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2008年1月26日 (土)

天智と天武…諡号考

『日本書紀』においては、天智天皇と天武天皇は、同父同母の兄弟であるが、その関係を疑う論者は少なくない。
その1人が、歴史ミステリー作家の井沢元彦氏である。
井沢氏は、「偶然か? それとも…②大津皇子」の項に書いたように、折口信夫を探偵役にした『猿丸幻視行』で、1980年に第26回江戸川乱歩賞を受賞している。
『逆転の日本史』シリーズなど、日本史に対してユニークな視点を提供し続けている。

井沢式「日本史入門」講座 2 万世一系/日本建国の秘密の巻』徳間書店(0701)で、「天智と天武の関係は本当に兄と弟なのか」について、見解を披瀝している。
ところで、天智とか天武という名前は、死後に贈られる諡号であって、生前にそう呼ばれていたわけではない。
また、諡号も国風と漢風の2つがあり、天智や天武は、漢風諡号である。
漢風諡号は、奈良時代に、淡海の三船(養老6(722)年~延暦4(785)年)が、神武天皇から元正天皇までの全天皇(弘文と文武を除く)を一括撰進したとされている。

天皇諡号について、漢文に対する深い学識を基に論究したのが、明治の文豪・森鴎外であった。
その論考『帝謚考』は大正8(1919)年に脱稿、大正10(1921)年に図書寮から限定100部が関係官庁等に配布された。
現在は、岩波書店『森鴎外全集』に収録されている。
井沢氏は、『帝諡考』をもとに、以下のように解説している。

天智と天武の名前の由来は、中国の周の歴史書『周書』の記述に基づいている。
周王朝は、殷王朝を倒した武によって建てられた。
殷の最後の王だった紂(チュウ)王は、中国史上最も暴虐な君主だったとされる。
その紂王を自殺に追い込んで倒したのが臣下だった武だった。武から見れば、暴虐王を倒すのは正義だったということになる。
そして、紂王が自殺したときに身に付けていたのが、「天智玉」という宝玉だった。
紂王の死後、天智玉を手に入れたのが武王で、それが「天智」「天武」の諡号の由来である、ということである。

つまり、天智と天武の関係は、中国の紂王と武王の関係に相似している、という意味だということになる。
武王は、紂王を自殺に追い込んで王位についた。
しかし、天武は、天智の息子の大友皇子は討っているが、天智を討っているわけではない。
だから、天智と天武の関係は、紂王と武王の関係とは異なる、ということになるだろうか?

井沢氏は、そこに正史の建前論がある、と説く。
もし、天武が、天智も討っていたとしたらどういうことになるか?
天皇位にあった人間を殺したのだから、大逆罪である。もし大友が即位していたら、二重の大逆罪である。
天武が編纂を命じ、天武の息子の舎人親王が編纂責任者だった『日本書紀』が、その通りに記述するわけがない。
天智は病死し、その死後に、息子の大友皇子と弟の大海人皇子が争った。
つまり、皇子という対等の立場の人間の争いだった、という構成にした。
しかし、淡海三船は2人の関係を知っており、それで、天智と天武という諡号を付けた。

天智の陵は、京都の山科にある。
この時代の陵は、ほとんどが飛鳥にあるのだが、天智だけ離れて山科にあるのは何故か?
それは、天智の大津京への遷都と関係があると考えられる。しかし、だとしたら、なぜ、琵琶湖側ではなく京都側なのか?
『扶桑略紀』という平安時代に書かれた史料に、「山科の里に遠乗りに出かけたまま帰ってこなかった。山林の中で、どこで亡くなったのか分からない。それで、その沓が落ちていたところを陵にした」と書かれている。
その後も、天智の遺体は発見されなかった。
天智は、中国の紂王と同じように、殺害されたのではないか? 井沢氏の推理である。

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