「国立戒壇の建立」も田中智学の発想だったことも付言しておきたい。

ところで、「国体」といっても、われわれの世代ですら、国民体育大会の略語と思うのが普通である。
しかし、皇国史観の中心的なコンセプトとして、さまざまな論議をされてきた。
悪名高い治安維持法(1925(大正14)年公布・施行)では、「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」と規定されており、1928(昭和3)年の改正では、構成要件が分離されて、「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者ハ死刑又ハ無期若ハ五年以上ノ懲役若ハ禁錮」となった。
つまり、国体を変革することを志向することは、死刑もあり得る重罪とされたわけである。

ただ、その「国体」の観念が、われわれにとっては、いささか分かりづらいことも事実である。
文部省編纂『國體の本義』内閣印刷局(3705)では、次のように解説されている。

大日本帝國は、萬世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が萬古不易の國體である。

要するに、天照大神が孫のニニギノミコトを降臨させるに際し、神勅を授けた。
それには、自分の子孫が、豊葦原瑞穂の国、つまり日本国を、未来永劫にわたって統治すべきであることが示されていた。
つまり、万世一系の天皇家の統治の正統性である。
神話に書かれていることが、近代国家統治の根本原理とされていたのだから、共同幻想というのは大きな力を持つものである。

しかしながら、このような国体論には、常識的な感覚で考えるとおかしなことが多々出てくる。
國體に對する疑惑』は、それらについてどう考えるべきかを説いた本である。
例えば、次のような「疑惑」に関するQ&Aである。
・天皇陛下の御真影に敬礼するは要するに偶像崇拝にあらずや
・天皇は何故神聖なりや

・我等は何故天皇に忠義を尽さざるべからざるか、忠義観念はつひに人の理性を昏昧ならしむる麻酔剤にあらざるか
  ……

これらのQについて、多くの人は、そもそも問題意識を持たないか、追求してみようという意識を持たない、一種の思考停止の態度だったのではないのだろうか。
尤も、現在だって、女性誌等において、芸能報道と皇室報道とは紙一重であり、「そもそも天皇制とは?」などと考える人は少数派のようである。
しかし、これらの「疑惑」に対して、里見岸雄は熱心に回答する。

里見の設定した問いの中に、「壬申の乱の如き忌はしき歴史あり、何を以て國體を讃美するや。」という項目がある。
「神州日本は萬國に冠たり」などと自讃自負するならば、「國史上の種々なる忌はしき事件は如何にして起り得たか」「國初以来君臣其別を守り、民は君を犯す無く、君は民を虐ぐる事なし、などゝいふ主張がいたる處に裏切られてゐるではないか」と問う。

そして、皇位継承に関するトラブルは、皇位継承候補者が一定していなかったから起きたのであり、その代表例が「壬申の乱」であるとする。
それは国体に対する無自覚に起因するものであり、それを解決したのが、明治天皇によって定められた「皇室典範」であるというのが、里見岸雄の回答である。
先ず「國體ありき」という自覚から出発しなければならない、という循環する論理で説くしかなかったことが、国体論を突き詰めていった結果だったということであろうか。

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